山椒の粉
徹はおぼつかない手で水をコップに注ぎ、翡翠の口元へもっていった。慌てたせいで、コップから水がこぼれて彼女の肌を濡らす。翡翠はなんとかごくんと水を飲み、深い深い息をついた。
「はぁぁ~~。」
かまど神が、心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「…でじょうぶか?」
翡翠はやれやれと首を振った。
「ええ、もう平気よ。思い出したわ。山椒って、私たちを麻痺させるやつよ。昔聞いたわ。山椒を流して、魚を採る人間がいるって―毒もみっていうんですって。うっかりしてたわ」
徹は生きた心地がしなかった。彼女の手をとって脈をとり、顔や体に異常がないか覗き込んでたしかめた。
「大丈夫ですか?気分はどうですか?体に痛みは?」
手を握られて、翡翠はぎょっとしたように徹を見た。
「何よ、残念だったわね―私が死ななくて、」
彼女の言葉など耳に入っていない徹は、手を握ったまま頭を下げた。
「ごめんなさい翡翠さん―!本当に…!」
翡翠が黙っているのをみて、徹はおそるおそる顔を上げた。驚く彼女の目がそこにはあった。
「あなた―謝ったの?私に?本気で…?」
徹は面食らった。
「ええ、はい、本気ですが…」
「なんで?」
心底不思議そうに、翡翠は首をかしげた。本当にわからない様子だった。徹はややうつむき、説明した。
「…俺の作った料理のせいで、食べた人が健康を害するなんて…そんなの謝るのが当然です。許されることじゃない。あの…」
「なによ?」
「本当にもう、平気ですか?どこか痛くはありませんか?」
じっと徹が見上げると、翡翠の頬がかすかに紅くなった。
「へ、平気よっ!そのへんの魚と一緒にしないでちょうだいっ。私は由緒正しい、乙姫様の末裔の、癸姫なんだから!」
「そうですか―…」
ほっと肩を落とした徹だったが、翡翠は勢いよくそっぽを向いた。
「そ、その手を離してちょうだいっ」
「あ、すみません」
ぎゅっと握ってしまっていた小さな手を、徹は慌てて離した。その手をさする翡翠をじいっと見上げるかまど神に向かって、翡翠は言い訳のように言った。
「ま、まぁ…いも子の言う通り、悪い人間じゃないってことはわかったわ」
するとかまど様はにこっと笑った。
「そやろう?…ん?どげんしたと?顔が赤っなって」
「やっぱり山椒がまだ―」
翡翠は、2人から勢いよく目をそらした。
「お酒のせいよ!本当に平気だから!わ、私―もう今日は帰るわ、またねいも子。」
くるりと背を向けて、ずるずると去っていく。最後に少しだけ振り返って、彼女はつけたした。
「それに―人間も」
その姿を見て、徹の頬にわずかにほっとした笑みが上った。
「はい、気を付けて」
そのまま崖からダイブして、彼女はばしゃんと海へと戻っていった。徹はあっけにとられてつぶやいた。
「すごいなぁ…いや待って、ここまでも登ってきたってこと?」
「波にのって上陸したんじゃち思う」
「…なるほど」
タフな人魚姫だな…と思いかえす徹の袖を、かまど神がそっとひっぱった。
「徹、大丈夫か?」
「ん?」
「さっき、ようすがおかしかったじゃ。翡翠が具合悪っくなって、びっくりしたとな?」
気づかわし気に見上げる彼女を安心させるように、徹は笑ってみせた。
「ああ、さっきはごめん。昔にたような失敗をしててさ。もし彼女に何かあったら、って心配になっちゃったんだ」
「山椒を魚に食べさせてしもたんと?」
その質問に、徹はこんどこそ心から笑ってしまった。
「…違うんだ、はは…。いや、でも同じことか。食べちゃいけないものを出したっていう点では」
「人間に出してしもたん?」
やけに聞いてくるので、徹は口を開いた。彼女になら、話す事ができそうだった。むしろ、話したかった。誰にも言えなかった本当の事を。
「そうなんだ。その人にとって毒になるものを…知らずに出してしまった」
するとかまど神は、眉根を寄せて徹を見上げた。
「そんひとは大丈夫やったとな?」
