美味い汁
お祭りの予定日は、星が良く見える旧暦の七夕の日にしようと、徹と翡翠は話しあって決めた。
ひっそりとするよりも賑やかな方がいいだろうと、徹は恵さんや漁師のおじさんを誘った。一つきりの小さな商店にも、張り紙をさせてもらった。
『今年の旧暦の七夕は、8月26日だそうです。崖の神社でささやかな催しをしますので、よかったらいらしてください』
これできっと何人かは、遊びにきてくれるだろう。だから、まるでバーのように時間を区切ってお祭りをしよう、と徹は考えた。
(最初は、この島のみんなに来て、わいわい楽しんでもらって。その後は翡翠さんやボゼ神様に来てもらう)
二部制だ。徹はその旨を伝えに、海辺へと向かった。
「いよいよ明日だね」
「ええ。それじゃ、私は人間がいなくなってから顔を出すわ。私がいなくても、しっかりやりなさいよね?」
はい、もちろん――。徹がうなずこうとしたその時、海面が揺れて、にゅうっと白い腕が翡翠の肩を掴んだ。
「ひっ…!?」
翡翠は驚いたが、すぐにキッと怒った顔になって、自分を引きずり込もうとするその手を掴んだ。
「私をつけてきたってわけ? いい度胸ね」
翡翠によってぐいっと引っ張り上げられたのは――別の人魚だった。翡翠にすごまれて、その人魚はぼそぼそしゃべった。
「ち、ちが、ちがうわ、あなたのためなのよ。癸姫」
「なにがよ。私のしてる事、どうせチクるために来たんでしょう」
「ほんとに、ちがうの! お、お父様にバレてしまっているのよ、癸姫が、こうして地上で……」
彼女はちらりと徹を見た。そこで徹は驚いた。おどおどした表情や声は全く違うが、彼女の顔そのものは、翡翠と瓜二つだったのだ。
(妹さんか何かか……?という事は、家族トラブル?お父様とか、言ってたし)
しかしそれにしては、どうも彼女の言っていることはおかしかった。
「もう、大姉たちがこっちに向かっているわ!彼女たちに捕まれば、大変なコトになるわ。ね、見つかるまえに、どうかもどって。ね?」
ぐぬぬ、と詰まる翡翠と彼女の会話に、徹は割り込んだ。
「どういう事? もしかして、ここに来るのはいけない事なの?」
すると翡翠にそっくりの彼女が焦るように言った。
「いけないどころか!大罪よ!人間とおしゃべりしてる暇なんてないわ、ほら、早く!」
彼女の必死の形相を見て、ただならぬ事態だと察した徹はうなずいた。
「危ないなら、帰ったほうがいい、翡翠さん。今まで事情も知らずに頼って、ごめん」
「そ、そんなことないわ!私は自分の意思で、好きでここにいるんだから!」
妹(?)が翡翠を引っ張る。
「もう行かないと……!」
その時だった。ひゅっと音もなく、翡翠が海の中に消えた。まるでマジックのように、しぶきひとつ上がらなかった。
「翡翠さん……!?」
絶句する徹に、妹ははっと息を飲む。
「姉さまの投網だわ!癸姫……!」
彼女も行ってしまう前に、徹は必死に引き留めて聞いた。
「翡翠さんは、どうなってしまうんですか!?」
「わかんない、最悪死刑よ……!」
彼女は徹を睨んで、捨て台詞のように言った。
「人間なんかと、かかわったせいで!」
ぱしゃん、と攻撃的な水音とともに、彼女も海面の下へ消えてしまった。
「待って……!」
しかし、後にはもう泡一つ上がってこなかった。徹は食らいつくように橋に手をかけて、下を覗き込んだ。桟橋のこの下は、すでに深い海だ。どのくらいかはわからないが、寄せては返す青い波のその下は、暗くて見通す事ができないほどの。
飛び込んで、彼女を助けにいくか。そんな考えが頭をよぎった。
(いや……人間が無策で海に飛び込むなんて、あまりにも無謀すぎる……!)
どうしよう、こういう時、どうすれば。
(そうだ、かまど神…!)
