23・おすすめしないったらおすすめしない(1)
「もうすぐ沢にぶつかる。そこから左手に下っていけば、じきプアアの入り江だ」
カイとわたし、滑りやすい斜面をひたすら登ってゆきます。トーニ少年の言葉に引きずられるように、でなきゃ、犬の吠え声に追い上げられるように。
「あっ、あの、トーニくん。どうして、沢までっ、登るんですか。こっから、斜めに、行ったほう、が近みち……」
少年は答えてくれませんでした。
胸の内、不安がムクムクグルグル、雲のようにふくらんで渦巻きます。もう腹は決まったはずなのに。
優先順位、第一に、ケガ人死人を出さないこと。
わたし自身のことはあんまり心配してないです。人間、不思議と自分だけは無事で済むと思うもの。ビビって動けなくなるよりは、その思いこみに乗ってガンガン行きたい。なーに、日本人女性の平均寿命が九十近い今日び、十七そこらでそうそう死にゃしませんて。
冗談はおいといても、わたしは、危なくなったらすぐゴメンナサイするからいいのです。
心配なのは、目の前をゆく少女。背は高いけどいっこ下、細い背中を汗で光らせて。
この子は果たして、どたんばで無茶しないでしょうか。跳ばないでしょうか、最悪の結末に向かって、勇敢に。
そして。
わたしが勝手に決めた『優先順位』、この島の皆さま方に、どれだけご賛同ご協力いただけるものでしょうか。
さしあたって、吠えたてながら迫る犬たちに。
そのとき急に目の前の森が開け、
「着いたぞ。沢だ」
意外なほど水量豊かな小川が、しぶきを上げながら山の斜面を駆けくだってました。
*
水はどこまでも清く、透明で。このかすかな星明かりの下でも、黒い水底がすっと見通せました。淀みにたゆたう小魚など、まるで宙に浮いているかのよう。
喉が渇いていました、息も上がってました。
つい時と場合を忘れて、フラフラ水面に近づき、
「ここから川沿いに下れば入り江だな?」
カイの声で我に返りました。
「ああ。岸は多少滑るが、木も生えてないし、なにより仕掛け罠がない。かかった野ブタが川の中で死ねば水が穢れるからだ」
「……なあトーニ、川の中を歩いてくのはどうだ? 犬どもの鼻をごまかすのにさ」
ああほら、またこの子は無茶を言う。
「無理だな。乾季ならともかく、これだけの水量だ、転んで流されれば命がない」
「じゃあ、川向うに渡ってから下ってくのは?」
「いい考えだが、時間がない。渡りでモタつけば犬に追いつかれる」
わたし、小さく控えめに手を上げました。
「あの、トーニくん。ちょっとお耳貸してくださるとうれしいんですけど」
「……してくださるとうれしいんですけど。まわりくどい、なんの用だ」
意地悪な口真似、きつい眼差し。うう嫌われてる。でもいい、今はそれどこじゃない。
少年のそばに寄ってコショコショ耳打ち。山を登りながら、ずっと考えてたこと。
わたしの提案、意外でも不服でもあったらしく、はじめ何度か話を遮ろうとして。
けど最後まで聞いて、二、三すりあわせして。トーニくん、結局うなずいてくれました。
「……よし。お前の浅知恵に乗るのも腹立たしいが、それで行こう」
「ありがとう。じゃ鉈貸してください。……どうも」
「おいなんだよ。私をのけ者にしてなんの相談だ」
ぷっと頬をふくらます(あっかわいい)カイに、わたしから説明しました。
「ここからは、わたしたち二人で行きましょう。トーニくんには、残って時間稼ぎしてもらいます」
*
「はあ!?」
驚きと怒気のまじったカイの声。けどわたしは退きませんでした。
「こっからは先導なしでも降りられるみたいです。彼は男だから、山にいてもおとがめナシでしょ? なるべく追っ手を引き留めてもらいます」
「大丈夫だカイ。おれにとって山衆は身内、争いにはならない。先に行ってろ、あとから追いつく」
全部を話したわけじゃありません。それも、時間がないからじゃなかった。
疑いの目でわたしたち陰謀組をにらみつける、勘の鋭いカイ。
けど、やがてきびすを返し、ふもとのほうに向き直りました。
「もめてるヒマはないな。……無理はするなよ、トーニ」