「ああ。エピペン―ええと、解毒剤を持っていたから、なんとかなった。でも…なければ、俺は自分の料理で人を殺していたかもしれないんだ…」
「じゃっどん、知らんかったんやろう?そいが毒だって」
「いや、それは―」
ありえない事のはずだった。予約客のアレルギーの情報は、朝礼の際に厨房の料理人全員に共有され、料理を出す際にも二重チェックをする決まりなのだ。だが徹は知らなかった。その日の予約客に、アレルギー持ちの人が居ると言う事を。
しかし、思い返せばその日の朝礼に徹は出ていなかったのだ。料理長の手下の追い廻し、五十嵐に呼び出されたからだ。どうでもいいような用だったから、おかしいなとは思った。そして料理を出す前の最終チェックをした相手もこの男だった。
「知っていなくちゃいけなかったのに、俺にだけ知らされなかったんだ。」
「な…なんでやろ?」
徹は首を振った。
「俺を追い出したい人が、その厨房にはいたんだ。それで…」
「徹に失敗させっために、わざと教えんかったと?」
たぶん、そういう事なのだろう。確信はあったが、今になっても徹は言葉に出して肯定できなかった。かわりにうなずいた。
「はぁー!そげんおそろしか人がおっど?!人ん命をないじゃちおもっちょるんじゃろう!」
かまど神は目を見開いて、拳をぎゅっとにぎった。徹よりもよほど怒っているようだ。だけど彼女のその言葉は、徹も強く感じた事だった。
(あいつは俺にミスをさせる、ただそれだけのために、お店に来てくれたお客様の命を危険にさらした…許せない行為だ)
今になって、怒りが沸いてきた。徹はぐっと拳を握った。
「君の、言う通りだ。なんであいつは、あんなことをしたんだろう―いくら俺が邪魔だったからって…」
かまど神は徹の顔を覗き込んだ。
「そん人は、なんで徹ん事っが邪魔やったんと?」
首をかしげる彼女に、徹は重い口を開いた。
「俺は―料理長たちに、警戒されていたんだ―」
徹は、師匠の指示でさまざまな店をまわり下積みをしてきた。何のコネもない自分が、師匠に拾ってもらえたのは運がよかった。新人だったころは、毎日朝イチに厨房に入って掃除に精を出した。自分に大した取り柄なんてない。そんな自分がこの運を無駄にしないためには、コツコツ泥臭い努力を積み重ねるしかないと思っていたからだ。
そして2年、3年、とたち―気が付けば下っ端の追い廻しから味付けの責任者である煮方にまで出世していた。異例の速さだった。
「だけど…それをよく思わない人も当然いたんだ」
煮方として回された料亭、風雲の料理長は、最初からこちらを敵視していた。徹が高名な料理人の直弟子であると言う事を聞きつけて、「もしや、こいつは俺の立場を奪うために派遣されたのかもしれない―」と、事あるごとに追い出しにかかった。「この餓鬼ぁ、表に出ろお!」と胸倉をつかまれた事も一度ではなかった。
それを聞いて、かまど神は目を吊り上がらせた。
「ひで人やなあ。徹はないも悪か事をしちょらんのに!」
「いや…料理長はわかりやすい分、まだよかった。俺を騙したのは、料理長の弟子の男で…」
思い出すと、今更になって怒りが沸き起こる。徹は思わず自分の両腕をつかんだ。彼は徹よりもいくつか年上だった。きっと年下の徹にあれこれ指図されるのは嫌だったのだろう。嫌がらせをいくつもされた。砂糖と塩の場所をすり替えられたり、わざと痛んだ食材をまわされたり。それも巧妙に、自分がやったと尻尾をつかまれないようなやり方で。
「だけど、俺は何も言わなかった。やり合ったって、仕事に支障が出るだけだから。それよりも自分の働きでいつか認めてもらえば、と思っていたんだ」
そう、きっと見ている人は見てくれているはずだ―と思っていた。だから様々な嫌がらせをぐっと我慢して、彼らとは一線を引いて接していた。彼らだって天下の『風雲』の料理人なのだ。料理にかけては、それぞれプライドがあるはずだ。親方はお客に出す料理は一定の水準を保っていたし、五十嵐は怠け者で無責任のきらいはあるが、彼の作る賄いは異様にうまかった。
