七話「楓の決断」
不可思議な空間に佇んでいた。
上も下も蒼く、白い雲が漂う空は異様なほど近い。
もはや、空に居ると言ってもいいほどだ。
だが、実際は足元に広がっているのは透き通るような水面で、下まで蒼いのは空を映しているが故だった。
柚葉はこの幻想的な空間に立つ夢を、実は何度も見ていた。
それでも普段は視界がぼやけて曖昧に見えるのに、今日はやけに鮮明だ。
後ろに立つ、普段は声しか聞けない存在へと振り向く。
そこに立つのは、もうこの世にはいない、柚葉にとって最も愛おしい人だった。
「……樹先輩」
柚葉が殺した、殺さざるを得なかった、大切な人。
淡い光に包まれた樹が、柚葉の前に佇んでいた。
柚葉の呼び掛けには答えず、ただ儚い微笑みだけを返して。
何故いつも見ている夢と少し違うのか。
今取り掛かっている事態が、魔王に関わるものだからだろうか。
或いは__自分が、正気を失っているからだろうか。
ここは深層世界のようなものだ。
そこでの柚葉は、正気を失っている自覚があった。
だが、表層意識は未だ塗りつぶされたまま、回復する兆しすらない。
それに、彼女自身がここから動きたくない理由もあった。
夢の中とはいえ、せっかく樹に会えたのだ。
この時間に、ずっと浸っていたいとすら柚葉は思っているのだから。
「……ねぇ、樹先輩。私、強くなりましたよ。今も元気に生きてます。あなたの望み通りに。でも……」
樹は何も言わない。
夢の中の存在でしかない彼は、発する言葉を持たない。
偶に声が聞けたとしても、それは柚葉の妄想でしかないのだ。
「……やっぱり、あの日、あなたと一緒に逝きたかった。死なせて欲しかったです」
例え、世界で何より大切な人の願いだとしても。
樹のいない世界は、柚葉にとってはどこか物足りない。
あの日以来、魔王を倒さなければという使命感は一層強さを増したが、今回はそれを利用されて、唯一残された弟すら手に掛けようとしている。
あの日の悪夢を、暗示をかけられているとはいえ、自らの手で繰り返そうとしているのだ。
__君一人を残したこと、申し訳なく思ってるよ。
それは、返ってくるはずの無い言葉。
目の前の少年から発せられた言葉に、柚葉は遂に自嘲の笑みをこぼした。
「……馬鹿らしい。そんな優しい言葉だって、結局私の妄想に過ぎないのに」
いつもそうだ。
その優しい声は所詮、記憶の中にある樹が言ってくれそうな言葉を、自身が都合よく引き出しているだけなのだろう。
一瞬だけ、喜びを覚えてしまった事に、未だにあの日を引き摺っているのだと、改めて理解した。
した所でどうしようもないのだが。
「……樹先輩。私、言いましたよね。今も忘れてませんよ。ずっと、恨みますから」
そうボヤくと、柚葉はその場に膝を抱え込んで座ってしまった。
__弟くん、このままでいいのかい?
「……良くないけど、〈花橘家〉の精神干渉だよ。ここまで深く、強制的に意識を落とされたのに、自力でなんて戻れない」
〈花橘家〉の精神干渉は非常に強力だ。
まして、当主である苛折に受けたとなれば言うまでもない。
まず自分からの覚醒は有り得ない。
他の誰かが、ここから引き摺り出してくれるまでは、柚葉もどうしようもないのだ。
柚葉の正気は、自分が暗示にかけられていることは気づいていたが、もうかけられた後では遅過ぎた。
そして、果たして加減を知らない今の柚葉に近づける者が、一体どれほどいるだろうか。
少なくとも、柚葉は数える程しか知らない。
そしてそれだけの実力を持つ彼らのうち、一体誰が都合よく救ってくれるというのだろうか。
「……しょーくんにも、謝らなくちゃね」
無論、彼を手にかける事無く覚醒することが出来たらの話だが。
蹲る柚葉の姿は、いつの間にか学生時代の装いへと姿が変わっていた。
そんな弱々しい彼女を、樹は後ろから抱き締めてくる。
__ごめんね。追い詰めたのは、僕だね。
「……そんなこと言ったって、許しませんから……」
__せめて、傍にいるから。
「……ありがとう、ございます」
こんな甘い夢が、ずっと続けばいいのに。
