16・暗転
スマホのバッテリーが抜かれている。
誰に?
いつから?
ぐちゃぐちゃの頭で、必死に考えました。
飛行機が落ちて、漂流中はまだ、フツーに電源は入ったんです。電池切れを恐れて、点けては消しだったけど。
やがて離れ小島で目を覚ましたとき、もう沈黙してたスマホ。
あのとき、すでにバッテリーを抜かれてたんだとしたら。
いわば隔離されてたわたしに、近づいた人は多くないはず……
「ミユキ? どうした」
ひゅっ、って喉が鳴って。あわててスマホを掛け布に突っ込んで、隠して。
振り向いたら、船室の入り口、カイが不思議そうに目を丸くしてました。
わたしが眠っていたという三日間、夜、ずっとそばにいた少女。
それからの数秒のことを、わたしは一生忘れないでしょう。
「ミユキ? どうした」
不思議そうに目を丸くして、こちらに近づきかけるカイ。
わたしはとっさに笑顔を作って、両の手のひらを突き出しました。
「う、ううん。なんでもないです、だいじょうぶ」
それは、どんなに引きつった、醜い笑顔だったでしょうか。
カイ、瞬間、驚いて動きを止め、
それから唇を噛んで、フッと目を伏せました。
「……ベルのやつを呼んでくる。家が直るまで、あんたはここにいていい」
それだけ言い残し、きびすを返して去ってゆきます。鋭敏で繊細な少女。
その背中、追えなかった。
追うべきだったのに。
「ミユキ、どったの? カイとケンカした?」
やがて来たベル、心配してくれました、けど。
わたしは説明も、笑ってみせることもできなかった。
もちろん、スマホのことを訊ねてみるさえも。
*
日暮れ。
やってきたのは、カイ……のお母さん。とまどい顔で、
「あの子がね、今夜だけあなたの番を頼むって。『家』での仕事を代わるから、って」
『家』とはもちろん『子供の家』。島の託児所でセントラルキッチン。
つまり、人の多いところが苦手なカイが、わたしのそばよりそこを選んだわけです。
それでもどこかでホッとしてる、情けないわたし。少なくとも、この人のことは疑わずにすむから。
進まない食事を終え、ベルが帰ってしまってから、ようやく控えめな問いかけが来ました。
「ね、ミユキちゃん。あの子となにかあったのかしら」
なにか。なんだろう、ええとつまり。
いままでの全部の親切、全部のやさしさに、不信で応えました。
思い出します。初めてお話ができた夜、わたし、カイの大声に驚いちゃって。
『私らは、文明人じゃないが、野蛮人でもないぞ』
そのときは、それだけで許してくれたのです。
でも今、わたしたちはもっと親しくなってたはずなのに。
「はぁ……」
今さら肩を落とすわたしに、やわらかな声が、
「大丈夫よ。あの子たまに怒りっぽいけど、機嫌が直るのも早いの。明日になればケロッとしてるわ」
あした。
そう、明日、カイに謝ろう。わけを話そう、きっと。あした……
*
翌朝。なんだか体がムズムズして目が覚めました。
今朝は少し蒸します。掛け布をはいでボーっとしてたら、向かいのソファ、カイのお母さんも目を開けて。
「あ。おふぁようございま」
「ミユキちゃん!? どうしたの!?」
へ?
