エピローグ(2)
「……見えなくなっちゃいましたね。島」
そんなセリフがもれたのは、やはり、さみしさがあったからでしょうか。船出からしばらく経ち、わたしたち、海流に乗って西へ向かってました。
東の水平線がほんのり白みかけてきたけど、夜明けはまだ。澄んだ藍の空を、満天の星々が、またたきもせず圧しています。金色に、銀色に。
そういえば、南十字星を見に海に出たときは、この光景が怖くて軽くパニクったっけ。でも今はなんでか平気でした。……あのときよりずっと心もとない身の上なのに、不思議。
「それにしても、あんまりちゃんとお別れできなかったなあ。おまじないのおばあさん、アリーくんたち、ご近所さん、長老のご家族にそれに」
指折り数えてたら、おだやかなカイの声。
「しょうがないさ。言い出したらキリがない」
「……そっか。そですね、ごめんなさい」
考えてみたら、本当は彼女こそ、わたしよりずっとお別れしたい人多かったはず。誰もが親戚、家族みたいな島だったもん。わたしの知らない友達なんかもきっと
「って、あー!!! しまったあ!!!!」
いきなり立ち上がったわたしに、グラリ揺れる双胴カヌー。
「うおっと、暴れるなよミユキ!! どうした、なにがあった」
「写真!! 最後に撮っておけばよかった!! もー、なんで思いつかなかったんだあ!!」
あー今からでもちょっと戻りたい。せめてベル、トーニくん、カイのお母さん、それにそれに……
「だから騒ぐなって!! キリがないって言ってるだろ!!」
「あっそーだカイたいへん、わたしこんなカッコじゃ人前に出られません!!」
「私らの普段着がなにか不満かよ!!」
……しばらく騒いで、落ち着いて。
「ミユキ。眠いなら寝ていいぞ。ゆうべ徹夜だろ」
声かけられて、我に返りました。
「……わたし、眠そうでした?」
「ああ。遠慮するな、私も寝たくなったら寝る。どうせ今のところ波任せだしな」
「ふぁい」
舟底に横になって、目を閉じて。
また目を開けて座りなおすわたし。
「? なんだよ、寝ろって」
「待って待って」
たしかに疲れてはいました。徹夜……ほぼ徹夜で、山登りまでして。けど眠れない。どこか神経が興奮してるのかも。
それに、言っておかないと忘れそう。
忘れそう……なにを? そうだ、ついさっき気づいたこと。
「わたし、憶測めいたことは言いたくありません。だから、事実だけ」
「ああ。なんだ」
「あなたのお父さん。
長老が言ったじゃないですか、『島に残すために脚の腱を切った』って。よそ者に対する掟だ、って。
あれ、ウソです」
「はあ!?」
カイの声、単純な驚きだけでなく、怒りも含んでました。適当ぬかしたら許さないぞっていう。だいじょうぶ適当じゃないから。
「証拠は、長老です。
長老自身よそ者なのに、あのお歳で元気に歩き回ってる。腱を切るなんてウソっぱちなんですよ」
「はああっ!???」
今度のは単純な驚き。
「ご両親にくっついて南洋に渡って来たって言ってました。故郷の言葉も聞かせてくれました。
なんでその後、島に居ついたのか、なぜ帰らなかったのかは知りません。
確かなのは、あなたのお父さんのケガは、掟のせいでも長老のせいでもないってこと」
語り終えたわたし、聞き終えたカイ。すこしの沈黙、ゆるやかな波の音。
「……なぜだ。それが本当だったとして、なぜそんなウソつく必要があった、長老に」
「ごめんなさい。憶測めいた……分かったようなこと、言いたくありません」
そうか、と口の中でつぶやいて、カイ、へさきの方に向き直りました。風に頬をさらすように。
その風に乗って、もうひとつ、小さなつぶやきが届きました。
「……ありがとう」
*
白みゆく空の下、老人と少女が家路をたどっている。
『やれやれ、危ない橋を渡ったな。あれが行けと言って素直に出て行く子だったら、こんな苦労もなかったんだが』
『バーカじいちゃんのバーカ。もっと早くミユキに打ち明けてれば、もっと苦もなくことが運んだはずじゃん』
『それも考えた。が、そーしょっかなっと思うた矢先、急に警戒されてな』
『……じんましんの時か。なんだったんだろーねあれ』
『それにだ。嬢ちゃんがもし、上手くカイをだませる子じゃったら、なおさら仲間には引き入れんかったろう』
『?』
『必要だったのは、わしのたくらみに乗って踊る芝居上手じゃあない。
たくらみなんぞ知らんでも、最後まであの子を裏切らぬ者。
わしらの手が届かぬはるか遠くでも、あの子を守ってくれると信じられる友達、じゃよ』
『今思いついたみたいなこと言っちゃって』
しばらく二人、黙ったまま歩いて。少女がふと口を開いた。
『じいちゃん。
今さら訊くのもアレだけどさ。カイって、じいちゃんがつけた名前だよね? どういう意味?』
老人の返事にも、しばらく間があった。
『海、さ。さる遠い異国の言葉で』
そのとき、今日の最初の光が島を照らした。
*
少年と父が、浜辺に立って海を見ている。今日最初の陽光を背負って、西の海を。
風も波も穏やかな朝。二、三日は舟旅日和が続くだろうと、少年は考えていた。
山に生きる彼に、かつて波の読み方を教えてくれた人がいたのである。その人に、心の中で祈る。どうかあなたの娘を守ってやってくださいと。
『ところで父さん、今朝は猟に出ないんですか』
『禁忌が破られ、山が穢された。山鎮めの祭りが済むまで、狩りは無しだ』
『……そうでした』
なぜ、カイたちを見逃したんですか。
少年にはやや不思議だった。女衆がいかに騒ごうと、長老がどう裁定を下そうと、あくまで掟の命じるままを実現する、その根拠も力もあったはずだ。この巌のごとき父には。
言うだけのことは言って、それで皆の結論がああなら、それで良しとしたのかもしれない。
あるいは、ただ単に、撃ちたくなかっただけかもしれない。
……だがもう済んだ話だ。だから少年は、もうひとつ別の疑問を口にした。
『父さん。これが初めてですか』
『なにがだ』
『島抜け、です。
今度のことが初めてですか?
