第一章:大野宏樹の日常
登場人物
父 大野宏樹(37歳)
不動産デベロッパーの営業管理職
母大野京華(34歳)
オンライン学習サービスの講師・スタッフ
姉・娘:大野 知花(9歳)
弟:大野 真人(6歳)
会社での長い一日が終わった。
不動産デベロッパーの管理職という肩書きを背負い、部下たちのミスをフォローし、理不尽な顧客の要求を捌く。
そんな一日の終わりに、大野宏樹にとって唯一の「息抜き」があった。
帰宅途中、名もなき公園のベンチに腰を下ろす。
カバンを傍らに置き、スマホを取り出す。
カメラ越しに見る世界は、仕事の現場よりもずっと穏やかに見えた。
夕暮れに染まるブランコ、長い影を落とす滑り台。
宏樹は熱心にピントを合わせ、シャッターを切った。
SNSのアカウント名「bike_chika_masato」。
アイコンは、数年前に家族で出かけた時の海辺の風景だ。
かつてはもっと風を感じるようなバイクの写真を撮っていたが、今はもう、日常の断片を切り取るだけで精一杯だった。
投稿した写真は、どれも似たり寄ったりだ。
『今日の夕暮れ。明日はもう少し穏やかな一日になりますように。』
送信ボタンを押す。
反応はいつものように、数個の「いいね」だけ。
それでも、それで十分だった。
誰にも邪魔されない、自分だけの小さな避難場所。
それがこのアカウントの役割だった。
家路に着くと、玄関には子供たちの靴が散乱していた。
「パパ、おかえりー!」
リビングから飛び出してきた6歳の真人が、宏樹の足にしがみつく。
その後ろから、9歳の知花が少しだけ照れくさそうに手を振った。
「パパ、今日ね、学校で図工の時間があってね……」
知花がランドセルから取り出したのは、少し不格好な工作の船だった。
「すごいな、知花。これ、ちゃんと浮くのか?」
「……うん。でも、本当は海に浮かべたかったんだけどね」
宏樹が微笑みながら工作を手に取ると、キッチンから京華が顔を出した。
「おかえりなさい。今日も遅くまでお疲れ様。……宏樹さん、少し疲れてる? 」
京華は宏樹の手元を見て、優しく微笑んだ。
宏樹の趣味を、彼女はいつも穏やかに肯定してくれる。
二人の間には、平凡で、何事もない平和な夫婦。
けれど、こうして子供たちの声を聞きながら、温かい味噌汁の匂いに包まれる時間。
それが、宏樹が守りたいと願う、等身大の幸せだった。
「ああ、今日はいいのが撮れなかったんだ。公園の遊具が、なんだか寂しそうだったからさ」
宏樹はスマホをテーブルに置いた。
画面の中の「bike_chika_masato」には、まだ誰の反応もない。
だが、目の前には、世界で一番価値のある「家族」という風景が広がっている。
明日もまた、会社に行き、数字に追われる日々が始まる。
それでも、この夜の食卓の灯りがある限り、自分は大丈夫だ――宏樹はそう信じていた。
SNS上の数字など、本当の自分たちの幸せとは無関係な「おまけ」のようなものだと、この時の彼は本気でそう思っていたのだ。




