第五十五話「不安な日々」
三月二十八日。
四日前、ラスモア村は厳戒態勢に入った。館ヶ丘には自警団員の半数、約二百人が常時待機している。
アクィラの山や麓の森で異変が起きている可能性が高く、アンデッドの襲撃前の状況に似ていると父が判断したためだ。
村人たちもいつでも避難できるよう準備を行っていた。既に各丘にある地下貯蔵庫から酒樽は出され、避難所として使えるようにしてある。出した酒樽はドワーフ・フェスティバルで使った西の森の地下貯蔵庫に一時的に移した。さすがに四千人のドワーフに対応できるサイズがあり、すべての丘の酒樽を入れてもなお十分な余裕がある。
避難訓練も行い、警報から三十分程度で避難できるようになったが、それでも不安は残っている。
この四日間は大きな変化はなかった。しかし、俺だけでなく、多くの者が不安を感じている。
そして、その不安は日を追うごとに大きくなっていた。特に幼い子供たちの怯えは酷く、母親から離れなくなるなど、明らかに異変は近づいている。
ロックハート家の体制だが、兄ロドリックがキルナレック市に移った。この決定に対し、温厚な兄にしては珍しく、強い口調で反論した。
「私の居場所はこの城です! 子供たちをキルナレックに避難させれば、問題ないはずです!」
兄は長男ディーンを初めとする三人の子供を避難させれば、ロックハート家の嫡流が途絶えることはないと主張した。それに対し、父は毅然とした態度でそれを一蹴する。
「ディーンたちが生き残れば、我々が全滅してもロックハート家は残るだろう。だが、ここで起きたことを誰が帝国やカウム王国、ペリクリトル市に警告するのだ? 嫡男であるお前以外にはできぬことだ」
「警告だけならロザリーと文官でも可能です!」
兄はそれでも譲らず、声を荒げている。
「お前はこの家を継ぐ身だ。家族や家臣が戦う中、ただ一人残らねばならぬことを覚悟せねばならん」
父は領主として自ら前線に立てない状況を何度も経験している。次代の領主である兄にもその苦しさを経験し、成長してほしいのだろう。
兄も父の言いたいことが分かったのか、悔しげな表情で黙り込む。そして、三十秒ほど沈黙した後、覚悟を決めたのか、しっかりと父を見つめて了承した。
「私はキルナレックで朗報を待ちます。ですがロザリーと子供たちはここに残していきます」
「そうだな。ロックハート家の者が逃げ出したとなれば、領民たちの不安は大きくなるからな」
兄も父も愛する家族を安全な場所に移したいと思っている。しかし、嫡男一家が安全な城塞都市に移れば、この村を守り切れないためと考える村人が出ないとも限らない。そうなると、自警団の士気が下がる可能性がある。
更に兄は戦力の集中を進言した。
「キルナレックの警備兵のうち、バイロンと彼の直属はこちらに回します。キルナレックが戦場になるということはここが敗れた後です。それならば多少の戦力があったとしても意味がありません」
バイロン・シードルフはキルナレックの守備隊長であり、ラスモア村出身の従士数名を直属としている。バイロンはもちろんのこと、従士たちも祖父の厳しい試練を乗り越えた者たちであり戦闘では十分に役立つ。
そのため、キルナレックにいることが多いバイロンも今ではラスモア村に戻っている。兄が抜けた穴は大きいが、彼がその穴を埋めてくれるだろう。
その日も何事も起きずに夜を迎えた。
夜襲を懸念し、ロックハート城の屋上からサーチライト型の灯りの魔道具が空に向けて光の柱を伸ばし続けている。また、城の窓はすべて鋼鉄製のシャッターが降ろされ、戦闘モードに切り替えられていた。
俺たちもいつもの離れから城の一室に移っている。これは木造の離れでは奇襲を受けた時にやられる可能性があることと、俺たち魔術師が城の屋上からすぐに攻撃できるようにするためだ。
同様に夜間は家臣たちも家族と共に城に避難している。
俺とリディ、シャロンは夜間の不寝番を免除されているため、部屋で休んでいるが、重苦しい雰囲気にどうしても眠りが浅く、何度も目が覚める。
それでも何事もなく朝を迎えた。しかし、首筋にちりちりと感じる不快感は今まで以上に強くなっている。
「嫌な感じがするね。こういう時は逃げるのが一番なんだが、そういうわけにもいかないしね」
ベアトリスも同じ思いなのか、俺に愚痴をこぼしている。
明後日は春祭りだが、この空気が村にも蔓延しており、祭りの準備はほとんど行われていない。
朝食の後、リディとダンと一緒に屋上にある塔に上がる。
朝から晴天が広がっているが、なぜか爽やかさを感じない。それどころかその青空から禍々しさすら感じている。