本当に今まで誰一人、ああやって海へ……外の世界へ旅立った若者はいなかったんですか。それを黙って見送ったことは?』
父は海を眺めながら、
『お前もいつか行くか。この父の矢をかいくぐって、あの娘を追って』
答えず、少年も海の果てを見つめていた。
*
東の水平線がオレンジ色に燃え立ち、藍地に金銀飾りの空、刻々水色に塗り替わっていく。ぽつぽつ浮いた雲のふちが光を受けて輝く。夜明けだ。
朝なら、もう十六年毎日迎えてきたはず。海の上で日の出を拝んだのだって、一度や二度じゃない。が、今朝のこの眺めは、なぜかいつになく胸にしみた。
あてどない旅。
スマホのナビとやらを頼りに、西に陸を求めて。
けれど、たどり着いたとして、その先どうなるかは誰も知らないのだ。
道連れはたった一人。
「おふぁようございまふ、カイ」
「……いや、おはようじゃないだろ。結局寝てないじゃないか、あんた」
「えへへ」
ミユキ。へんな奴。
第一印象は、気の弱い娘。ほぼ同い年の私にビクビクしてたし、ちょっと大声を出したら(こいつを怒鳴ったんじゃないのに)冗談抜きで震えてた。
ちゃんとしてそうで、意外と抜けてる。真面目そうで意外にアホ。たぶんお母さんっ子で甘えんぼ。
いいとこだってもちろんあるが、全体的には歳より子供っぽい、頼りないタイプだ。
「っておいホラ、頭グラグラしてる。寝ろって、横になれ。ちゃんと日除けの布もかぶれよ」
「ふぁい。もすこし……陽が昇りきったら。ありがと」
声はやわらか、目元と口もとがゆるんで笑ってるみたいだ。知ってる、これがこいつの寝落ちのサイン。ああ世話が焼ける。
本当にへんな、不思議な奴じゃないか。
こんな頼りない奴が、他人のためには怒り、泣き、根性を出し、知恵も悪知恵も働かせて戦ったのだ。ときには体を張ってまで。
こいつが島にやってこなければ、私は今ここにいなかったろう。
まだ暗い西の空高く、白い海鳥の姿が見えた。鳥は旅の手がかりだ。
じっと見つめながら、ふと思い出す。
もうひと月も前か。ミユキが流れ着いたとき、島衆の間で、海鳥が化けて出たんじゃないかって噂も立った。その肌が羽毛くらい白く見えたから。
あのころの私は、まさか島を出るなんて思いもせず……
「……ね、カイ。わたし、思うんですけど」
やわらかな、眠そうな声。
「ああ。なんだ」
鳥に目をやったまま生返事した。
「たぶん、わたしじゃない。わたしはただ、もといた場所に帰るだけ。たいした話じゃない」
「あ? ああ」
「これはあなたの物語。
あなたが漕ぎ出す物語。七つの海を越えて、広い世界のどこへでも。今、始まったばかり」
ひと声高く鳴いて、空のかなたへ飛び去ってゆく鳥。翼を風に乗せて。
「……なに言ってんだ。いいから……」
振り返ったら、ミユキの姿、どこにもなかった。
かき消えていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。
瞬間、頭をよぎる。海鳥が化けて出たんじゃないか、って、噂……
我に返って、あわてて舟べりから身を乗り出すと、きゃしゃな手が波の下十センチでもがいてた。
「ガホッゲホ、も、もちょっと早く助けてくださいよう」
引き上げてやった私にしがみついて、泣きながら文句たれる恩知らずのミユキ。
「だから寝るなら横になれって!! あんったはホント……っく、ぶ、ふふ、はは、はははははは!!」
説教の後半は、腹の底からの笑いに溶けて消えてしまった。
* * *
そして。
* * *
正午過ぎ、漁船が、漂流中のカヌーを発見した。メーデーの知らせを受けて、未明から海に出ていたのである。
乗っていたのは、情報通り二人の少女。一人は褐色、もうひとりは白。手を振っている。
「深雪!!!!!」
船首に立っていた女が、喉も破れよと叫ぶ。
「おかあさん!!!!!」
カヌーの、白い方の少女も、負けずに叫び返した。涙声で。
船長の呆れたことに、船首の女、接舷を待たず海に飛び込んだ。
勇ましいクロールで十数メートルを泳ぎ切り、カヌーに身を乗り上げるや、白い少女を、わが子を抱きしめる。強く強く。
そのまま何秒、何十秒。
やがて女は、わが子の、最後に見たときよりずっと伸びた髪を撫でながら言った。
「ちょっと誰よこのイケメン。あとで紹介なさいな」
お付き合いいただき、ありがとうございました。心からの感謝を。




