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テレフテア・アポカリプス  作者: ほざお
第三章 兄妹
19/215

「な……」

 全く予期しない男の登場に、俺は呆けたようにそれを見ていた。

 カティさんを襲う凶刃からその身を庇った男は、エドガー・ブレイズフォード。カティさんとは浅からぬ因縁を感じさせるそいつは、素手で無造作に契里先輩の攻撃を封じ込めている。契里先輩が手を緩めているようには見えない。おそらく、全力を込めて突いていることだろう。だが、そのは手はピクリとも動いていなかった。全体重をかけている先輩に対し、エドガーの方は横から手を伸ばして掴んでいるだけだ。つまり、単純な握力だけであの突きを止めている。

 異常な光景だ。どれほどの力があれば、そんな芸当が出来るのだろうか。

 エドガー・ブレイズフォード。初めて見たときにも感じた威圧感は、虚構ではない。

「……エドガー」

「聞いているんだ、契里。お前は何をしている?」

 契里先輩の表情に初めて焦りが浮かぶ。エドガーの鋭い瞳に当てられ、唇を噛み締めた。しかし、その瞳は未だ殺気を宿している。決して手を緩めるつもりはないのか、踏み込んでいた足を微かに動かし、次の攻撃に備えているのが見えた。

 俺には、二人の関係性が分からなかった。エドガーは、味方なのか。妹であるカティさんを救ったという事実を見れば、俺たちの味方なのかもしれない。だが、エドガーの浮かべる冷徹な表情が、味方だと安易に決め付けることを拒ませる。

 俺に抱きついた姿勢で様子を見ている椿の肩を叩く。椿は一つ頷くと、二人に気づかれないように姿勢を変え、次の行動に備えた。何があっても動けるように力を溜め、一瞬の動きも見逃さないように警戒する。

「何を、ねぇ? 見りゃ分かんだろ。てめぇの妹を連れて行こうとしている最中だよ」

 契里先輩のそんな言葉を聞いても、エドガーは眉一つ動かさない。自分の妹が危険に巻き込まれているというのに、そのことに対する憤怒や憎悪と言ったものは微塵も見せない。ただ淡々と事態を理解し、状況の把握に努めているようだ。

 その時、エドガーの武器を握る手の力が不意に緩まる。それを好機と捉えた先輩が瞬間的に突きの姿勢へ移行する。

 だが、その身体が動くことはなかった。

「ぐ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 先輩の足元、突きのために踏み出した足の甲から突如として血が流れ出す。それが何によるものなのか、俺には全く分からないが、傷ついた足はまるで地面に縫い付けられたかのように動きを止めている。

 傷口から血は絶えず流れ出し、地面を赤く染め上げる。昨日見た不可解な光景と同じ、まるで見えない攻撃だ。その攻撃が今、契里先輩に襲い掛かっている。

「こいつのことは俺に任せろと言ったはずだ。お前は何を勝手をしている?」

「こ、んの……エドガー……ッ! ぶっ殺――」

 悪態を吐こうとした契里先輩の頬にエドガーの鋭い蹴りが突き刺さる。その蹴りの動きは、まるで見えなかった。ただ鈍く重たい音だけが響き、契里先輩の身体が吹き飛んでいく。先輩は民家の塀を突き破り、その中へ転がり込んでいった。

 距離にして……数メートルは飛んだぞ……。

 もはや人間業とは思えない。クラティアが常人離れしていることは理解していたが、こうして改めて目にすると驚愕の一言に尽きる。だが、今はそんなことで驚いている場合ではない。目先の脅威が退けられた今、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかなかった。椿と頷きあい、カティさんに駆け寄る。

 カティさんは、エドガーの後ろで放心したように兄の背中を見ている。驚き、怒り、喜び、恐れ――そのどれもが入り混じって表情を無くしたような、そんな顔で彼女は兄を見定めている。果たして彼が味方か、あるいは敵か。

 カティさんを守った以上、敵ではないという判断が妥当だろう。しかし、昨日の様子を見る限り、カティさんをただ守るために助けたとも思えない。むしろ何か、裏がありそうな気がしてならないのは何故だ。