そう思わされているこの現状が、苛折の思惑通りなのだと、柚葉が知ることはないのだった。
一方で、強力な暗示をかけられ、正気を失っている柚葉の体も、つい先程学園長室で目覚めていた。
深層世界の影響が流れ込んできているのか、暗示がかかっているにも拘わらず、目は充血して泣き腫らしたような表情だ。
それでも、気にすること無く彼女は自警団の管制室へと向かうのだった。
将真が都市を脱走し、彼の仲間たちがそれを追って外に出てから、一日ほどが経過していた。
ある程度の広さが確保されたその部屋には、壁の半分と言ってもいい範囲がモニターで埋め尽くされていた。
そして、大量に置かれたパソコンには、自警団員が向かって作業に取り掛かっている。
そんな中、空気が抜けるような音と共に開いた自動扉。
団員たちは、入ってきた人物の方を一斉に振り向くと、一瞬ギョッとした顔を覗かせた。
とはいえ、その時間も短く、あまり明るいとは言えない部屋だったこともあって、柚葉に見えていたかは分からないが。
柚葉が中に足を踏み入れると、一人の女性が彼女に近づき、何を思ったかそのまま柚葉に飛びついた。
「ヤッホー柚っち。元気そう……、では無いねぇ」
「……いたのね美玲」
若干、鬱陶しそうな表情で苦笑を浮かべる柚葉。
かつて柚葉の小隊は、一人が魔術師生命を絶たれるほどの大怪我を追った事が原因で解散してしまった。
彼女はその人物とは違う、もう一人の元小隊仲間だ。
赤羽美玲。
柚葉を含め、自警団のトップクラスと比べると見劣りするが、それでも序列百位以内の相当な実力者だ。
小隊が解散した後でも、普通に友人としての交流は今でもある。
その性格は一見単純で単細胞だが、身内周りに関しては意外と見ているし考えている、という事を柚葉は知っていた。
「……それで、何でここにあなたがいるのかしら」
「それは私のセリフなんだけど。でもせっかく会えたんだし、ちょっと揶揄ってやろうかなってアデデデデ!」
ニッコリと笑い、額に青筋を浮かべた柚葉に頭を鷲掴みにされて、美玲は堪らず声を上げる。
十センチ近くの身長差があるにも拘わらず、美玲の足が浮くほどの怪力には、傍から見ていた自警団員を怯えさせるには十分過ぎるほどの光景だった。
解放されると、美玲は軋むような痛みを発する頭を抑えて呻くが、そんな姿を見た柚葉もまた頭を抑えてため息をついていた。
「いったぁ〜い……」
「お巫山戯に付き合ってる暇はないの。もう一回聞くけど、何でここにいるの?」
「…………」
美玲は答えない。
だが、だんまりを決め込む訳ではなく、立ち上がって柚葉と向かい合うその表情は、先程までとは打って変わって、真剣そのものだ。
「……何だと思う?」
「あのねぇ、だから暇じゃないって言ってるんだけど」
「まーだ巫山戯てるって、思ってるのかな?」
「…………」
今度は、柚葉の方が口を噤んで美玲を睨み上げる。
そんな冷たい目をする友人の姿を見て、美玲は寂しそうな表情を浮かべた。
「……私さ。結構あなたの事は見てきたつもりだよ」
「……そうでしょうね」
「結構長いこと一緒だったしさ。今でも友人だと思ってるよ」
「そう……」
「でもさ。ちゃんと友人のことを見てる私だけど、頭がいいわけじゃない。今、柚葉が何を考えてるのか、分からないよ」
真面目な話をする時は、美玲はいつも「柚葉」と呼ぶ。
痛ましい表情で自分を見る視線に、だが普段の自分を失っている柚葉は意にも介さない。
暫く視線を交える二人だったが、やがて美玲の方が先に根負けして、視線を逸らしてため息をつく。
「はぁ……、柚っちが何考えてんのか知んないけどさぁ。まあいいや。私には別に教えるほどの大した目的はは無いよ。だから変わりに情報あげる」
「……へぇ? 気前いいじゃない」
「そうでしょ? と言いたいところだけど、大して役に立つもんでもないけどね。とりあえず弟くんは見つかってないよ。あと百期生第一、第三、第四小隊の生徒たちもね」
「……昨日は捕まえたら姿が消えたって聞いたけど?」
榛名たちの足止めが終わった直後に、遥樹からきた連絡では確かにそう言っていた。
