第十章:変わらない日常
午後の日差しが傾き始めた頃、知花と真人は杏の家へ向かう道すがら、公園の前に差し掛かった。
「ちょっとトイレ……」
真人がもじもじと下腹部を押さえる。
知花は苦笑して、ベンチを指差した。
「わかった。すぐそこだし、ここで待ってるから早く行っておいで」
知花はベンチに座り、スマホを眺めていた。
渉からの新しいメッセージが届いていないか、無意識に画面を指先でなぞる。
真人がトイレへ駆け込んでから、わずか五分。
知花はふと、道の向こう側から自分を呼ぶような気配を感じた。
それは幻聴だったかもしれないし、通り過ぎる車が落とした影だったかもしれない。
彼女は吸い寄せられるように、公園の裏手にある細い路地へと足を踏み入れた。
五分後。
「ねえちゃん、待った?」
真人が駆け戻ると、ベンチは空だった。
「あれ? 先に行っちゃったのかな」
真人は首をかしげ、大急ぎで杏の家へと向かった。
いつもの通り道。
知花なら、きっと杏の家のインターホンを鳴らして待っているはずだ。
「杏ちゃん! ねえちゃん、来てる?」
真人が息を切らして玄関で尋ねると、出てきた杏が目を丸くした。
「ううん、来てないよ? 一緒じゃなかったの?」
「……え?」
その瞬間、真人の顔から血の気が引いた。
杏もただ事ではない空気を察し、すぐに母親である真由美を呼んだ。
事情を聞いた真由美は、即座に表情を硬くした。
「……知花ちゃんが、いない?」
真由美はすぐさま京華へ電話を入れた。
「京華さん! 知花ちゃんが……さっき公園の近くで真人と離れたっきり、姿が見えないの。杏と今すぐ探しに行くわ!」
京華の悲鳴に近い震え声が電話越しに聞こえた。
京華は震える手で、知花に持たせていたスマホのGPSを追跡するアプリを起動した。
だが、画面に表示された青い点は、大野家の自宅リビングを指し示していた。
「……置いてあるの? どうして」
京華はパニックに陥りながらも、大野家の宏樹に連絡し、近所の人々へ助けを求めた。
「うちの知花が……公園の近くで行方不明なんです!」
平和だった住宅街に、にわかに緊張が走った。
近所の人々が懐中電灯を手に集まり、京華の泣き叫ぶような声が響く。
そして、警察のパトカーがサイレンを鳴らしながら現場へと向かっていく。
真由美と杏は、公園のトイレの周囲を走り回っていた。
「ちかちゃん! ちかちゃーん!」
杏の叫び声が、夕闇の迫る路地に虚しく吸い込まれていく。
つい先ほどまで、確かにこの公園にいたはずの知花。
しかし、そこには彼女が座っていたベンチだけが、取り残されたように静まり返っていた。
警察が到着し、辺りにサイレンの音が響き渡る。
この公園の、この場所で、彼女の日常は断ち切られたのだ。
その事実だけが、誰にも告げられぬまま、静かに夜の闇へと溶け込んでいった。




