⑦
去っていた仲間を呆然と見送り、俺は何故か腕に抱きついてくる歩美に視線を落とす。その目は何が嬉しいのかキラキラと輝き、俺の腕を離すつもりはないのかさらに腕を強く掴んでくる。
分からない。俺には状況が全然分からない。俺の唯一の武器かもしれない頭脳を以ってしても、この状況の説明がまるでつかなかった。ただ、一つ言えることがあるなら、エドガーだけでも研究室に向かうことが出来たということ。つまり、椿とカティさんを救い出せる可能性が出てきた。確かに見捨てられはしたが、これはある意味でラッキーなのではないだろうか。俺たちの目的は、あくまで椿とカティさんの救出だ。別に敵を倒すことではない。うん、これはラッキーだ。エドガーがすぐにでも椿たちを助けてくれることだろう。
だが、覚えてろよ、エドガー。帰ってきた暁には、この恨みを倍にして晴らしてやる。
「柊くん柊くん、わたしが誰だか分かる?」
エドガーへの恨みを沸々と煮えたぎらせていると、唐突に腕に纏わりついた歩美が俺から距離を取り、その場で一回転してみせる。くるりとスカートの舞うその姿は、絵に描いたような愛らしさがあった。
「誰って……歩美、って言うんだろ、君」
「のんのん! あらら、覚えてないかぁ。んー、でもしょうがないよね。姿、違ったしぃ」
「姿?」
歩美の言っていることがまるで俺には分からなかった。覚えていないも何も、こんな少女と出会った記憶はあいにく俺にはない。さっきから馴れ馴れしく絡んでくるが、こんな少女は見たことも無ければ、声を聞いたことも無かった。
だが、俺はそれがすぐに間違いだと気づく。
不意に歩美の姿が陽炎に揺れ始め、俺は慌てて距離を取った。“識者の叡智”を開き、術の発動を確認する。だが、そこには何も書かれていない。おかしい。この“識者の叡智”が魔力の流れを見逃すはずが無い。
「君のそれ、中々に便利だけどさぁ、記述を読む目はあくまでも君の認識によるよね。だからさ、わたしを見た時点でそれを操られてる君には、もうその力は使えないんだぁ」
歩美の姿がどんどん粘土細工のように折れ曲がり、歪に姿を変えた末、それは現れた。
そこには、如月先輩が立っていた。眼鏡を外した如月先輩の姿が、そこにはあった。
視界の先には、奥の方にもう一人の眼鏡をかけた如月先輩が立っている。だが、目の前にももう一人、如月先輩がいる。あり得ない事態だ。同じ人間が二人いるなど、普通ではない。それにさっきまでの歩美と如月先輩では姿形がまるで違う。顔立ちだけではなく、身長までも変化しているのだ。
答えを見つけようと“識者の叡智”を見るが、やはりそこには何も書かれていない。記述は無く、ページは真っ白なままだ。魔術を使われている形跡は欠片もない。
「なにが、起こってるんだ……」
いや、待て。思考を変えろ。さっき、歩美は言っていた。記述を読む目は俺の認識による、と。それはつまり、俺の視覚を操っているということか。しかし、いつの間に。この部屋に入った時点で魔術の発動はなかったし、如月先輩たちと会ったときにそう間を置かずに“識者の叡智”を顕現した。魔術を発動する隙など無かったはずだ。
違う。思い出せ。歩美がもう一つ言っていた。わたしを見た時点で、と。それが魔術の発動のキー? いや、そんな便利な魔術があるわけが無い。対象を見た時点で罠にかかるなど、それはいくらなんでもあり得ない。だが、もしそれがあるとするなら、歩美は何らかの力を有していたと言うことになる。力を持つ人間、それも一目見ただけで相手を術にかける。やはり、そんな者がいるはずがない。ならば、人ではない? いや、俺は何を言っている。見た感じは人だ。喋り、会話もしていたではないか。会話? そう言えば、さっきエドガーと話していたとき、眼鏡をかけた如月先輩が妙なことを言っていなかったか。
『エドガーと組まれたらどの道わたしに勝ち目は無い』
