もし犬
「ただいま」
うす暗い玄関から発した言葉は虚しく響いた。
一人暮らしの俺がマンションに帰ってきても「おかえり」という言葉は帰ってこない。
正確には一人暮らしではなく一人と一匹暮らしだけど。
ワン!と一つ大きな鳴き声がした。
廊下奥のリビングから一匹の小さな犬が走ってくる。
その犬は勢いよく息を切らせながら俺のところまで来ると
足に飛び掛かってきた。
「ただいまべス。良い子にしてたか?」
べスは少し乱暴に頭をなでる俺の手をベロベロとなめる。
「よし、散歩行こうか」
「散歩」という言葉に反応したべスはさらに強く尻尾を振り始め、その場でクルクル回り始めた。
「あはは、うれしいか!」
俺はべスを抱きかかえて外に出た。
***
チョコチョコと俺の隣を歩くべスを見ながら俺はいろいろなことを考えていた。
確かにべスを飼い始めてから家に帰ってさみしさに苛まれることは無くなった。
しかし、やはり人間のパートナーも欲しい。
帰ってきたら「おかえり」と言ってくれる女の子が居ればどれだけ俺の生活は明るく楽しくなるだろう。
2人暮らしなら、べスの世話も分担できるからすごく楽になる。
休憩がてら俺は公園のベンチに腰掛けた。
べスはベンチの上に飛び乗った後、俺の膝の上に座る。
「いっそのことお前が人間だったらな。メスだし」
頭から背中にかけてをゆっくりと撫でてやると
べスは気持ちよさそうに目を閉じていた。
***
次の日、残業でクタクタに疲れてマンションに帰ってきた俺はなんとか部屋の扉を開けた。
今日はもうべスの散歩に行く気力も残ってない。
「ただいまぁ」
玄関に明かりをつけた俺は力なく言った。
「おかえりなさい」
疲れでもうろうとしていた俺の意識は一気に鮮明になる。
ん?今おかえりなさいって……?
俺は一人暮らしだし、今家には犬しかいないはずだ。
まさか犬が「おかえり」と言ったわけだはないだろう。
じゃあ、誰だ?
自分の耳を疑っていた俺は今度は目を疑うことになった。
玄関奥のリビングに人影が見えたからだ。
俺は驚いて外に出てしまった。
いや、そんなはずはない。こんな厳重に警備されたマンションに泥棒が入ってこれるはずがない。
いや待て、泥棒だとしたらべスが危ない。
俺は一度息を整え、意を決してドアを開けた。
玄関の前の廊下には人が立っていた。
「おかえりなさい」
その人物は言葉を発する。
先ほど帰った時に聞いたのと同じ声だ。
「あの、どちらさまですか?」
「私は、貴方に飼われていた犬のべスでございます。いつもお世話になっております」
にっこりと柔和な笑顔のその人物がべスだとは、にわかには信じがたかった。
「そんなこと言われても信じられないんだが」
「昨日あなたは『いっそお前が人間だったらな』と私におっしゃりましたね。」
確かにそれは俺とべスしか知らない情報のハズだ。
そしてべス(仮)は続ける。
「あなたがそう願ったのと同じように、私も人間であれたら、と強く思ったのです。それがこうした不思議な現象を引き起こしたのでしょう」
そうか、そうだったのか……。
俺は両手で顔を覆った。
今にも笑い出しそうだった。
だって目の前にいる人物が老婆だったからだ。
俺の祖母と同じくらいの年だろう。
べスは10年前、このマンションに引っ越してきたのと同時に飼い始めた。
そう、この犬は老犬だったのだ。
確かにべスが人間になったらこれくらいのおばあちゃんになるだろう。ああ。
べスは俺の方に寄ってくる。
「さあ、いつものように私の頭を撫でてくださいませ」
俺はべスの両肩を掴んで止めた。
「よし、散歩行こうか」
「あい」
終わり
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