 そこで俺は、やっと気づく。

 目だ。冷たく鋭い、それでいて何を希求するような熱を秘めた瞳。その目は、まるでさっきまで戦っていた契里先輩と同じでありながら、更なる力強さを窺わせるのだ。

 この男は、同種だ。あの契里直哉と本質的に同じものを宿している。

「エドガー……どうして」

 疑問を孕んだカティさんの口調に、エドガーは何も答えなかった。ただ振り返り、泣き出しそうなカティさんを見ている。

 その目には、妹に対する優しさなど微塵も無かった。

 手に持っていた“識者の叡智(アルヴィスナハイト)”が淡い光を宿す。反射的にそのページを捲れば、そこには複数の文字が躍り出ていた。その内容を読み取り、俺は目を見開く。

 “識者の叡智”は、対象の魔力を検知し、その流れを感知し、それによって成される術式を看破する。それは単純な魔術のみならず、シュトラーフェでも例外ではない。魔力を形にする武装がシュトラーフェである以上、その顕現の動きを読み取れば、それは“識者の叡智”に浮かび上がる。

 つまり、今、俺はエドガーのシュトラーフェの顕現を感知した。

「――出ろ、トラヴィアータ」

「逃げろッ!!」

 カティさんの表情が一瞬にして切り替わり、後ろに飛んで距離を取る。同時にアオス・ブルフの炎を身に纏うことで攻撃に備えた。その流れるような動きは、完全な反射で出来るものではない。まるで予め予期していたかのように全身を包囲する完全な守りだ。

 だが、エドガーは表情一つ変えずに右手を振るう。相変わらず武器の姿はまるで見えないが、その動きに沿ってカティさんの纏う炎が切り裂かれた。それはカティさんの身体にまで達し、その身体に浅い傷を付ける。

「なるほど……以前より炎の密度は増したわけか」

 何かを測るように呟きながら、エドガーは手を戻す。だが、それは決して攻撃の手を緩めたわけではなかった。

 “識者の叡智”に目をやる。そこには、エドガーが展開するトラヴィアータの情報が明確に記されている。その魔力の流れ、どこに顕現するかも含めた細かい内容の全てが視える。

「椿! ミュールを張れ!」

「はい!」

 俺の真横を椿は駆け抜け、エドガーとカティさんの間に割って入る。同時にその身体が淡く力強い光を放つと、不可視の防御壁が半球状に展開された。それを目で捉えることはできないが、俺の“識者の叡智”にはその内容が正しく記されている。

 目で捉えるのではなく、文字で捉える。

 細く針状になったトラヴィアータが二人の頭上から無数に降りてくるのが分かる。それに備えた椿のミュールは、それを難なく防ぎきった。先ほどは相手が悪かったが、単純な威力しか持たない攻撃であれば、椿のシュトラーフェは鉄壁だ。針となることで一撃一撃の威力が極端に減少したトラヴィアータでは、傷一つ付けることはできない。

 エドガーが僅かにだが表情を変える。口の端を少し上げ、また右手で何かを握るような仕草を見せた。いや、何かではない。そこにあるのは、目に見えない剣だ。今、エドガーの手には、目視できない剣が握られている。

 金属と金属のぶつかるような音が響く。エドガーの振るうトラヴィアータが、椿のミュールを何度も何度も切りつける。その一撃は重たく、衝撃による振動がこちらにまで伝わってくるほどだ。

