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9. G消滅作戦~in KANTO~

 それは、今から三週間前の、まだ残暑厳しい夜の事であった。


「あぁ……仕事疲れた……明日も早いんだよなぁ……あぁ、でも小説の続き書かなきゃ……ええと、あそこを直して、あのセリフを直して……」


 夜道。車のハイビームが歩道を照らす中、俺は会社帰りの道を歩いていた。

 何時もの毎日、変わらぬ日々。

 だが、その日の夜はいつもと違っていた。


「ただいまー……って、はは、誰もいねぇのに『ただいま』だってよ」


 アパートの1K。鍵を差し込んで回して開ける。もう、何百回やったか分からない、いつもの行動。靴を脱いで服を脱ぎ捨て、汗まみれの体をシャワーで流す。


「さて……と」


 帰りがけに買ってきたコンビニ弁当で夕食もそこそこに済ませて、俺は座椅子の上で胡坐を掻く。丸テーブルの上にこぢんまりと乗ったノートパソコンを立ち上げ、執筆にとりかかろうとした。


 まさにその時だった。『ヤツ』が姿を現したのは。


「ん……?」


 不意にケツの辺りに、何か固い感触を覚えた。なんだろうかと思って立ち上がり確認する。座椅子と同じ黒い体色。大きさにして二センチ強の虫が、座椅子の端に鎮座していた。


「ああ、カナブンか」


 虫の詳細な姿を良く確かめもせずに、俺は直感的にそう思った。何故かというと、俺のアパートの周りでは良くカナブンの死骸が散らばっていたからだ。過去に、部屋に二三匹紛れ込んだ事もあった。だから、『そう思い込んで』しまったのだ。


 カナブン程度なら、何も問題は無い。福島の実家にいたころはゲジゲジとカメムシと蟻が普通に廊下を這っていたから、カナブン如き、俺にしてみればどうってことはない。それ以前に、私は虫が好きだった。だから別に、カナブンを素手で捕える事に何の抵抗感もなかった。


 しょうがないな。俺はちょっとした面倒臭さを覚えつつも、その『カナブンらしき虫』を外へ逃がそうと手を伸ばした。


 その瞬間である。『カナブンらしき虫』が、大凡、カナブンにしてはありえない速度で四肢を動かして俺の手元から逃げ、あっという間に座椅子の下に潜り込んだのである。


「あれ。なんだ、カナブンにしてはやけに素早いな」


 訝しみながらも、俺は座椅子を持ち上げて虫の居場所を確かめる。


 虫はいた。だがそう認識した途端、また虫は逃げた。うかうかしていたら取り逃がしてしまいそうな速度でだ。


 その虫は俺の視界に収まるのを嫌がるかのように、ササッとテーブルの下を掻い潜り、ベッド近くの白い壁まで移動したところで、動きを止めた。


 俺は見た。

 凡そ虫というにはおぞましい程の造形。闇夜を思わせる深い黒。頭部から伸びて蠢く二対の細長い触覚からは全く何の意図も読めず、まるでこちらの動きを嘲笑っているかのようにも思えた。


「はぁ――!?」


 絶命寸前の断末魔にも似た声を上げる私。虫、というよりは『蟲』に近いヤツの姿を見て、私の大脳が凄まじい勢いで検索を始めた。過去のテレビ映像、写真、図鑑……それらの情報媒体の中で幾度と無く見てきた生物。だが、実際に生で見るのはこれが初めて。


 しかし、俺は確信していた。間違いない。この、人間の本能に直接語り掛けてくる恐怖と戦慄。そんな負のオーラを感じさせる『蟲』は、この世で、ただの一種類しかいない……


「ゴキブリッ!?」


 俺はとっさにその場を飛び退き、壁にはりついたまま微動だにしないゴキブリと、距離をとった。両者の間、およそ二メートル。


「は、初めて見た……こ、これがゴキブリ……そ、それにしたって」


 でかい。白い壁に張り付いているのもあるのだろうが、ゴキブリの黒々とした姿がやけに大きく見えた。大きさにして……およそ三センチほどであろうか。


「ち、ちくしょう!」


 逃がしてはダメだ。今、ここでヤツを『始末』しなくてはッ! 俺の執筆活動と日常生活に甚大な被害を与えかねんこの生命体を……今、ここで速やかに、『駆除』しなければならないッ!


 だが、そこで俺は別の事について考えていた。


「それにしてもこいつ……ど、どこから湧いて……ま、まさかッ!?」


 俺は不意に、視界の隅にあったゴミ袋を見た。四十五リットル一杯の生ごみ。それが二つ。


 迂闊だった。今朝ゴミ出しに行くのを忘れて放置していたこの二つの生活的老廃物。ここから漂う匂いを嗅ぎつけて、いずこからか現れたのか……!?