いきなりの悲鳴、ビックリした。なにがどうしたのでしょう。ちょっとムズムズするけど、別になにも……
体中、赤いボツボツが浮いてました。
あーやっちゃった。まだボーっとしてたら、いきなりギュッ、抱きしめられて。
「すぐ長老様を呼んでくるから。気をしっかり持って、おとなしく待っててね」
カイよりもなお細い背中、止める間もなく外に飛び出してゆきました。
*
やがて、カイのお母さんに連れられてやってきた長老。
ひと目わたしを見るなり言いました。
「あー。嬢ちゃん、すまんの、もう一度『島』じゃ」
なんでもないですたまにあるんです、という主張は、やんわり流されて……
*
『島』とはつまり、最初に目が覚めたのと同じ、離れ小島のこと。
長老のひと言で、わたしはあっという間に船上の人でした。
カヌーを操るのは、肩幅の広い、いかつい顔した男の人。
嵐の後のせいかやけに揺れます。わたしと長老、海に落ちないよう、舟べりをつかんでなきゃなりませんでした。ちょっと酔った。
「あの、長老さま。ご迷惑おかけして」
「なぁに、気にすることはない、嬢ちゃんの落ち度ではない。病と恋は襲ってくるもの……昔の人はいいこと言うじゃろ」
なぐさめるみたく、ウン、ウン、ゆっくりうなずく長老。
これだけ良くしてくれてるのに罰当たりだけど。
この人も、わたしが目を覚まさない間、そばに近寄れた人だな。そんな考えがずっと頭から消えてくれません。自己嫌悪。
でも、ともかく説明はしなくちゃ。赤い点々の浮いた腕を示して、
「ええとですね。たぶん、食べ物のせいだと思うんです。これ」
「食べ物?」
わたしは軽いエビカニアレルギー持ちです。じんましんが出てかゆくなるのです。生のが特に危ないけど、火を通したものでも、鮮度が落ちるとやられることが。
ゆうべ晩ごはんをろくに食べなかったわたし。夜中になっておなかがすいて、残っていた蒸し芋、そして魚介のスープをつまみ食いしました。たぶんそれが敗因。
もちろん、作ってくれた人のせいじゃありません。冷蔵庫も防腐剤もない島の夏をナメてたわたしが悪い。
「なんじゃ。それなら陸にいるうちに言えばよかろうに」
「ええとその……」
言うチャンスがありませんでした。作った人つまりカイのお母さんが、波打ち際まで付き添ってくれたから。しかも半泣きで。
察してくれたのか、長老はまたウンウンうなずいて、
「ま、そんなとこじゃろうとは思っとった。が、ともあれ治るまで離れ小島にいてもらうよ。すまんが、今の嬢ちゃんを見たら皆が怖がる」
発疹とともにバタバタ人が死んだという、八十年前の『悪魔』の伝説、いまだ健在ということみたいです。
*
やがて、波かき分けてたどり着いたは、同じ離れ小島ではあるけど最初とは違うとこ。最初のよりもっと本島から遠く、もっと海の上、ポツンと孤立してる島でした。
「前の島はな、嵐で小屋が飛んでしまった。ここのは無事じゃった」
心を読んだでもないだろうけど、長老がひとりごちました。
「食事は日に三度、誰かに届けさせる。今回は、すまんがベルとカイの付き添いは無しじゃ」
わずかな荷物を降ろし終わって、長老たちはもうカヌーの上。わたしは一人、砂浜に置いてけぼりです。
「……いろいろすみません。お手数おかけします」
「いやいや。なにもなにも」
頭を下げるわたしに鷹揚に手を振ってみせて。レンズなしのメガネ越し、長老、ふと覗き込むような目。
「そう嬢ちゃん、カイといえば、あの子となにかあったのかね。
夜の番をサボったそうじゃないか。わけも教えてくれなかったと、ベルが首をひねっておった」
迷ったけど、おおまかに打ち明けました。
「わたしが悪いんです。せっかく友達になれたのに、彼女を傷つけるようなまねをして。次会えたら謝ろうと思います……許してくれるかはともかく」
「うむ」
長老、今日一番大きく、力強くうなずいて、
「すぐに会えるとも。きっと仲直りできる。嬢ちゃんが×××××れれば、すぐ連れ帰ってあげよう」
え?
なんだろう、途中を聞き取りそこねました。今なんて?