彼女なら、何か方策を知っているかもしれない。今は姿の見えない彼女を、なんとしても探さなくては。徹は素早く立ち上がった。その時、のんびりとした声がした。
「おや、ずいぶん切羽詰まった顔をしているねぇ」
「癸姫……よくもやってくれたわね。あなたは賢い子だと思っていたのに」
「海の上に顔を出すばかりか、人間にまで! この姿を見せてしまうなんて」
「何てこと! ずっと人間から姿をかくしていたから、長い事平和に生きてこれたのに。ここままじゃ……」
自分を囲んで怒りをぶつける姉たちを見ながら、翡翠は無表情だった。
(いつかバレてしまうとは思っていたけど……まさか今日だなんて)
せっかく、徹とお祭りを計画したのに。そう思うと翡翠は悔しかった。
(せめてバレるんなら……お祭りが終わってからがよかった)
むっつりと黙り込む翡翠は、すでに諦めていた。人間に姿を見せることは、家族の掟で固く禁じられている。人間は、自分たちを脅かす存在だからだ。ここ数百年、その禁忌を破ってきた者はことごとく処刑されてきた。
「ほらっ、お父様の前に引き出すわよっ」
ずるずると網を引かれ、捕まった魚のような惨めな状態で翡翠は王の玉座の前に引きずり出された。それでも、翡翠は無表情を貫いた。
(無様に泣いたり、みっともなく命乞いをするわけにはいかない。この男の前では)
その一念で、翡翠は表情を乱すことなく父と相まみえた。
「ほう、お前が禁忌をやぶったのか」
「……っ!」
無言で答えない翡翠の頭を、大姉がひれではたいた。地下神殿の床に、ゴツンと頭蓋の当たる音がした。媚びへつらう声で、大姉がかわりに応える。
「そうですわ。この癸姫が、海面に顔を出して人間の男と密会していたのです!」
大姉のひれがさらに、翡翠の頭を押さえつける。目の前に、ふわりふわりと自分の赤い血が流れて溶けていく。痛い。割れてしまいそうだ。それでも翡翠は声をこらえた。
「強情な娘だな。なぜ人間などに顔を見せた。好奇心か? それともまさか――恋をしたなどと、言わないな?」
父のその声に、姉たちがざわりと色めきたつ。
「恋!なんですって」
「恐ろしい!この子は私たちを破滅させる気なんだわ!大昔の伝説みたいに!」
大罪人を見る目で、姉たちは翡翠を見下ろした。
「で――どうなんだ?」
父はにやりと好色で酷薄な笑みを浮かべて、翡翠に問うた。大姉のひれが、そろそろと翡翠の頭からどく。
「恋……って、なんでしょうか」
翡翠は逆に、周りに問いかけた。
「それを知っている人は、この海底にはいないんじゃないのかしら。もちろん、私も含めて」
父の眉が寄る。こいつ、何を言っているんだ?とその目は言いたげだった。
「だから、私が人間に恋しているのかは、私にはわからない。だって他に恋をしている人がいないんだもの。でしょう?」
翡翠はじっと父を見上げた。そう、この父上に恋をしている人魚など、ここには一人もいない。皆決まりだから、父と添うているだけなのだ。それを承知で、翡翠は父に挑むように聞いてみた。
「父上は、恋した事が、恋された事が、あるのですか?」
さぁ、逆上すればいい。生意気な娘だと言って、自分を叩きのめせばいい――。そうしたら少なくとも、翡翠は死ぬ前に父を言い負かせた事になる。
が、翡翠の挑戦的な眼差しを受けた父の目には、怒りも嘲笑もない。ふっと翡翠に興味を失ったかのうよな、諦めた無気力な声で彼は言った。
「ふん。すっかり地上の空気に染まってしまったようだな。もうこいつは我が一族ではない、殺せ」
翡翠が思った以上に、父は大人だったようだ。図星を突かれても、感情を出さなかった。ただ死んだ目になって、翡翠を処分すると言い放っただけだった。
「……最後に一つだけ。父上、このままでは私たちは滅びますわよ」
その言葉に、父上は皮肉な笑みを浮かべた。
「ああ、だからお前を殺してやるのは親心だ。お前は、この一族が滅びる様を、見なくてすむのだから」
「お…お父様になんてことをっ」
「あやまりなさい!」
再び翡翠の頭がはたかれ、床に打ち付けられる。父はそれを満足気に眺めていた。投げやりで自分勝手な王様の答えを聞いて、翡翠の胸の内に、めらりと暗い怒りが湧く。
(この人は――それでもいいって、思ってるんだ)
いずれ滅びる。姉妹たちはそれを恐れて必死で動いているというのに、当の王様はそれでいいと思っているのだ。
(私たち一人一人のことも、未来のことも――どうでもいいんだ。ただ今、自分が生きている間、美味い汁がすすれれば)
なんて見下げ果てた王だろう。こんな男に一族の運命が握られている事を、そして姉妹たちが盲目的に追従している事を、翡翠はずっと嘆いていたのだ。そして今改めて、絶望を通り越した諦めの気持ちがその胸を支配する。
(ああ――でも、もういいわ。それなら、勝手にすればいい)
滅びていけばいい。苦しんで死んでいけばいい。自分はもう、いち抜けた。だって手のほどこしようがないんだから。海底流砂の処刑場に連れていかれながら、翡翠はそう思った。
「最後に言い残すことは」
谷底に続く断崖絶壁の前で、そう聞かれた翡翠は答えた。
「ごめんね――いも子、徹」
お祭り、いけなくて。言い出しっぺなのになぁ。
そう思いながら、翡翠を目を閉じた。背中に力がぐっ、と掛かり、流砂の渦巻く谷底へ、網に巻かれて身動きのできない翡翠の身体が落ちていく。
その時だった。