 だが、壊れない。椿のミュールは、怒涛の猛攻を耐え切ってみせる。

「さすがは柊椿と言ったところか。そこのゴミとは出来が違うな」

 エドガーが俺を一瞥し、そう口にする。感情の篭らない罵倒だったが、椿の目の色が変わった。単純な敵意は即座に怒りを乗せて跳ね上がり、椿は掌をエドガーに向ける。

「昨日も思いましたけど」

 椿の手の動きに従い、周囲の風が不規則に動き出す。椿の魔術特性の一つ、『空』による風の操作だ。椿は集めた空気を圧縮し、弾丸のような速度で打ち出した。

「兄様をあまり馬鹿にしないでください、不愉快です」

 打ち出された空気の弾丸は、エドガーの周りの地面に打ち込まれる。地面には穴が穿たれ、もしそれを受けていたら生身であれば致命傷は免れないだろうことは明らかだ。しかし、一発も当たらず、なおかつエドガーが避ける素振りも見せなかったところを見ると、椿はわざと攻撃を外したのだろう。俺でも“識者の叡智”無しで見抜ける攻撃をエドガーが感知できないはずもないし、椿にしたっていきなり殺意剥き出しで攻撃できるような娘でもない。あれは、一種の警告だ。

「それはすまない。少し口が過ぎたか。なに、妹の無様な姿に腹が立っただけだ。もうお前たちを攻撃する意思はない」

 シュトラーフェを消し、エドガーから剥き出しの敵意が霧散する。そうして二人から一歩距離を取り、その言葉を証明するように両手を上げて見せた。ふざけた仕草だが、“識者の叡智”を確認する限り、確かに攻撃のための動きは無さそうだ。俺は椿に向かって頷き、二人のそばに駆け寄る。ようやく、安心できるポジショニングにつけるわけだ。情けない限りではあるが。

 ミュールを消した椿は、駆け寄った俺を守るように前に立つ。まだ、エドガーを信用したわけではないらしい。エドガーのことは妹に任せ、俺は未だ炎で身体を守るカティさんに近づいた。エドガーによって切り裂かれた箇所から手を伸ばし、その肩に触れる。

「カティさん、大丈夫?」

 声をかけると、カティさんが俺の方を向く。その目は、恐ろしいまでに鋭かった。まるで肉食獣のように獰猛な怒りと、同時にどこか哀切めいたものを感じる。自分を助けた兄と自分に襲い掛かった兄、その二つの姿に迷いが表れているのだろう。

 何があったのだろう、この二人に。

 疑問が頭を掠めるが、今はそのことについて詮索している場合ではない。

「油断しないで」

 口調は今までに無いくらいに鋭く研ぎ澄まされている。だが、触れた肩から小刻みな震えを感じられた。カティさんは、恐怖しているのだ。エドガー・ブレイズフォードという男を恐れている。

「エドガーのシュトラーフェなら、あの距離でも攻撃を仕掛けられる」

「知ってる。だけど、大丈夫だ。俺のこれが攻撃する瞬間を教えてくれる」

 カティさんに“識者の叡智”を見せる。その目は本型のそれを捉え、半目になった。

「本?」

 うん、気持ちは分かる。言いたいことはよく分かる。本じゃねーか、そうカティさんは言いたいんだろう。確かに武器と呼ぶにはいささか無理があり、攻撃力なんて皆無の代物だ。一定の頑強さは兼ね備えているが、使えるとして鈍器ぐらいの扱いが関の山だろう。だが、この“識者の叡智”の本領はそこにはない。

 それを事細かにカティさんに教えてやりたいところだが、エドガーの手前、ペラペラと俺の力を教えるわけにもいかない。現状、エドガーは攻撃を止めたとはいえ、敵である点に変わりは無いのだ。

「……それが土下座の理由?」

 何かを察したのか、カティさんが苦笑いを浮かべる。俺が戦えないと言っていた理由にようやく得心が言ったらしい。俺はこれ以上余計な勘違いや誤解を生まないよう、力強く頷いた。それはもう、二度とあんな炎の剣で襲われないようにしっかりと頷いた。

「確かにそれじゃ、一対一のコロッセオじゃ使えないわね」

「ああ。そんなことより、あの人……カティさんの兄貴なんだよな? 敵……なのか?」

 攻撃を仕掛けてきたとは言え、一度はカティさんを救い、今はこうして手を止めている。エドガーが何をしたいのか、まるで判断がつかない。ふざけて遊んでいると言うに風にも見えず、こうしている今もその表情は真剣そのものだ。

