059_20231026
失敗から学ぶことは多いということはそれは実質失敗ではなかったことにならないかな?
何か得られるならそれは前進であるし、利益が出ているということであるし、いやまあ、目的とする予想していたものが手に入らなかったという点では、やはりダメであるのか?
何もなくとも、少なくともこのやり方はダメであったという経験とか学習が残るのでヨシという感覚であるのであろうかな、いやまあ、前例がどこかに既にあるならば、それはそれで無駄であったのか?
その失敗を自分自身で行なったことに意味があるという言い方もできるのかな、こう強烈な印象が残るので、良い学習になったとか、致命的な失敗でなければ結構、なんとかなるのではなかろうかと思うんだよね。
で、致命的な失敗ってそうないよね。最悪の結果ってなんであろうかというと、命がなくなること、ではありそうだよね、というか、普通はそれだよね。
自分にせよ相手にせよ、不可逆な状態に持っていってしまう、それが不利益側に傾くと、それは致命的な失敗と言えるんじゃないかな?
いやまあ、相手の命を奪うことが成功の行為もあることはあるので、意図しないで何かを成して、それが、どうにもこうにも不利益が大きすぎて、リカバリが効かないというものが、致命的な失敗と読んでいいんじゃないだろうか?
個人の生き死にではなくて、人類とか文明とか世界とか、そういうものが滅ぶ選択をしてしまうことがいけないのではないかとか、話題を、主語を大きくしてみるわけだけど、それって、個人の行動でどうにかなるものであるのか?というと、ちょっとそういうわけではない気がするなぁと。
フィクションの中では結構個人の行動が世界の危機に直結することはあるけど、現実だとそうはならない、よね?
事実は小説より奇なり、とか、現実に負けてしまうフィクションがあるという事例が既にあるので、実のところ、既に、世界滅亡へのフラグを持つ個人というものが存在しているとか、存在していたけど、結果としてうまく回避できたとか、絶望フラグが立たなかったとか、そういうことも、あるかもしれないという。
私の知らないところで世界が終わる要因が動いているということがひたすらに怖いという、そういう恐怖症はありそうではあるかなぁ?
考えすぎではあるだよね、考えてもどうしようもないことではあるから。
ただ、自分が実は鍵を握っている、つまりはキーパーソンであるかもしれないという認識を持って、行動することは、実のところそれほど損はないので、実践してもいいのかもしれない。
いやこれ厨二病では?
今日はここまで。