「東で何か起きている気がするわ」とリディはそう言いながら、雪に覆われたアクィラの山々を見つめている。
「山で何かが起きている感じか?」
「分からないけど、もっと遠い気がする。ルナたちに危機が訪れているのかもしれないわね……」
その言葉に東の空に意識を向けた。
確かに強い力を感じる。邪念という感じがない純粋な力で、ゴーストなどのアンデッドが放つ怨念とは明らかに異なっている。ただ我々とは相容れないものだということも感じていた。
「僕にも感じます……あの時の漆黒の魔族の力に似ている気がします……」
そう言ってブルッと震える。
「俺も今同じことを思ったよ。ルナたちが戦っているのかもしれないな……」
朝食後、父と祖父は非戦闘員のキルナレックへの避難を決めた。
まだ敵の姿すら見ていないが、尋常ではない力に幼子が怯えており、精神に傷を負う前に少しでも遠くに向かわせようと考えたのだ。
その中には兄の子供たちやダンの息子レオンも含まれている。
義姉ロザリーとダンの妻エレナは「私たちはここに残ります」と毅然とした態度で宣言し、子供たちをイーノス・ヴァッセルの妻ジーンに預け、自らは剣を持ち、鎧を身に着けている。
ロックハート家所有の馬車と荷馬車だけでなく、村の商店や鍛冶師ギルドにも協力を仰ぎ、約三十輌の馬車を手配する。
館ヶ丘の馬場にいる馬たちは馬車を引くためにキルナレックに向かっており、羊や牛などの家畜も村人たちと共に避難させた。
家畜たちも怯えており、ちょっとした物音でパニックになったためだ。そのこともあり、館ヶ丘の周辺の草原がいつも以上に寂しく感じる。
キルナレックまでは二十キロメートルほどであり、馬車なら午後に出発しても日暮れ前には到着する。
一輌に十五人ほど乗れるため、五百人近い数だ。今のラスモア村の人口のほぼ半分に当たる。
護衛にシム・マーロン率いる騎馬隊が付き、彼らは明日の朝いちばんで村に戻ってくる予定だ。
残された村人は皆戦うつもりで既に武装を整えていた。
自警団に登録されている約四百名に加え、弩の訓練を受けている主婦百人も簡易の鎧を身に纏い、弩を手元に置きながら城の近くで不安そうに空を見ている。
スコットたち蒸留職人は避難することをよしとせず、未だに酒造りを続けている。一度、俺が避難するように諭しにいったのだが、それを笑顔で断ってきた。
「発酵と蒸留は止めていますが、製麦は途中ですから。まあ、いざとなれば地下倉庫に逃げ込みますから大丈夫ですよ」
大麦を麦芽に変えるモルティングの最中であり、数時間おきに撹拌しなければならない。この工程は温度管理が難しく、更に泥炭を使っていることから、フレーバーを決める重要な工程だ。
「警報が鳴ったら迷わずに逃げろ。お前たちの命に替えられる酒などないんだからな」
職人たちは大きく頷き、作業に戻っていった。
その日も何事も起きずに夜を迎えた。
三月三十日。
空は厚い雲に覆われ、今にも雨が落ちそうな嫌な天気だ。
本来なら春祭りの前夜祭ということで華やいだ日になっていたはずだが、今日は完全武装した自警団員たちが城の周りで待機している。
午前七時には朝食を終え、装備も整えている。
リディとシャロンは城の屋上で備え、ベアトリスとメルはそれぞれの部隊と一緒に待機している。
俺は自分の部隊を持たず、父と共に全体の指揮を執ることになっていた。そのため、父に代わり、自警団員たちの様子を見にいく。
自警団員たちは若い者ほど不安な表情を浮かべ、ベテランも緊張した面持ちで武器の手入れをしていた。
そんな中に強い存在感を放つ集団がいた。スケイルメイルに身を包み、大型のハンマーを手にしたドワーフの集団だ。
ベルトラムを筆頭に三十人ほどが、いつの間にか運び込んでいたスコッチの樽の前に陣取っている。そのほとんどが蒸留器の製造を学びに来ている若手で、“聖地”を守るという意気込みが感じられた。
「どうなんだ。何か情報はあったか」といつになく真剣な表情のベルトラムが聞いてくる。
「今のところ偵察班からも情報はないな」
ガイ・ジェークスの部下を中心に偵察班を編成し、昨日の朝から東の森に向かわせている。一流の斥候で構成された三つの班が異なるルートで偵察を行っているが、未だに狼煙台に煙が上がる気配もない。
「今日のうちに何か起きる。お前も同じことを思っているんだろ」
ベルトラムの問いに黙って頷く。
その場にいるドワーフたちも同じ思いのようで、ジョッキを握る手に力が篭っている。