「しないさ。『その一、ケガ人死人を出さない』。そうだろ、よそ者」
返事しかけて、わたしはハッと息をのみました。
トーニくん、微笑んでました。こちらに目もくれず、ただカイの後ろ姿だけ見つめながら。
ひどくやさしい、晴れ晴れした笑顔。
晴れ晴れしすぎて、まるで……
「……トーニくん、本当に無理はなさらず。またあとで。きっと」
とたん少年は無表情に戻り、弓の弦をビンと弾きました。
「犬の声が近い。走れ」
*
小川の岸辺は、トーニくんが言った通りぬかるんで滑るけど、平坦ではありました。頭上、樹々の屋根が途切れて、星の光が青く前途を照らして。スマホのライトを消しても、なんとか走れます。
ふたり、ほとんど身ひとつの逃走劇。わたしは左手にスマホ、右手にトーニくんの鉈、ベルがくれた濃茶の布を肩からかぶって。カイは、お父さんの写真立てだけしっかり胸に抱いて。
「ミユキ、その鉈、私が持つぞ。重いだろ」
「うっ、ううん、平気。急ぎ、ま、しょ」
しゃべってみたら、わたし、思った以上に息絶え絶えでした。
もっと体鍛えとくんだったなって、ふと苦笑い。インドア派が完全に裏目に出たやつですこれ。こんなことと知ってれば、学校行事のマラソンにもまじめに取り組んだでしょうに、共に低みを目指す友たちとテレテレ走ってました。低みを目指すのは得意ですわたし。
……しょーもないこと思い出すのは、たぶん、無意識に緊張とか不安とか逸らすため。
子供二人っきりで走る夜の森、やっぱ心細い。海の深みでもがいてるみたい。
走った先に望むゴールがある保証もないから、なおさら。
「ミユキ! ふらついてるぞ、ふんばれ!」
叱咤の声に我に返って。右、左、右、左、脚を前に出すことに集中しました。
聞こえるのは自分の呼吸、耳元で鳴るような心臓の鼓動。声。『止ま、るな、走、れ』、一歩ごと、頭の中でくりかえす声。目がチカチカして困るけど、カイの背中だけ見失わないよう、わたしは
突然、ものすごい力で引っぱられ、なすすべなく地べたに転げました。
転げたあとも引きずり回され、怖ろしいうなり声をすぐそばに聞き、
カイがなにか叫んで、それを追い払ってくれて、やっと分かりました。
犬が、猟犬が、わたしの羽織った布に噛みついて振り回していたのです。
*
食い取った布を、戦利品みたく前足で踏んで。
鼻つらにしわを寄せ、牙どころか歯ぐきまでむき出しに、わたしを威嚇する犬。
島のどこでも見かける、胴長短足の中型犬で、怖いとかカッコイイより、むしろブサカワと形容したいルックスの持ち主です。……自分がまさに狩られようとしてるのでなければ。
その犬と、泥だらけで地べたに伏せっているわたしの間に、カイ。両手のひらを突き出し、大声で犬を威圧します。まるで、重力を操る呪文でモンスターを釘づけにするかのよう(ゲーム脳)。
呪文、一定の効果はありそうでした。うなり、ボクサーばりに細かなステップを踏み、今にも跳びかかって来たそうな犬が、カイの声が降ってくるたびにひるんで腰を引きます。せわしなくしっぽを振り、悲鳴みたいな鳴き声を上げ、攻撃衝動と服従心の間で揺れているようでした。
そして、幸い、後者が勝ってくれました。牙を唇の奥に引っ込め、目を悲しそうな三角にして、おすわりで首を垂れる犬。た、助かった……
「顔見知りの犬でラッキーだった。ミユキ、ケガはないか、立てるか」
「は、はい、だいじょぶです」
「なら立って、後ろ歩きでコイツから遠ざかれ。背中を見せるなよ」
ふたり、そうしてジリジリ、犬から離れます。足元に気を付けながら三十メートルほども距離を取って……
「走れ!!」
声を合図にダッシュ。おすわりの犬を置き去りに、山下りを再開しました。
「う、うまく行きましたね。助けてくれて、ありがと、です」
「安心するのは早い。というか、状況は悪くなった」
「へ?」
「分かると思うがありゃ猟犬だ。猟犬に見つかったってことは、」
ピィウウウウウウ。
背後から、さっきも聞いた鏑矢の音、糸を引いてひとつ。つづけてもうひとつ。
聞き終えてから、カイが低くうめきました。
「……追っ手に捕捉されたってことだ」