 エドガーの目的が推し量れない。それが分からない以上は、俺たちは迂闊に動けなかった。何せ相手は、あの契里先輩を圧倒しているのだ。仮に三人がかりだったとして、勝てる光景が想像できない。

「敵よ」

 カティさんの言葉に迷いはなかった。助けられたと言う事実など忘れてしまったかのように、エドガーを敵視している。今は、この言葉を指針に行動するしかないだろう。実際、エドガーは一度、カティさんに襲い掛かり、椿のミュールへ執拗な攻撃を繰り返した。まともな救い手でないことは明白だし、ならば疑ってかかるのが最善か。

 しかし、改めて見てもなんて恐ろしい瞳をした男だろう。対峙しただけで心臓を鷲掴みにされたような圧迫感を覚える。カティさんの恐怖も納得だ。あんな男に剣を向けられれば、誰だって怖い。

 俺は知らず、頬の傷に手を伸ばしていた。昨日、おそらくエドガーにつけられたと思しき傷。すでに痛みはないが、何故かそこがヒリヒリと痛んだような気がしたのだ。

「あんたは……なんだ?」

 息の詰まりそうになるプレッシャーを押し退け、俺はそんな漠然とした問いかけをする。尋ねたい内容はいくつかあったが、それらを全て問う気になれなかった。出来ることなら、さっさとこの場所を離脱したい。そのためにも今、エドガーの立ち位置を明確にしておく必要があった。

「契里の仲間だ」

 エドガーは、事も無げにそう答えた。まるで悪びれもせず、ただ淡々と事実だけを語るように。

「エドガー……ッ!」

 隣で構えたカティさんが押し殺したような叫びを上げる。その赫怒に応じて炎が激しくうねり、まるで大蛇のように鎌首をもたげて激しく燃え盛る。触れれば熱くはないが、その発するまばゆい光に目が眩みそうだった。

 その爆発的な炎の出現を前にしてもなお、エドガーは無表情を貫いている。自身の言葉で怒りを露にする妹を前にしても、眉一つ動かさず、冷静に事態を眺めていた。その超人的な佇まいは、不気味ですらある。まるで人間味と言うものが感じられない。このエドガーと言う男、心を捨てでもしたのか。

「あなた、ブレイズフォードの人間として恥ずかしくないの!? こんなことして、あんな……犯罪者と仲間だなんて、よく言えたものね……っ!」

「犯罪者、か。なるほど、あの馬鹿、ペラペラと喋ったか。全く始末におけないな、ああいう手合いは」

「人の話を聞いてるの!?」

 エドガーは、まるでカティさんの怒声など聞こえていないかのように一人ごちている。それがますますカティさんの怒りを増長させていく。あからさまな挑発であることは間違いなかったが、俺はどうすれば二人の間に割って入れるのか分からなかった。今のカティさんに言葉が通じるとは思えず、それどころか逆に怒らせる結果に繋がりかねない。

 ともかくも今、俺たちの状況ははっきり言って最悪だ。エドガーの今までの発言、それと契里先輩の言動を見るに、彼らの狙いはおそらくカティさんだ。その過程で俺や椿が巻き込まれたと言っていいだろう。そしてこれも推測だが、カティさんの誘拐に契里先輩が逸り、それをエドガーが止めにきた。エドガー自身がそれを連想させる発言をしていたことからも可能性としては上位に位置する。

 だからこそ、これからの俺たちの状況は、エドガーの判断にかかっている。エドガーが俺たちをこのまま連行すると判断を下せば、俺たちはお終いだ。契里先輩にすら苦戦した俺たちが、それを圧倒して見せたエドガーに敵う道理はない。希望があるとすれば椿だが、守りに徹すればジリ貧になるのは目に見えている。

 見逃させなければいけない。エドガーが自らの判断で以ってカティさんに対処するというのなら、その判断を遅らせる必要がある。だが、どうする。何をどうすればそんなことができる。

