月桃の葉
夜空にぽっかり、鏡みたいな月が浮かんでいる。かまど神はそれを眺めながら、仰向けに波間にたゆたっていた。
(あて、どげんしたんじゃろ――)
昼間は涙が止まらなかった。こんな事は初めてだった。
おっかぁ。そう呟くと、何か胸の奥が苦しくなるような感じがある。ひりつく渇きのような、焦燥感のような。
その時、ざばりと海面が揺れて、水面から翡翠が顔を出した。
「どうしたのよ。湿っぽい背中しちゃって」
そのつんけんした口調に、思わずかまど神は笑った。
「翡翠はええね。会うと明るか気持ちになる」
「なによなによ」
口をとがらせる翡翠。彼女は一見素っ気ない用に見えるが、実は誰よりもかまど神の事を心配してくれているのだ。
(ちょっと違ごけど――おっかぁ、みてなもんかもな)
それを言ったら翡翠は怒るかもしれないけど。
「翡翠は、偉かねぇ」
「え? なによ突然」
「仲間と離るいって決めたんは、辛れ選択じゃろ?」
すると翡翠は首をかしげた。
「うーん、選択というより……あそこでいも子たちが助けてくれなきゃ、私たぶん死んでたし。選ぶもなにもって感じ。だから偉くなんかないわ」
「仲間と意見が合わんこっは、大変なこっじゃね……」
しみじみとつぶやくかまど神に、翡翠は強く言った。
「あんなの、仲間なんかじゃない。規則に縛られて、仕方なく一緒に居るだけなの。私の本当の仲間は、ここにいるもの」
翡翠はじっとかまど神を見て言った。
「ありがとう。あの時きてくれて。本当に死ぬって思ってた。なのに生きて、一緒にお祭りに行けた。こんなうれしい事って、ないわよね」
その言葉を受けて、かまど神は花がほころぶように、笑った。
「あてもじゃ。いろいろ翡翠には助けてもろた……この髪飾り、嬉しか。あいがとな」
「え? ああ、使ってよね」
「うん――」
かまど神は、翡翠を助けた時の事を思った。あの時自分は翡翠の姉たちに、『何かを変えたければ、自分で選ばないといけない』と言ったのではなかったか。
(翡翠はちゃんと、そよやった。じゃっで次は、あての番だ……)
かまど神の中に渦巻く悩みたちを、翡翠は察しがついていたが、何も言わなかった。
それで、二人はなにともなしに空を見上げた。
「今日は満月じゃっど」
「そうね。採りたての真珠貝みたい。願をかけたくなるくらい綺麗」
かまど神はにぱっと笑った。
「願?かけようか」
「ええ」
二人とも、海面から顔を出し、両手を合わせて目を閉じた。
―――相手が、この先も幸せであってほしい。
お互い、同じ事を胸の中でつぶやいていた。
子どもたちと母親と出かけていくかまど神の背中を見て、徹はふと思った。
(なんだか……普通の家族みたいだ)
かまど神は、子どもの姿をしているから。けど、それがなぜだろうとは考えた事はなかった。
(小さな神様だし、そういうものなんだろうと……でも)
もしかしたら、彼女のある部分は、本当に『子ども』なのかもしれない。
(そうだ、多分……子どもが子どものまま神様になったら、きっとあんな感じなんだ)
明るく無邪気で、どこか達観しているが、優しい。この島の皆を、そんな目線で見守っている。けれど、彼女を見守ってくれる存在はいないのだ。
(彼女は……子どもなのにずっと、『神様』の仕事を……)
そろそろ、その役目から解放されるべきではないのか。
そう気が付いた瞬間、徹の決意は固まった。
次がかまど神にふるまう最後の料理だ。
(黒糖を使ったもの―だよな)
この島々の原産品である黒糖が、おそらくかまど神の記憶のトリガーなのだ。徹はどんなものを作るか、本腰を入れて模索しはじめた。料理人として勤めていたころでも、こんなに悩むことはなかった。
彼女は苦しむかもしれない。だけどどうせ作るのなら―…。どんぴしゃのものを作って楽に思い出させてやりたい。徹は重い腰をようやく上げて、恵さんの家へ向かった。
「あれ、徹くんかね。どうしよったと」
いつものように快く迎えてくれた恵さんに、徹は頭を下げた。
「恵さん…俺に、黒糖を使った料理を教えてくれませんか」
勢い込む徹に、恵さんは目を丸くした。
「あれまぁ」
2人はとりあえず、台所へ立った。徹は入手した黒砂糖の袋を調理台に置いた。
「この地方ならではの―黒糖菓子を、教えて欲しいんです」
「黒糖の塊なら、そんまんまかじってもおいしいけどね。お菓子か…」
恵さんは考え込んだ。
「…かしゃ餅かねぇ」
「かしゃ餅?」
「そう。本州でいう、よもぎ団子だよ。じゃっどんこの地方だと、あんこのかわりに黒糖とサツマイモで作りよる。昔っから作られてきたもんでな」
「なるほど」
それはかなり正解に近いかもしれない。徹は前のめりで調理法を聞き、メモをした。
「…月桃の葉を巻いた後、最後は鍋につめて、20分蒸す、と」
とろとろ火が燃えて、その上の鍋からはもうもうと煙が上がる。それはきっと、かまど神の好きな光景そのものだ。そう思うと、徹は正解に近い食べ物を見つけ出した嬉しさと辛さがないまぜになって、複雑な気持ちがした。