だから真面目に仕事さえしていれば、いつかは和解できるかもしれないという淡い期待があった。徹の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「俺もバカだよな…あの時我慢せずにやり返していれば、こんな事にはならなかったのかな」
なんて世間知らずで、甘かったのだろう。今になって徹は思う。世の中、意地悪をするためだけに他人の命を犠牲にするような人間もいるのだ。そんな輩の前では、「正直さ」も「誠実」も通用するはずがない。しかも店に残ったのは、自分ではなくその男だ。これが現実。
「ああー…さいごにぶんなぐってやれば、よかった」
徹はそう言ってうつむいた。自分の爪先を見ていると、今更ながら怒りが募ってきた。
「なんでそんときに、言ってやらんかったんと?こん人のせいだって、言えばよかどん」
憤りながら言うかまど神に、徹は苦笑した。
「最初はわからなかったんだ。自分がハメられたって…気づいた時にはもう、俺ひとりの失敗ってことになってて」
煮方とはすべての料理の味付けを行う立場で、いわば店の味を守る責任者だ。
その自分が、許されない失敗をしてしまった。知らなかったとはいえ、そばを盛り付けたのは徹だったからだ。
「とにかく謝らなきゃって、座敷に顔を出して、病院にまで言って詫びて…必死だった」
しかし、徹本人が真っ先に謝罪したことが裏目に出て、料理人やスタッフたちからも「徹ひとり」の失敗だと見なされてしまった。幸いお客様の命に別状はなかったが、徹のせいで店の信用は下がり、この業界で大きくケチが付いたと皆が思うようになった。たしかに今回の失敗は、手厚いもてなしが売りの高級料亭としては、致命的な事だった。
「いまさら説明したところで、もう無駄だし、起こってしまった事は消えない。だけどその時―」
徹がそれを悟って絶望した時、ふと見ると追い廻しの男はうっすらと笑っていた。「ざまぁみろ」というように…。
それを見て、徹の背筋は怒りや憎しみではなく―心底ぞっとして、冷たくなった。
「おなじ料理人なのに、料理を使って、人を追い落とそうとする。お客さんの命を危険にさらしてまで―…そんな奴が同じ空間に居ると思うと、もうなにもかも…嫌になってさ」
食べるという行為は、生き物にとって等しく大事な行為だ。自分たち人間は、食材という命をいただいている。そして、お客さんからは対価をいただいている。この店は料亭だから、決して安いとは言えない金額をだ。だから自分は技術を尽くして、最良の一皿をお出しなければならない。徹はそう思って仕事に励んできた。それは、この店すべての料理人の共通する思いだとも思っていた。
「なのに―あいつのした事は、お客だけでなく、食材にも厨房のスタッフにも、そして料理という営みそのものにも―泥をかけて踏みにじるような事だ。なのに俺は、そんなやつに騙されて、負けたんだ…」
言葉にすると、自分の大事にしていたものが壊されてしまった事がまざまざと感じられた。
徹は膝の上に顔を伏せた。情けない自分の顔を、かまど神に見られたくなかった。
「俺は―…ただ、」
徹が最初調理師の道を選んだのは、何も崇高な志があったわけではない。ただ、学歴がなくてもくいっぱぐれない、手っ取り早い仕事だと思ったからだった。
働きづめだった母は死に、この東京でひとりぼっち。だけど食っていかなくてはいけない。夜間学校に行き始めた動機は、それだけだった。自分にも自分の人生にも、何も特別な事は期待していなかった。いや、期待できるような立場ではなかった。東京は何をするにでも「元手」がかかる街だからだ。金も特別な才能も、そして運すらもない徹は、身をわきまえるという事を知っていた。
