第1話:長い歩みの果てに
第1章:凍てつく芽吹きと、長い旅の終わり
第1話:長い歩みの果てに
風が、狂おしい悲鳴を上げて荒野を吹き抜けていく。
天蓋を覆い尽くす鉛色の雲から撒き散らされるのは、肌を裂くように尖った氷の粒だ。視界のすべてを白い狂気が覆い尽くす極北の果て。かつて世界そのものを解体しかけたあの神魔の決戦——理を巡る神々のシステムと、世界の毒を飲み干した悪魔との死闘から、どれほどの刻が潰えただろうか。
およそ一年と半年、あるいは二年。
正確な暦など、とっくに数えるのをやめていた。ただ刻みつづけてきた月日の数だけ、靴底を通して感じてきた泥や砂の感触があり、冷たい夜に背にしがみついてきた無音の絶望があった。
白髪の女騎士——ヒルデは、猛吹雪の白闇のただ中にポツリと佇んでいた。
深く被ったフードの隙間から吐き出される呼気は白く凍りつき、即座に寒風の中へと掻き消えていく。身に纏った革の外套は吹きすさぶ風に叩かれてバタバタと重い音を立て、革のブーツはすでに幾度も靴底を貼り直し、擦り切れた縁には過酷な旅路を物語る塩と泥の痕が白くこびりついていた。
背に担いだ身の丈ほどもある無骨な大剣。その重みだけが、共に幾多の修羅場を潜り抜けてきた変わらぬ相棒として、彼女の背骨に冷たく寄り添っている。
ふと、ヒルデは歩みを止めた。
寒風に晒された素肌が凍てつくのも厭わず、彼女は厚手の皮手袋を噛んで外し、左腕の袖を静かに捲り上げる。
そこに現れたのは、何重にも巻き付けられた古びた包帯だった。
かつて、この腕には世界を滅ぼすほどの呪いが宿っていた。肉を蝕んでいた漆黒の異形の爪。世界の歪みを喰らい続けた暗い孔。そのすべてはあの決戦の朝、朝光の中で消え去った。今、包帯の奥にあるのは、激戦の焔が激しく刻み込んだ不格好な傷痕を抱く、赤く温かな「人間の腕」に過ぎない。
けれど。
——トクン。
皮膚の底、骨の隙間、血の流れる静かな水脈の深淵で。
凍てついた身体とは裏腹に、じん、と熱い脈動がひとつ、重く打った。
(……近い)
自身の心臓が刻む一定の律動とは異なる、いとおしいほど拙く、けれど確固たる生命の拍動。
あの日、萌芽に満ちた地平の果てへ弾けて舞い降りた「命の種子」。
東の極北から泥の街、打ち捨てられた廃墟や古代神殿の跡地まで。地図すら存在しない世界中を泥臭くださり這い回り、聞き込みを重ね、幾度も手繰り寄せかけては途切れた運命の糸。諦めそうになる夜は幾千とあった。この胸の中の脈動すら、己の執念が見せる幻覚なのではないかと疑った夜もあった。
だが、違った。糸は切れていなかった。
脈動は今、眼前に聳え立つ巨躯——雲を穿つほどに高く、永久凍土に閉ざされた『極寒の霊峰』の深層から、はっきりと響いていた。
「待たせたな……影」
包帯の上から左手首を愛おしそうに抱きすくめ、ヒルデは掠れた声で呟いた。
あの日、朝光の中で交わした独り言のような誓い。「どれほど小さくなろうと、逃げ切れると思うなよ」と吐き捨てた言葉を胸に抱き続けたまま、彼女はただひたすら歩みを進めてきたのだ。他人が見れば狂気と笑うかもしれない。けれど、彼女にとってその約束だけが、あの日々を生き抜くための唯一の灯火だった。
膝まで埋まる深い雪を押し分け、一歩、また一歩と霊峰の足元へ近づく。
歩みを進めるにつれ、左腕の奥の熱は「ここにいる」「早く来い」と叫ぶように激しさを増していく。
だが、霊峰の隘路——目指す氷洞の入口へと繋がる蛇行した山道を見上げた瞬間、ヒルデの双眸が静かに冴え渡った。
猛吹雪の白い狂気の中、静まり返っているはずの霊峰の麓に、異質な殺気が立ち込めている。
遠目にもわかる黒い儀礼服の上に、重厚な銀の魔導甲冑を纏った一団。かつて世界を支配しようとした神聖システムの残滓を追い、今なお世界中に監視の網を張る『聖導機構』の先鋭部隊だ。その手には、寒冷地には不釣り合いな高出力の捜索魔導器が握られ、氷床に向けて怪しい魔力光を照射していた。
「……嗅ぎつけたか」
ヒルデは長く重い息を静かに吐き出すと、背の大剣の柄へゆっくりと指をかけた。
あの氷洞の奥に、自分が二年近く探し続けた相棒がいる。
誰にも渡さない。神のシステムにも、世界の理にも、二度とあいつを奪わせはしない。
吹きすさぶ風の中、白髪の女騎士は静かに大剣を抜き放った。
(第2話へ続く)