(このお菓子で、彼女が自分の名前を思い出したら―どうなってしまうんだろう…。)
その鬼気迫る様子を見て、恵さんは首をかしげた。
「なしてそんな真剣に、お菓子の作り方を聞くんだい?なんか、あったと?」
「いえ、いえその…」
徹が口ごもったのを見て、彼女は追及をやめて肩をすくめた。
「まぁ、無理に言わんでいいけど…どっちにしろ、葉っぱをさがしに行くところからだから、すぐに作れるもんでもなかかよ」
「そうですか…」
もうあまり足腰が丈夫でない恵さんに、あちこち山を歩かせるわけにはいかない。徹は一人で立ち上がった。
「俺、よもぎの葉とその―えっと、月桃の葉?を探してきます」
「気ィつけてねぇ」
その声を背に、徹は山へと飛び出した。
月桃は、このへんの島々にはたくさん自生している木だ。青々と垂れ下がるその葉の下で、かまど神はひとり寝転んで空を見上げていた。
(徹は…何をつくってくるっとな…)
ぼんやりと、そんな事を考える。かまど神は、食べることは大好きだった。けれど次ばかりは、徹の作ったものを食べるのが少し怖かった。
黒糖。あのざらっとした、おおらかな甘み。甘い物は好きだ。体も心も喜ぶような気がするから―。だけど、あの甘さだけは、かまど神の中に不穏な影を呼び起こした。
あの味には、黒い朽ちかけた糸が結びついている。あの甘い味をまたはっきりと味わってしまえば、かまど神の中でその糸が引かれて―記憶の蓋が開いてしまうだろう。
黒糖焼酎を飲む前のかまど神は無邪気に信じ込んでいた。自分の奥底にしまわれている謎の箱の中には、きっと素敵なものが詰まっているのだと。海を漂う以前の記憶のないかまど神は、それを福と結び付けていたのだ。開ければ大事な名前が見つかるはずだと。
だが実際は浦島太郎の玉手箱と同じで、開けた者に禍いをもたらすものなのだ。
その押し込められた蓋の下にどんな恐ろしいものが入っているのか、かまど神自身にもわからない。
なんで忘れているのか。それは、誰の記憶なのか。なんの物語なのか。
『おっかぁ』はいったいかまど神にとって、何だったんだろう。
だけど、思い出してしまったら、きっと元には戻れない―。その事だけは、わかる。蓋をしてあるその箱は、時限爆弾のようなものなのだ。放っておけば、遅かれ早かれ身の破滅。だったら爆発する前に、自分の手で開けて、事を済ませてしまった方がいい。
(あああ、怖かねぇ……)
月桃の葉の下で、かまど神は自分の身体を抱きしめた。自分は爆発して、なくなってしまうのだろうか。恐怖に身じろぎをすると、まとめた髪のあいだからころんと髪飾りが落ちた。
「…あかん」
大事な髪飾り。なくしでもしたら大変だ。かまど神はあわててそれを拾い上げた。美しい簪。優しい翡翠が探してくれた真珠。器用な徹が編み上げてくれた花。じっと見つめていると、胸の奥からさざ波のように痛みがこみあげてくる。喪失を予期した痛みが。
(二人にも…もう、会えんくなってしまうとじゃろうか)
2人はかまど神にとって、特別な友人だった。翡翠は、一番最初に助けてくれた、命の恩人だ。そして彼女の心と自分の心は共鳴し、連帯しているように感じていた。かまど神と翡翠は、周りの環境も歩んできた道も違うが、同じもの、同じ場所を見据えている。そしてそれを、言わずともお互いに感じて了承しあっている。
一方徹は、かまど神にとっては最初、この島の住民と同じような存在だった。見守るべき子どものような存在。最初話しかけたのは、彼があまりにも暗い顔をしていたからだ。ひとりぼっちで、寄る辺ない表情で火を起こしていた。なんとかしなくては。元気になってもらわねば。そう思って火の隣に座ったのだった。しかし、彼が料理人と知り、かまど神は「人と神」という領分を越えて、徹と関わってしまった。だけど関わっているうちに、徹の顔は明るくなっていった。傷つきうずくまっていた彼の心が、今では頑張って立ち上がるまでに快復しているのがわかった。かまど神はそれを見て―大きな嬉しさを感じたのだ。かまど神が去れば、しばらくは辛いかもしれないが、きっと自分の力で立ち直れるはずだ。
(うちは最後に、少なくとも―一人の人間の役に立てたんだ)
その事は、かまど神に大きな自信を与えてくれた。徹自身が少しづつ、だが着実に自信を取り戻したのをみて、かまど神も同じように自信を取り戻したのだ。
記憶も何もない、よるべない野良神である自分だけど―徹に、そして島の人々の役に立っていた日々が、たしかに存在したのだと。それを、かみしめることができた。そしてその自身は、かまど神に蓋を開ける勇気を持たせてくれたのだ。
「おおきに―…」
翡翠に、徹に、ボゼ神に。そして―この島の人々すべてに、かまど神は静かにお礼を言った。
そして、大事な髪飾りを髪へと差しなおした。