しかし、夜の調理室で師匠に出会って、徹は夢を見る事を知った。彼に目をかけられ、弟子にしてもらい、人生で初めての欲を抱いた。自分もこんな立派な人間になりたい、人の心に残るようなすごい仕事をしてみたい、と。そして欲は希望となった。自分でも、この師匠のもとで頑張ればできるかもしれない、という。
師匠に頑張りを認められ、25歳で煮方にまでなった時は嬉しくて体が震えた。常に劣等感ばかりだった徹だが、ようやくこの時、自分の事を誇らしく思う事を許せるようになった。
しかし―結局今は、皆に見捨てられこんな場所にいる。
自分がいくら努力したって、正直を貫いたからと言って、それが正当に評価されるわけではないのだ。それに気が付いた徹は―今まで頑張ってきた事の全てが、否定されてしまったように思えてしまったのだった。辛かった下積みも、耐えてきた事も、なにもかもが―…。そう思うと、感じていた怒りも急速にしぼんだ。どんな言い訳もむなしい。負けたのは自分なのだから。
「俺には…過ぎた望みだったんだろうな。師匠みたいな料理人になりたいなんて」
その時、ずっと黙って聞いていたかまど神が、徹の肩をぎゅっとつかんだ。
「そげんわけ、なかやろ!徹は立派な料理人じゃ!」
彼女なら、そういってくれるだろうと思った。優しいかまど神相手に、こんな愚痴をぶつけたってしょうがない。徹は顔を上げた。
「ありがとう。でも―」
「でも、じゃなか!騙す方が悪かにきまっちょっ!騙された方がなんもかも奪われて、失うて泣き寝入りすっなんて、そげんの間違っちょっじゃ!」
かまど神は立ち上がって拳を握った。
「くやしか。くやしかねぇ。あてにも徹ん気持ちがわかっ!怒って当然じゃ…っ!」
目をぎゅっと閉じて地団駄を踏むその姿は、本心から怒っているようだった。かなり熱が入っている。それを見て、不思議と徹のむなしい気持ちが収まった。ちょうど穏やかにないだ海のように。
「ありがとう…かまど神様」
「徹…」
静かに微笑む徹を見て、かまど神は唇をかみしめた。徹はそんな彼女に問いかけた。
「悔しい気持ちがわかる、ってことは―君も過去に、そんな事があったのかな?」
するとかまど神ははっとした表情になった。
「そうじゃ…そうじゃ、あては悔しかって気持ちを知っちょっど!」
そして、自分の着物のたもとをぎゅっとつかんで顔を歪めた。
「じゃっどん…なんでそう思うたんかは、覚えちょらんのごた…!」
胸になにかがつかえたような、苦し気な顔のかまど神の手を、徹は励ますように握った。
「無理して思い出すことないよ。―忘れてるほうがいいことだって、きっとある」
「じゃっどん、思い出さんな…!あてん名前だって、思い出せんかもしれん」
へなへなと横に座ったかまど神に、徹は首を振った。
「君も―きっと俺以上に、辛い事があったのかもしれない。だから、そんな事は思い出さないほうがいい。それよりも」
「…それよりも?」
「食べ物で、君が名前を思い出せるようにがんばるよ。すごく美味しい物だったんだろう?同じ思い出すのなら、辛い思いよりいい思いをして思い出した方が、いいに決まってるよ」
そう言うと、彼女の目が見開かれーくしゃっとした笑顔になった。その目は潤んでいる。が、彼女は泣きはしなかった。代わりに口を開いた。
「あいがと、あいがとなぁ―徹はほんのこて、優しゅうて、よかにんげんじゃ…」
そんなとこない、と言おうとした徹だったがやめた。その代わり、彼女の肩を軽くたたいて、ただよりそった。
ちっぽけな一人と一柱を包むように、波の音は寄せては返してを繰り返していた。天を仰げば、見事な星空が広がってる。数えきれないほどの星々の光。それらは共鳴しあうように輝いて、夜空を昼間のように明るくせんばかりだった。
(なんて綺麗な、夜空なんだろう…。)
起こったことはなくなりはしないし、もたらされた苦しみがすぐに消えることはない。けれどこの景色を見ていると、やるせなさも怒りも、少しの間だけ忘れる事ができそうだった。
そして二人は知る由もなかったが、その波の間と夜の山から―じっと二人を見守る熱いまなざしが二対、あったのだった。




