悪魔の食べ物
火が、燃えている。大鍋の下の火だ。長い間燃え続けるとろ火。娘はそれをじっと見ていた。彼女は火の番をしながら、ぼんやりとしている。
(…最後に食べたんな、何だっけ…)
彼女は今朝から何も食べていないのだ。今朝だけじゃない。昨晩…いや、それよりもっと前から何も食べていない。
ぐつぐつ煮える、身の丈よりも大きい鍋を見上げながら、娘はようやっと思い出した。
(そうだ、おとつい粥を食った…)
お米の粥ではない。ソテツの実を砕いて毒抜きした味のないお粥。それも鍋の底にこびりついた焦げの部分だ。苦くてぐちゃぐちゃで、飲み込むのが苦しかった。けれど、食べないわけにはいかなかった。これを逃したら、次いつ食べ物にありつけるかわからない。娘の身分はこの島でも最下層の、債務奴隷だった。
生ていくことは、ただただ苦しかった。しかし、この島に住む人はほぼすべて、そうして苦しんでいた。薩摩からやってきた役人を除けば。娘は恨みがましい気持ちで煮える大鍋を見上げた。
(砂糖―砂糖―、お前のせいじゃ)
熱い太陽と海風が作り出す砂糖黍。この地にこの植物が生えていたせいで、今この島は地獄同然だ。島人たちは、決して自分の口に入ることのない黒糖を、日々飢えて死にそうになりながら作り続けている。いくら目の前でとろとろ燃えていても、それを口にすることは許されない。砂糖黍を刈った丈が短いと、こん棒で殴られる。指についた砂糖汁を舐めようものなら、鞭で叩かれる。それで死んでいった島人も一人や二人ではない。
自分たちの命を削るようにしてつくられた黒糖は、ただ同然の値段で藩に買い取られ、遠く離れた海の向こうの藩のために使われる。すべての畑は砂糖黍のために使うよう命令され、島の者は満足に米も作れない。貨幣も禁止されて、薩摩の他と取引することもかなわない。
(ああ…なんで…こげん食べ物がなかじゃろう。おっかぁ…)
娘は常にひりつくような空腹を感じていた。貧しくとも優しかった両親は食い詰めて死に、残った娘は借金のカタに売り飛ばされた。
そして娘は、幼い時分からこうして砂糖の精製場で朝から晩まで働いている。ただで酷使できる使い勝手のいい労働力として。だから娘の口に食べ物が入るのは、ほとんどが焦げた残りかすだ。それでもあるだけましだった。
(砂糖―お前のせいじゃて)
空腹で腹が痛い。火の上で煮える砂糖をながめていると、怒りとも絶望ともつかない気持ちが娘の中に沸き起こる。
皆が平等に、飢えているならばまだ我慢できる。けれど目の前に食物があるというのに飢えつづけているこの現状は何なのか。なぜ自分の島で、自分たちの手で汗水流して作った砂糖を舐めると、鞭うたれるのだろう。
(おかしか…なんで?あてらが、どげん悪か事をしたっていうん…)
頭がぼんやりする。立ち上る湯気が邪悪に見える。甘い蜜を滴らせておいて、ぜったいに自分たちの口には入らない砂糖。悪魔の貪る食べ物。
怒りと空腹で、理性がどんどん焼き切れるようにじわりじわりと消えていく。なにもかもどうでもよくなった娘は、ひしゃくをとり―鍋の中の砂糖汁を一杯取り出した。
―初めて舐めたその味は、まさに悪魔のように甘かった…。
甘く熱いその汁が胃を満たした瞬間、彼女は思った。人間として生きていて、これ以上の快楽はない、と―…。
一を奪えば、十が欲しくなる。十を奪えば、百が欲しくなる。いったんタガが外れると、欲望はたやすく燃え広がって娘の体を支配した。監視の役人の目を盗んで、いくらでも砂糖汁を飲み下した。夜半畑に出て、砂糖黍の茎がふやけるまでしゃぶった。きっといつかバレる。時間の問題だ。だけどその事実は、娘の行動をますます過激にさせた。どうせバレて罰を受けるのなら、今のうちにうんといい目を見なければ。砂糖だけではない。もっとすばらしいご馳走を食べてみたい。人が人のために調理をした、うまいものを。
そしてとうとう―娘は村で一番偉い役人の屋敷へと忍び込んだ。
その日は3月3日だった。役人が本州から連れてきているという妻と幼い娘のために、節句のご馳走を作るらしい。
上へ下への台所に忍び込んで餅をかすめとって、娘はそれにかぶりついた。ふわりと弾力のあるもち米は、米特有のいい匂いがした。口の中いっぱいに、甘い餡が広がる。
―生まれて初めてたべたもち米の味は、娘を感動させた。何個でも食べる事ができそうだ。彼女は文字通り、至福を味わっていた。その手を、ぐいと掴むまれるまでは。
「こん、いやしいコソ泥!葉もむかずに姫様の餅を食べよって!」
その日娘はとうとう、役人の前にひきずりだされた。一番偉いというその男は、娘を見もしないで、忌々し気に吐き捨てた。
「意地汚か糞餓鬼や。名前もなか債務奴隷じゃと?なら見せしめに殺せ」
もう自分は終わりだ。それはわかっていた。だがその言葉を聞いた娘は、燃えるように激しい反発を覚えた。
「意地汚かとはどっちじゃ?」
予想もしていなかっただろう娘の言葉に、男の眉がぴくりと動いた。
「何じゃと?」
「人ん島に勝手に入ってきて、畑も食料もなにもかも奪っちょるんなどっちじゃ?」
男は驚いたように娘の方を見ていた。まさか子ども、それも女の子どもに口答えされた事など人生でなかったのだろう。ぽかんとしたその顔は無防備ですらあった。
「あてを意地汚かちゅうとなら、畑を返せ!おっかんを、おやっどんを返せ!そしたら盗み食いなんてせん!わいら全員、こん島から出ていけ!」
男の顔が、真っ赤になって火が付いたように膨れ上がった。怒張した男のその顔は、醜怪っただ。
「何ね貴様ッ!」
次の瞬間、娘の身は地面に打ち付けられた。殴られたのだ。と気が付いた瞬間に、また拳が降り注ぐ。
「えらそうな口をききやがって、こん糞餓鬼がッ」
痛い。血が出る。骨が折れる。抵抗などできない。けれど怖さより、怒りの方が勝っていた。どうせ嬲り殺されるのだ。だったら少しでも暴れて、この男に爪痕を残してやりたい。醜怪なその赤ら顔に向かって、娘は叫んだ。
「あてん名前は糞餓鬼じゃなか、ナツメじゃっ!!」
男のかかとが、ナツメの頭に振り落とされた。ボクン、と嫌な音がして―
何もわからなくなった。