それが繰り返されているのなら、見つかっていないことは無いはずだが。
「見つかってないよ。まあ、本人は……って話だけど」
「……やっぱり偽物を掴まされてるってこと?」
「そういう事だと思うよ。それに、私が聞いた話だと、どうも全員捕まえたタイミングで消えるみたいだね」
捕まるタイミングはそれぞれ違う。
だが、捕まっていようと、捕まったばかりであろうと関係なく、全員が捕まったと同時にその姿を消している。
最初の段階では、誰か一人が捕まった時点で消えていたはずだ。
それが意味することは何か。
「……偽物を消すタイミングをコントロール出来る? 向こうも、偽物が捕まった事に気がついてるってこと?」
「多分ねー。魔術とは思えないし、かと言って少なくとも私はそんな魔法は知らないから、秘蔵の物か、或いは既存の魔法では無いのか……まあその辺は分からないけど」
「……約立たず」
「うーん想定外の言葉が返ってきたなぁ!?」
「冗談よ」
堪らず声を上げる美玲を軽く流して、柚葉は部屋を出て行こうとする。
そんな彼女を、気を取り直した美玲が呼び止める。
「あ、ちょっと待って。もう一つ報告があるんだよ」
「まだあるの?」
「むしろこっちの方が今は重要かな?」
「……どういう事?」
改めて振り向くと、美玲がコンピュータに向き合う一人の団員に声をかけて柚葉に手招きする。
「ちょっと借りるね」
「あっ、はいどうぞ」
声をかけられた団員は、少し萎縮した様子で距離をとる。
柚葉に怯えたというのもあるが、美玲も大した力を持たない団員からは、畏敬を抱かれるくらいには力がある。
それはともかくとして、手招きに応じて柚葉が顔を覗かせると、見せられたのは外の様子を映すカメラの一つ。
かなり遠くまで見ることが出来るのだが、そこに映っていたのは、そこそこの数になる低位魔族や魔物の群れだ。
こうして組織立って動く事は珍しいものの、それほど注目するような光景ではない。
「……これがどうしたの?」
「じゃあ、こっちも見てくれる?」
そう言うと、美玲は別のカメラが映した映像をモニターに映す。
そこには、また別の魔物の集団が映されていた。
何度かカメラを切り替える操作を繰り返し、更には〈日本都市〉周辺の縮図と、確認された魔物の群れの分布を点で記していく。
すると柚葉も、美玲が言いたいことに気がついた。
「……たまたまでしょ?」
「そう思う? まあ私も懸念で済めばいいかなとは思うけど」
魔物の群れの位置を示した分布図は、〈日本都市〉を囲うように点在していた。
距離的にはまだバラつきもあるが、群れは都市に少しずつ近づいている気がする。
「警戒するに越したことはないでしょ?」
「……そうね。ただ、後回しでいいわ。先にやる事があるもの」
「……そう。じゃあそっちはそっちで頑張ってね。応援はしないけど」
「そんなこったろうと思ったわよ」
詰まるところ、美玲もまた、将真を擁護する側の人間だと言う事だ。
尤も、邪魔されるわけでなければ、いちいち戦う必要も無い。
管制室を後にした柚葉は、すぐにとある人物に通信を飛ばす。
『……はい。何用でしょうか』
画面に映し出されたのは楓の顔だ。
隣には、小隊の仲間である二人の少年が覗き込むように映っている。
「今、どこにいるの?」
『あなたの命令通り、あの子たちを探して都市の外周辺りを』
「そう。ならそれは一先ずいいから、こちらに戻ってきなさい。話があるの」
『……それは、命令ですか?』
「命令よ。今すぐ帰還して、私の元まで来なさい」
『……了解しました』
楓はため息をつきながらも了承を示して通信を切る。
その溜め息が、何を意味するかは柚葉には分からない。
だが、そもそも気にする必要などないと、柚葉は思考を振り切って学園長室へと戻っていく。
その様子を管制室の扉からこっそり覗いていた美玲が、楓と同じようにため息をついていた。
呼び出された楓が、新たな指令をうけて都市の外へと出て行く。
すると、既に準備を終えて待機していた二人の少年が彼女を迎える。
「おう、おかえり」