わたし? 何故単数形だ。歩美もいるのに、人数に数えない理由は無い。であれば、数えるられる存在じゃない? 人間ではなく、如月先輩単体としてある一つの力――見ただけで相手を術にかける、能力。
ある。一つだけ。術の発動すらも検知させず、条件次第で見ただけで相手を術中にはめる力を持った物が一つだけ。
「シュトラーフェ、なのか……?」
「「せーかい、柊くん」」
二人の声が、重なった。
やがて如月先輩の姿を取っていた歩美の姿がまた歪に揺れ、その姿を変えていく。そうして現れたのは、人間の形をしたマネキンのような何かだ。のっぺりとした顔を持ち、確かな関節部を持ったそれは自力で立ってそこにいる。
「パペットドール、それがこの子の本当の名前」
「けど、そんな機能性だけの名前は嫌だから、わたしは歩美って名前を貰いましたぁ~。その力は、もう気づいてるよね?」
如月先輩に続いて、パペットドールが声を放つ。いや、本当に声を放っているのかどうかも怪しい。このパペットドール、その能力の正体は、ただ一つだ。
「五感の、支配?」
「そゆこと」
冷や汗が流れ始める。自分で言っておきながら、俺は信じられなかった。そんなシュトラーフェが在っていいのだろうか。五感を完全に支配するなど、それも見ただけで能力が発動するなど。そんなものにどう対処すればいい。
だが、完璧な力ではないはずだ。エドガーをあえて見過ごしたんだ。勝ち目が無いと言っていた以上、そこまで便利な力ではないはずだ。
「考えてる考えてる。分かるよぉ、柊くんのぉ、き・も・ち。けど、あんまし意味ないかなぁ~」
耳を通して聞こえてきているのか、脳に直接その情報を叩きつけられているのか。判断のつかない不気味な感覚の中、俺は先輩から距離を取る。まず、第一の検証。距離の有無だ。もしかしたら、距離感に応じて能力は解除されるかもしれない。
「あー、見えてる限り意味無いよぉ。ほら、契里くんが帰ってきたって呼びに行ったとき、結構遠くから君に声かけてたよねー」
なるほど、やっぱりあれは如月先輩ではなく、この歩美とか言うシュトラーフェだったわけか。
歩美の指摘を受け、俺は距離を取ることを止めると、その視界を本で覆ってみる。これなら歩美が視界に入ることは無いはずだ。もし、目に入れ続けることが五感の支配の条件なら、この状態で“識者の叡智”を開けば記述が読めるはずである。
「くそ、これも駄目か」
「一度でも視界に入れれば、力を解くまで効果は持続するよぉ」
「歩美、ペラペラと喋り過ぎ」
如月先輩はそう苦言を呈す。俺はそのことが不思議に思えた。シュトラーフェとは、術者が操って初めて機能するものだ。だが、先輩の物言いは、まるで歩美が自律行動を起こしているようである。もちろん、そうしたシュトラーフェの例が無いわけではない。俺の“識者の叡智”も稀にだが判断を仰いでくることはある。しかし、ここまで人間味溢れる性格はしていなかったはずだ。
このシュトラーフェ、本当に人格のようなものがあるのか。
「あるよ、人格」
「………………っ!」
不意に耳元で声をかけられ、俺は慌てて飛び退った。そこには、いつの間にか如月先輩が立っている。その傍らには、歩美も並んでいた。その姿は、いつの間にか少女のものへと戻っている。本で目隠ししていたせいで気づかなかったのだ。
「パペットドールは、人格を持つシュトラーフェ。変に幼稚でしょ。生まれてから数年しか経ってないもの。まだほんの六歳児」
「……心まで、読めるんですか?」
「精神の支配は、『識』の魔術の基本。まぁ、今のはなんとなくそんなこと考えてるんだろうな、って思っただけだけど。ねぇ、もう勝てないことは分かったよね? なら、手を引いてくれると嬉しい」
手を引け? はは、笑わせる。
俺は深呼吸をして心を落ち着け、“識者の叡智”を強く握り締める。こんなところで足を止めるわけにはいかない。手を引けなどと、そんな言葉に頷くわけにはいなかない。