「い、いや、その辺りは別にいい……別に問題ではない。重要なのは、今、重要なのは、考えるべきことは……」


 この、目の前の壁に慇懃無礼として張り付いているゴキブリを、どうやって排除するかだ。


 敵と対峙し、これを排除するにはまず、武器が必要だ。俺は恐怖に怯える己の心を必死で抑えつけながら、ゴキブリから視線を外さず、手探りで『それ』を手にした。


 即ち、キンチョールを。


「で、でも、通じるのか……? キンチョールは確か、ハエには有効な力を発揮するが……ゴキブリに果たして……」


 そうこう考えているうちに、ゴキブリが再び動き始める兆候を見せた。緩慢だった触覚の動きがやや早くなり、細い前足を一歩踏み出そうとしているのが目に入った。


「や、やばい!」


 焦った私は考えるのをやめ、夢中でキンチョールを噴射した。しかしキンチョールからは、気の抜けた炭酸のような空音が出続けるだけ。殺虫霧は一ミリも噴射されていない。


「な……空……だと!?」


 やばい。何がやばいってキンチョールの中身がなかったのもそうだが、気が付けばゴキブリが既に天井付近まで移動している。なんて素早さだ。流石は数億年も前から生き延びてきた種族。


「くぅ……!」


 それは苦渋の決断だった。唯一の武器であった筈のキンチョールが役立たずとなった今、俺に残された手段は戦術的撤退のみ。つまり、ゴキジェットを買いに近場のコンビニまで走るしかない。


「そ、そこを絶対に動くんじゃないぞ……いいか、貴様がもし、そこから一ミリでも動いてみろ……凄惨な死を、そのどす黒い体に見舞ってやるからな……!」


 聞いているのか聞いていないのか。壁に張り付いたままのゴキブリは素知らぬ顔をしていた。小憎たらしい思いに駆られながらも、俺は財布を毟る様に取って部屋を飛び出し、近場のサークルKサンク○へ向けて走り出した。


 時刻は既に夜の十時過ぎ。道行く人影は一つもなく。それが恐怖と戦う俺の心を、余計に心細くさせた。


「いらっしゃいませー」


 走り続けて十分後、俺はサークルKサンクスに跳び込むようにして入ると店員の声を無視し、迷うことなく生活雑貨のコーナーへ向かった。


 あった――神の武装。悪魔を屠り去る近代兵器・ゴキジェット。


 念の為に二本購入した俺は手早く会計を済ませて、またもや飛び出すようにしてコンビニを後にした。生暖かい夜風がまとわりつくように俺の体にはりつく。足が重い。クソ、日頃の運動不足がここで響いてくるとは……


「くそったれ……ゴキブリ……Gめ……」


 止めどなく溢れ出る恨み節。ゴキブリに当初抱いていた恐怖心は、いつしか凄絶なる恨みへと昇華していた。


 G――ゴキブリの事のことをその符丁で呼ぶことは知っている。だが俺にしてみればGと聞いて思い浮かべるのは、ゴキブリではなくゴジラだ。日本が世界に誇る特撮映画の怪獣だ。


 そこで俺はふと、今の自分が置かれた状況を考えてみた。何の前触れも無く我が家に侵入し、甚大な被害をまき散らすG。その有様は、突如として日本列島に現れ、街を破壊し尽くしてゆく怪獣王・ゴジラに通じるものがあるのではないか。


 そして俺の手に握られた、白い煙――殺虫霧を出す兵器。これは、そう、ミクロオキシゲンだ。つまり、オキシジェン・デストロイヤーと考えていい。


 なら、今の俺はさしずめ、ゴジラ抹殺の為に禁断の兵器を使用しようとしている芹沢大助博士か? そう思うと、何だか自分が偉大な存在になったような気分になるから不思議だ。


「待ってろG……いや、ゴジラめ。このオキシジェン・デストロイヤーで、貴様の体を溶かし尽くしてやるわッ!」


 勝つ。必ず勝てる。あのオキシジェン・デストロイヤーを手にした今の私には、何人たりとも敵う事はあるまいて。ゴジラが大好きな私は、特撮映画の登場人物に己を重ねつつ、意気揚々とアパートへ駆け戻った。