「……ただいま、辰哉」
橙色の髪の少年、五十鈴辰哉に、少々不機嫌そうに返す楓。
その様子に、灰色の髪の少年、四ノ宮慎也も何となく察しがついた。
この後の動き、柚葉から受けた命令の内容について。
「何だよ姉御、機嫌悪いな」
「だから姉御は辞めてって……、ああ、もう今はいいや」
「だいたい何言われたかは想像出来るけど……、聞いてもいいかな?」
「……まあ、想像の通りだと思うけど」
そうして楓が口にした内容は、簡潔にまとめると『片桐将真の捜索、及び処分』という物だ。
辰哉は思わず顔を顰めるが、慎也はやはりといった様子であった。
「まあ、そんな事だろうとは思っていたよ」
「分かってたなら聞かないで欲しかったね……」
とはいえ、何も報告も無しでは彼らも動きようがない。
どの道、伝える事になっていただろう。
「そんで、姉御はどうする気なんだ?」
「どうするって……」
「殺す訳には行かないってのが、姉御の考えだったろ?」
「僕も辰哉もそうだけど、別に彼に恨みはないし、魔族に対してもそんなに恨みがある訳じゃないしね」
慎也の隣で、辰哉がうんうんと同意するように頷く。
辰哉の言う通り、楓の考えとしては、将真を殺す事は出来ない。
勿論、実力の話ではなく、心情の問題だ。
少なくとも楓は、将真に対する思い入れは大してない。
そして辰哉と慎也は、そもそも片桐姉弟に対してそんなに知っている訳でもなければ、思い入れもない。
だが、楓にとっては柚葉は恩人で、思い入れのある人物だ。
そんな彼女が正気に戻った時、将真が死んだと分かれば酷く傷つくのは目に見えている。
それが、柚葉の命令によるものだと分かれば尚のこと。
だからこそ、柚葉の為にも将真は殺せない。
ここで再び、彼女の意に背く形になっても。
(……そういえば、リンちゃんたちを逃がした事については言及されなかったな)
気づかれなかったか、大したことでは無いと流されたか。
それはもう、どちらでもいいことなのだが。
「……あなた達は、どうしたい?」
「さっきも慎也が言ったけど、別に俺は学園長の弟を殺す理由がねーしなぁ」
「うん。危険だという話はよく分かるけど、積極的に処分したいとは思わないね。だからここは楓の判断に従うよ」
「リーダーは姉御だぜ? バシッと決めてくれや」
辰哉も慎也も、楓に全信頼を置いている。
彼女がどう行動に移すか、分かっていながら。
そしてそれが彼らを危険に晒す可能性があっても、楓に止まる気は無いことも理解していた。
「……本当にそれでいいの? どうなっても知らないよ?」
「オイオイ、俺ら仮にも、三人それぞれ学園最強だろうが。心配するこたぁねーよ」
「そうそう」
「……柚葉さんの為にも、片桐くんは殺せない。殺す訳には行かない。だから、片桐くんを見つけ次第、保護ないし護衛として動くか、そんな所かな。それでも良ければ、ついてきて欲しい」
「うん、じゃあ、僕らはそういう方針で動こうか。どうせ外に出た後の僕らの動きなんて、上には多分、分からないだろうしね?」
少し不安気に問う楓に、気持ちいいくらいにあっさりと即答して悪戯っぽい笑みを見せる慎也。
更に辰哉は、これから向かう方角へと体を向けて親指を立てる。
「うっしゃ、そんじゃ行くかぁ!」
「……ふふ、やっぱ二人とも馬鹿なんじゃないかな?」
楓は、二人の様子に小さく吹き出すと、照れ隠しにそんな悪態をついた。
正直、いくら学園最強と言われている楓であっても、一人で将真の元へ向かい、彼の味方につくというのは、少なからず不安があった。
「君を一人にするつもりは無いよ」
「……そんなに私、顔に出てたかな?」
「そうでも無いよ。でも、不安に思うのは不思議じゃないからね」
「ほら、行こうぜ。先に出てった連中よりも早く見つけないとな」
「……うん。じゃあ、行こうか」
少なからず安堵を得た楓は、瞼を伏せて胸に手を当てて静かに深呼吸を一つする。
次に目を開けた時には、瞳に強い光が宿っていた。
都市の外を出た彼らが、先に外へ出ていた者たち同様に異変を感じ取るのは、もう間も無くの事だ。