「カティ、何を怒っている? 昨日もそうだったな。お前はいつも怒っている。薄っぺらな怒りで必死に自分を鼓舞している」

「なん、ですって……?」

「怖いんだろう、俺が。だから怒る。怒りを滲ませなければ、足が震えてしょうがないんだろう」

「調子に……乗るな!」

 怒りを爆発させ、カティさんの頭上を覆うほどに展開していた炎の大蛇が、エドガーを飲み込まんと横薙ぎに襲い掛かる。莫大な熱エネルギーを全て破壊の力に変換したようなそれは、触れた地面を砕き、民家の煉瓦塀を打ち崩し、木々を粉々に粉砕しながらエドガーへと迫る。その暴力的な力を前に、エドガーは目を閉じた。防御姿勢すら見せず、その場にただ突っ立っている。

「なにを――!?」

 焦ったのは、カティさんの方だった。守りにすら入らないエドガーを認識し、慌てたようにアオス・ブルフを振るう。咄嗟の指示に大蛇は向かう矛先を変え、エドガーのすぐ横にあった民家に食らいついた。庭が吹き飛び、窓ガラスが割れ、その先にあるリビングに大穴を開ける。すぐに大蛇は霧散して姿を消したが、その惨状は凄まじいものだった。もし、カティさんが攻撃の方向を転じなければ、守りにも入っていないエドガーはどうなっていたことか。

 真横の惨状には目もくれず、エドガーの瞳に初めて怒りが宿る。それは剥き出しの憎悪だ。それに当てられ、カティさんは怯えたように一歩後ろに下がってしまっていた。こうして隣に立つ俺でさえ、恐怖で足が竦みそうになる。

 なんだ、なぜ怒る。こいつはなんだ。

 エドガーと言う男の思考が全く見えない。さっきの攻撃を受け入れるような振る舞いと言い、思考回路が理解不能だ。一般的な価値観で測れるような相手ではない。

「だから言っている。お前の怒りは薄皮一枚剥がせば、家族の情に絆されるような代物だ、と。俺を舐めているのか? 当たれば大怪我をするとでも思ったか? 調子に乗っているのはお前だ。そんな気の抜けた炎で俺を害せると思うな。本気を見せろ」

 静かな怒りを乗せた言葉にカティさんが動揺し、崩れるように地面に尻餅を着く。その身体は、怯えた子供のようにガタガタ震えていた。もはやさっきまでの威勢の良さはそこにはない。今までの気高く感じられた雰囲気すら消え失せ、怯えた瞳でエドガーを見上げている。

 尋常な様子ではない。ただの恐怖でここまで怯えるだろうか。いや、それ以上の理由があるのは明らかだ。

 エドガーが近づいてくる。即座に椿がミュールを展開するが、それよりも早く、その身体が鮮血に染まった。エドガーのトラヴィアータによる不可視の攻撃だ。急激な出血によって集中力が切れ、展開しかけていたミュールが消失する。そこをエドガーが悠然と歩いてくる。

 倒れこむ椿。俺を見る視線は、雄弁にどうするべきかを語っていた。椿へ向かって伸ばしかけた手を引っ込め、俺は半歩後ろに下がりかける。椿は言っている。逃げろ、と。私がなんかとするから、と。この妹のことだ。俺を守るためならば命すらもかけて見せるだろう。

 だが――それでいいのか?

「言い、はずがない……」

 そうだ。それではあまりに情けない。そもそも、仲間の一方は傷ついて倒れ、一方は恐怖で心折れている。こんな状況で女の子を置いて我先に逃げられるわけがない。

 エドガーが来る。“識者の叡智”はまだ開いたままだ。さっきは不意をつかれて椿への攻撃を許したが、もうあっさりとあんな真似をさせるつもりはない。

「来ないで……」

 カティさんの震える声が聞こえる。涙交じりのそれを受け、俺の覚悟は決まった。“識者の叡智”を強く握り締め、地に張り付いたように重たい足を動かし、守るために前に出る。

 カティさんを守るために。

「ひ、いらぎ……くん?」

「兄妹喧嘩にしちゃ、ちょっと度が過ぎてませんかね……先輩」

 格上の相手に対して、らしくもないおどけたような言動は、自分でも恥ずかしくなるぐらいに震えたものだった。


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