20・逃走劇、はじまりはじまり
夜。よく晴れて、カイの言ったとおり、月のない夜。
女ばかり六人ザコ寝の部屋で、濃い茶色の掛け布にくるまって、わたしは眠い目をこすってました。
『晴れたら、眠るなよ』
カイの言葉、耳によみがえります。緊張に引き締まった顔まで、まぶたの裏にくっきり像を結びました。
『わかってますって。大丈夫、ちゃんと起きてます』
『だといいがな。あんたの大丈夫はいまいち当てにならない』
『あっひどい。いくらわたしだって、キキカンくらいは持ってんですから。なにせ一世一代の大エスケープですからね、日本じゃなかなか体験できない――』
「……ユキ。ミユキ」
「ぎゃっ」
思わず悲鳴を上げ、掛け布にもぐって頭を隠すわたし。
「ごめんなさい寝てない寝てません、ただその今朝も早かったし今日はお昼寝するヒマもなかったしちょっとだけウトウト」
「しっ、みんなが起きちゃう」
……恐る恐る顔を出したら、すぐそばに、ベルのくりくりした目。窓からの、暗いような明るいような星の光を背負って。
「なんかさ、外が騒がしい。なにかあったのかも」
それでいっぺんに目が覚めました。
「様子を見に行こう、男どもを起こさないよう窓から出よう。ってか出て出て」
「え、え」
腰の高さくらいの、竹の窓枠を苦労して乗り越えたところで、気付きました。
足元にゴムのサンダル、ひと揃い。
「ベル?」
返事より早く、さっきまでかぶって寝てた大きな布を投げ渡され、
「あたしのサンダルあげる。子供用のだけど、ミユキの足なら入るでしょ。
さ、布かぶって。あなたの肌むき出しよりは目立たないから。
ほらほら、行った行った。時間を無駄にしない」
「……ベル?」
細い手が伸びてきて、わたしを抱きしめました。ギュって。
頬に押しつけられた、やわらかであたたかなほっぺ。
「さよなら。カイのこと、よろしくね」
あっけなさすぎて、どうにも実感がわかなかった。
こんな短い『グッバイ』が、あの日、あの白い離れ島で出会ったベル、毎日のようにたくさんおしゃべりした彼女との、たぶん永遠のお別れなのです。
「……さよなら。あなたに会えてよかった」
抱きしめて、つと離れて。顔を見ないよう、見せないよう、走り出します。振り向きもせず。
そして、十メートルくらい行ったところで引き返しました。
「ごめんなさい。そこの籠の、スマホだけ取ってもらっていいですか」
*
里の夜はいつも、怖いくらい静かです。時々、犬の遠吠えや走り回る足音、ネコのケンカの声が聞こえるくらい。
それが今夜、どこかサワサワ落ち着かないような。それに……風が少しきな臭い。
カイに関係あることでしょうか?
牢を抜ける手はある、そう言ってました。抜けたのかどうか……?
「……走るしかないか」
どのみち、なにかあればカイんち集合です。
そして、なにかあったのですきっと。わたしよりも、あのかしこいベルがそう判断して背中を押してくれた。もう立ち止まれない。
突然ですが。これを言うと皆さんなぜか『ああ~……』みたいな納得顔するんですけど、わたしはちょっぴり方向音痴です。そして、カイんちへは一度行ったことがあるっきり。
……だから、昼のうちに、風景や方角を頭にたたきこんでおきました。
あの黒々と迫る女人禁制の山を右に見て、わたしは
いきなり背後から捕まえられ口をふさがれて息が止まり
「……ミユキ。少しだけ方向がずれてるな。が、会えてよかった」
カイ。
ビックリと安心で、あやうく腰が抜けるところでした。
「家に向かう前に長老んちを見に来て正解だった。今回ばかりは、メッセンジャーやってくれたベルに感謝だな。
……どうした? 泣くほど驚かせちまったか? すまない」
「い、いいえ、だいじょぶです。急ぎ、ましょう」
片手でサンダルぶら下げたカイ。たった半日ぶりだけど、なんか、十年も会ってない気がします。
言いたいこと、話したいこと、たくさんある。
けど、目の下を手のひらでこすって、黙って走り出します。今は時間が惜しい。
「里の中は土も均されてる。裸足のほうが走りやすいぞ」
「なるほど。はい」
「まあ、犬のクソくらいは踏むかもしれないがな」
「う……」
いったん彼女の家を目指すのは、ひとえに、スマホのバッテリーを取り戻すため。
星明りだけ頼りに走る。十七年生きてきて、まったくの初経験。
「手ェ出せ」
「え? あ」
言われるまま手を伸べたら、グッと掴まれました。指の長い、力強い手。
「……カイ、ところでどうやって牢を出たんです?」
「あー、飛び火が移って燃えたんだ。さすがに牢屋ごと焼き殺すつもりはなかったらしい。出してくれたよ」
「……。自分で火ぃつけたんじゃないですよね?」
「ハハハ」
「なにがハハハですか。無茶するなってあれほど……」
「しゃべるな。息が上がるぞ」