しかし――現実は、そう甘くは無かった。


「い、いない――だと!?」


 馬鹿な。何故だ。有り得ないぞ。

 つい十数分まで確かに壁に張り付いていたのに。あれだけ『動くなよ』って念を押したはずなのに。ゴキブリは、Gは、ゴジラはどこにもいなかった。真っ白い壁の、どこにもいなかったのだ。


「ち、ちくしょう! ちくしょうちくしょうちくしょう!」


 もう、パニックになるしかなかった。

 ベッドの下、部屋の四隅、本棚の裏、クローゼットの中、テレビの裏、便所、台所、バスルーム……思いつく限りの場所へ、俺はトチ狂ったかの如くゴキジェットを浴びせた。瞬く間に白い煙に包まれる1Kの部屋。


 ゴキジェットの中身を半分ほど消費したところで、俺は耳をそばだてた。微かな音がする。まだヤツは生きている。だが、肝心の姿が見えない。足元や天井を注意深く観察するが、いない。念のためにゴミ袋の中も確認してみるが、そこにもいない。


 どこにも姿は無い。しかし、聴覚を研ぎ澄ませば確かに聞こえる、カサカサという響き。


「くっそ……」


 俺は絶望的な気分になって、ベッドに腰かけた。途端に、乾いた笑いが漏れてくる。


 何をやっているのだろうか。たかだか蟲の一匹に怯え、慌て、慄き、やっとの思いでオキシジェン・デストロイヤーを手にしたというに、肝心の標的が現れないとは……何という茶番であろうか。


「パトラッシュ……僕はもう疲れたよ……」


 力なくベッドへ横倒しになる俺。もう、全てがどうでも良くなった。

 構わないさ。

 たかがゴキブリじゃないか。

 別に殺されるわけでもあるまいし……見つからないんだったら、もう、諦めてしまった方が楽だ。

 忘れてしまえばいい。

 そうすれば、こんな苦しい思いをしなくても済むんだから……


 絶望と諦めが、胸の内を支配していく。

 しかしながら、世の中とは得てして奇妙な成り立ちで出来ている。

 そういう『絶望』の中に、『希望』の光が差し込むようにシステムされている。


 俺は殺虫霧で包まれた息苦しい部屋の中で、その『希望』の光を――捉えた。


「……あ」


 目の前の壁。丁度、エアコンが備え付けられた窓際の壁の一角に、ヤツがいた。


 黒々とした化け物。人類を恐怖のどん底へ叩き込まんとする、絶大な負のオーラをまき散らす害蟲。遥か古代より、人類と戦いの日々を繰り広げてきたおぞましき生命体が、今、目の前五メートルの地点にいる。


 刹那、燃え尽きかけていた俺の闘争心が、メラメラと輝きと熱量を取り戻し始めた。好機は目の前にぶら下っている。これを逃してはいけない。これが、俺に与えられた最後のチャンス。


 気持ちを新たにしてベッドから飛び起きる。物音を立てずに、俺はゴジラへ近づいていく。右手にオキシジェン・デストロイヤーを固く握りしめて。


 四メートル……三メートル……まだゴキブリは、いや、ゴジラは動かない。


 二メートル……一メートル……


「そこだぁぁぁぁ!」


 絶叫と共に、開戦。

 狙いを定めてオキシジェン・デストロイヤーを噴霧!


 命中した。ゴジラは生命の危機を察したのか、素早く撤退。エアコンの裏へと逃れる。だが、もう逃すわけにはいかない。俺はオキシジェン・デストロイヤーのノズルをエアコンの裏へ差し込むと、ありったけの力を込めてトリガーを引き続けた。


 そうして数秒の後、ポロッとフローリングの床に、息も絶え絶えなゴジラが落ちてきた。大分ダメージは与えたが、それでもまだ生きていやがる。


 しぶとい。しかし勝機あり。


「死ねえええぇぇぇぇ!」


 恐怖、歓喜、安堵。それらの感情がない交ぜになって、オキシジェン・デストロイヤーを浴びせ続ける、見る見るうちに生気を失くしていくゴジラを、俺はどこか、冷静な心持で眺めていた。


 そうして、幾秒か、幾分かの刻が過ぎ去った。

 俺の部屋を脅かした元凶は、完全にこの地上から生命の灯を消した。


 勝った。人類の勝利。


 だがしかし、俺は勝利の余韻に浸るよりも、脳裏にぼんやりと浮かんだ懸念の方へ意識を向けていた。


「あのゴキブリが、最後の一匹だとは思えない……もし部屋の掃除を再び怠る時があれば、あのゴキブリの同類が、また、我が家の何処かに現れてくるかもしれない……」


 2015年9月現在。俺の部屋には、まだ同類のゴキブリは姿を見せてはいない――






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