老人は顔をくしゃくしゃにして笑い、親切に繰り返してくれました。
「嬢ちゃんが、死ぬまで島で暮らすと言ってくれれば、すぐ連れ帰ってあげよう」
*
「すまんのう嬢ちゃん。気の毒には思うが、わしも皆の衆に押し切られてしまってな」
「どうして……」
長老の顔、今はすこし見上げる位置にありました。浜辺にへたりこんでました、わたし。いつのまに。
「分かり切ったことじゃ。閉じた暮らしをしておると、どうしても血が濃くなる。弱い子、欠けた子が生まれるようになる。
レイは島にとって恵みの雨じゃった。よい子をたくさん産ませ、全員ではないが元気に育った。嬢ちゃんにもな、みな期待しとるんじゃよ」
レイ、誰だっけ。ああそうだ、カイのお父さんだ、アメリカ人だったっていう。島に来て、たしか四度結婚して、いやいやそんなのどうでもいい。
酸っぱいものがぐっと上がってくるのをこらえて、抗議しました。
「わ、わたし、無理です。帰ります。お母さん、きっと探し、てる」
「ふむ。困ったのう」
言葉どおり、いかにも困った顔。いかにも善良そうな。
いいえ、いかにもじゃなかった。この刺青だらけの老人こそ、まさに善人そのものでした。もし、島の利益にかなうことを善というならば。
「嬢ちゃんや、悪いことは言わない。おとなしく島で暮らすうちに潮目が変わることもあるじゃろ。つまり、皆の衆もいつか、あんたを帰してやれと言い出すやもしれん。何人か子を残してくれた、その後なら。
短気を起こさず、よく考えて、表向きでもよい返事をおくれ。今ならわしも……」
「イヤです! 考える必要なんかない! わた、しは、」
「……今ならわしも、黙っていてあげる。
嬢ちゃんが、少なくとも十七にはなっておること。もう人に嫁ぐ歳であることを、皆には黙っていてあげよう」
頬を張られた気がしました。
どうして。わたしが歳の話をしたのは二人だけのはず。
カイ、ベル。
どうして長老がそれを。まさか。
けれど、明かされたタネはまるで斜め上で。
「Toshishita,no,kuseni。トシ、シタノ、クセニー」
いちばん親しい言葉なのに、最初、分からなかった。
日本語!
思い出した。本島に引っ越した日、カイ、ベルそして長老の前で、たしかにわたしがもらした独り言。
「わしの両親はその昔、大志と野心を抱いて日本を出、南洋へ渡った。幼かったわしを連れてな。
嬢ちゃんが日本人と知って、不思議なほど胸を揺さぶられたよ。なにひとつ覚えていない祖国なのにだ。
何十年ぶりかで出会った同胞に、あまりむごいことはしたくない。まあ、黙って腰を落ち着けてみなさい、のんびりした良い島じゃよ。スメバミヤコ、ト、イウダロ」
最後、日本語でした。笑っていました。黄色い歯をむいて。
砂の上つっぷして、また上がってきた吐き気をギリでこらえて。
ようやく、言葉を絞り出すわたし。
「……スマホのバッテリーを抜いたのもあなたですか……?」
「すまほ? はて、なんのことかな」
とぼけた声だけ残して、カヌーは去ってゆきました。
*(幕間7)
『すまんの。慣れんことをさせて』
『いいえ。子供のころ、カヌー遊びはよくしました』
嵐の後の、まだやや荒れた海。
頭を掻く長老に、カヌーを操る男、生まじめに答えた。
行きほど船足は順調でない。風を捕まえきれていないからだ。
『……長老。あの娘となにをお話しだったんですか。ずいぶん深刻そうでしたが』
『なんじゃ、お前、まだ英語が分からんのか』
『申しわけありません。我ら山衆は、どうも』
長老は、穏やかに、許すようにうなずいた。
それでいい。許すもなにも、わざわざ英語が分からない男を選んで連れてきたのだった。
「サアテ、ハジマテ、シマッタナ」
『は? 長老、今なんと』
答えず、老人は、遠い海の果てを見つめていた。