そうでした。今はただ走らないと。
里の広場の真ん中に据えられた木組みの台、そこに高々とそびえるY字型の杭。処刑台。
考えたくもないけど。
わたしはともかく、カイの島抜けには縛り首がかかっているのです。
優先順位。もう何度も頭の中で整理したそれを、もう一度確認。
「……を出さない。絶対に」
「あん? なんだ、ミユキ」
「ううん、なんでも。急ぎましょう」
そのとき、誰かの呼ぶ声。大人の男の。
目を向けると、遠くで誰かが手を振っていて。
島の言葉は分かりませんが、
『カイ、ミユーキ』
そう聞こえた、ような。
「気付かれたかもな。だが無視しろ」
胃がキリキリしたけど、その言葉に従いました。
*
やがて、夜風に潮のにおいが混じり始めるころ、たどり着きました。カイの家、海と山に挟まれた草地に上げられた、あの白いクルーザー。
船室は外に輪をかけて暗かったけど、勝手知ったるカイの動きに迷いはありません。
床板に指をひっかけ持ち上げると(収納になってたんですね)、そこにはギターケース、いくつかの木や紙や金属の箱、そして、夜目にも錆の浮いた手提げ金庫。
留め金を外しただけで、金庫はあっけなく開きました。
「ほらミユキ、あんたのバッテリーはこの中……なんだよ、なに突っ伏してるんだ」
「いえ……金庫っていうからもっとごついのを想像してて……しかも鍵もかかってないし……」
「鍵? こいつは金気のものを潮風から守るもんだろ。……あったぞ、ホラ」
こんなことなら、わたし一人でもあらかじめ回収できたなあ。しかもノーリスクで。
不満ってんじゃないけど、顔に出ちゃったかも。カイ、バツ悪そうに唇を尖らせました。
「借りっぱなしで忘れてたの、すまなかった。許せよな」
「あっううん、怒ってはないですよ。ただちょっと、なにに使ったのかなって」
「……いろいろだ。言いたくない」
そっぽ向いた横顔を見てたら、不意に、ホントに不意にわかっちゃって。
そしたら、胸の底がジンとしました。なごんでるヒマないのに。
心の中でだけ問いかけます。
『あのラジオ、それとも別のなにか。なにか、電気で動くもの。
お父さんの残したなにかが、このバッテリーでもう一度動かないか、試してみたかったんですね?』
「……なに笑ってるんだ。ほら、用が済んだなら急ぐぞ」
「あ待って待って、一分だけください。動く動かないで、この先がぜんぜん違うんです」
気を取り直して手早くスマホの裏を開け、バッテリーをはめて。
それから、グッ、電源ボタンを長押し。やや震える手で、祈りながら。
ブン、
すぐに振動が応えてくれました。
「やっ、た……!!!!」
ひざから崩れそうになるのをこらえて、小さくガッツポーズ。
当たり前に立ち上がったスマホ。圏外なのはもちろん織りこみ済。小さなアイコンが、電池はまだゆうに半分以上残っていると告げてます。
ほぼ一カ月ほったらかしだったのに、ありがたい誤算。今はこれだけ確認すれば充分。
「お待たせしました! さあ、行きましょう!」
「おう」
物珍しげに横からのぞきこんでたカイ、未練なく船尾側にある出口に向かいます。
「って、あの? ギター、持ってかないんですか?」
お父さんの残してくれた大切なものなのに。
「デカすぎる、重すぎる。とても持ってけるもんじゃない、置いていく」
わたしは七歩だけ寄り道して、操縦席のダッシュボードの上、木の写真立てを手に取りました。
四角い枠の中で笑ってる、浅黒い肌のハンサムガイ。
「……これは?」
「そうだな。ありがとう、ミユキ」
微笑んで手を差し出すカイ、
その背後から声が。
「動くなよ。二人とも」
ギクリ、体がこわばりました。
若い、とがった声、流暢な英語。
戸口の向こうの闇から姿を現したのは、トーニ少年。弓を引き絞って。
(幕間14)ベル
『……はあ』
窓ごしミユキを見送って、あたしはため息ひとつ。
ミユキとカイの計画、いちおうは筋が通ってる。手紙を盗み読みして確かめた。
でも、このウソつきベルさまを、無条件で味方と思ってよかったのかしら。
かわいいミユキ。大好きなミユキ。
大っ嫌いなミユキ。
どう思ってるんだろう、あの子。
一緒にいたのはほんのひと月。でも、ミユキはあたしとの別れを惜しんでくれた。
そのあなたが、物心つく前から友達だったカイを、どこかへ連れ去ろうとしている。永遠に。
「そのこと、このベルさんがどう思ってるか、考えたことあるのかなあ?」
ひとりごちて、あたしは男部屋に向かい――
「じいちゃん。ミユキ、行ったよ」
「おう。こっちは、来たぞい」
とっくに起きてたじいちゃんが、窓の外、あごをしゃくってみせた。
案の定というか、松明を手に近づいてくるのは、山長の巨体。
その後ろに、百戦錬磨の狩人、山衆たちの姿も。