「妹が浚われたんだ。黙って逃げられるわけないだろ」
盛大な啖呵を切り、俺は拳を構えた。女は殴れないが、相手がシュトラーフェだと言うのなら別だ。それに良いことも思い出した。あのコロッセオで襲撃されたとき、エドガーの断罪の雨によって歩美の姿は浮き彫りになった。あの時、確かに『識』の魔術はエドガーの魔力によって阻害されていたのだ。俺にあれほどの魔力を叩きつけることは出来ないが、このシュトラーフェの影響を解く鍵になるかもしれない。
「そう。なら、少し眠ってもらおうか。歩美」
「えぇ~、柊くんと戦うのやだぁ。ゲームしようよ、ゲーム」
「歩美」
「はぁ~い。ごめんねぇ、柊くん」
来る。今、完全に歩美の雰囲気が切り替わった。陽気なそれから、邪心のようなものが溢れ出している。笑みはすでに形だけのものとなり、その胸の内に宿すどす黒い何かが表れていた。
歩美は、五感を操るシュトラーフェだ。直接的な攻撃能力は無いはずである。
だが、次の瞬間、鋭い拳の一撃が俺の頬を抉り飛ばした。受身も取れず床に叩きつけられ、勢い余った力のせいで床を滑っていく。
まるで見えなかった。拳が叩き込まれる瞬間も、歩美の動き出しも。早いとかではない。五感を支配され、知らぬ間に拳を叩き込まれた。おそらく、拳自体はあのパペットドールのものだろう。痛みはあるが、精々が男に殴られた程度の痛みだ。エドガーの拳に比べればなんてことはない。しかし、それは一発であればの話。こんなものを受け続ければ、さすがに意識を保っていられるとは思えない。
血の流れ出した口元を拭い去り、立ち上がる。そこには、遊ぶようにファイティングポーズを取る歩美がいた。
「あらら、立っちゃった。寝ていてくれればKOだったんだけどなぁ」
“識者の叡智”は使えない。相手の力を防ぐ術もなく、強引に攻撃へ転じる方法もない。しかし、今なら少し分かる。如月先輩が言っていた、エドガーに勝てないと言う意味。あれは、単に断罪の雨を四方八方に降らされれば、勝ち目が無いと言うことだったんだ。何故なら、このシュトラーフェには一つだけ弱点があるのだから。
歩美の奥。後ろに控えるようにそこには、如月先輩が立っている。その姿は、確かにそこにあるのだ。では、何故そこにいる必要があるのだろう。俺と歩美が会ったとき、彼女は自律行動していた。如月先輩がその場におらず、それはコロッセオで襲撃されたときも同じだ。歩美は、恋と椿を単体で襲った。にもかかわらず、今は遠隔で操作せずにこの場にいる意味は何だ。それは、この地下の構造を踏まえれば分かる。ここは一直線の道なりで、隠れる場所などどこにもない。もし、如月先輩が歩美を切り離して自動で俺たちを襲わせた場合、エドガーは間違いなく断罪の雨で易々と突破しただろう。そうなれば、奥に控える如月先輩とまた向かい合うことになる。無意味なのだ。エドガーがいる以上、如月先輩と歩美を切り離して行動させることは無意味だった。だから、わざわざ二人で俺たちの下へ赴き、エドガーだけを逃がしてみせた。その上で自ら姿を現し、俺と対峙している。
おそらく、如月先輩は自身の姿を隠せないのだろう。今も常に歩美に守られるように背後を取り、俺と向かいっている。歩美の五感の認識は、俺に“識者の叡智”の情報を誤魔化させ、歩美の姿を俺の意識から切り離して見せた。それにそう言えば、カティさんは、“爆轟の奏歌”を見えなくされたのではなかったか。だが、如月先輩の姿を隠そうともしていない。姿を見せなければ、術者本人が襲われることはないにもかかわらず、だ。
その上で俺が見てきたただ一つの共通点と示し合わせれば、ある結論が出せる。彼女の力は、あるものの認識にのみ作用している。
「五感の支配なんて……嘘っぱちじゃないですか」
「…………………」
「あんたの力は、シュトラーフェの認識を誤魔化すことにある」