午前十時頃、シム・マーロンらキルナレックに住民たちを送った部隊が戻ってきた。これで戦力は万全だ。
しかし、悪寒のようなものは更に強くなる。
主婦や若い自警団員たちの中には顔面が蒼白になっている者もおり、その他の者たちも表情は暗い。
そのことに気づき、父の部屋に向かう。
「皆を集めて演説をお願いします。今のままでは古参の者とドワーフ以外、まともに動けそうにありません」
父も気になっていたのか、「そうだな」と言って、家宰であるイーノスに指示を出す。
「見張りと防空塔要員以外を城の前に集めてくれ。皆にこの後のことを話す」
イーノスは「了解しました」と言って父の部屋を出ていった。
「今日のうちに襲撃があると思うか?」
俺に問うというより、自らに言っている感じだ。
「恐らくあるでしょう。これだけの瘴気を感じさせて何も起きないということは考えにくいと思います」
「私は見ておらんが、ヴァニタスがここに来ると思うか……」
父は弱気になっているのか、不安そうな顔つきだ。その言葉にできるだけ軽い感じで答える。
「それはありませんよ」と断言する。
「それはなぜだ? これだけの力を感じているのだが……」
俺の言葉に信じられないという顔をする。
「エルバイン教授の論文にもありましたが、ヴァニタスには一定の制限が掛けられています。アクィラの奥地ですら我々に手を出さなかったのです。それが今さら直接手を下すことはありえません。それにヴァニタスはルナとアークライト氏の相手をしなくてはならないんです。神々の加護を受けた本命を無視して、私たちのところに来ることは考えられませんよ」
俺の説明に「確かにそうだな」と言い、僅かに余裕を取り戻す。
「そのことを領民たちに説明しよう。敵はアンデッドの王ヴラドと同程度だろうと。そうお前が断言したと伝えるが構わないか」
「ええ、問題ありません。私の考えだと言った方が、みんなが信じてくれるなら遠慮なく使ってください」
そんな感じで話しているが、俺自身が信じているわけじゃない。
ルナたちが戦っていないというのはあくまで俺の想像に過ぎない。もし、既にルナたちが敗北していたら、ヴァニタスにとって次に邪魔な俺を消しに来ることは充分にあり得る話だ。
冬の間に動きがなかったのは既に決着が付いており、急ぐ必要がなかったためと考えることもできるのだ。
このことはリディを含め、誰にも言っていない。それを口にしたら本当になりそうだと、理由もなく思っているからだ。
父と軽く雑談していると、イーノスから「皆を集めました」という報告が来る。
「分かった。今行く」と言って、磨き上げられた兜とアダマンタイトの剣を持ち、イーノスを従えてバルコニーに向かった。俺も二人に続く。
重いシャッターを開けて外に出ると、ザワザワとした声が下から聞こえてきた。
いつもならこのような状況で私語が聞かれることはほとんどないのだが、やはり浮足立っているようだ。
父の姿を認めると、私語が止む。
「これは皆も感じていることだと思うが、今日ここは襲われるだろう」
その言葉で自警団員たちは“やはりか”とでもいうように落胆の表情を浮かべる。ここに来ないという情報が入ったと言ってほしかったのだろう。
「先ほどザックと話したのだが、敵はアンデッドの王ヴラド程度の魔物が率いていると考えるべきだろう……」
その言葉に更に表情を暗くする。当時のことを知っている者はあの絶望的な戦いを思い出し、知らない者も酒場で聞かされた話を思い出したのだろう。
「……つまり、我々の勝利は約束されているということだ!」
そこで自警団員たちが再びざわつく。
父はそれを無視して話を続けていく。
「よく考えてみてくれ。八年前に比べ、我々の戦力は大きく増強されている。世界を旅したザックが言うには、ロックハート家は最強の傭兵団、マーカット傭兵団を遥かに超える力を持っているそうだ。これは彼の英雄、赤腕ハミッシュ自らが断言したそうだ!」
更に自警団員が信じられないという顔で隣の者とこそこそと話している。
そこで父に代わる。
「俺はハミッシュ殿とアルスで酒を酌み交わしている。その時にこの耳で確かに聞いた! 自分たちではアンデッドを相手に戦い抜くことはできなかっただろうと! ミリース谷で三千のオークを倒した英雄がロックハート家に脱帽したんだ! 敵の数や強さは正直分からない! だが、主力はヴラドか、アクィラで戦った魔将程度なのだ! 我々が力を合わせれば恐れる必要などない!」
そして再び父に代わる。
「不安が襲ってくるが、これは敵の手だというのが、私とザックの結論だ! 敵は我らに対抗するため、搦め手を使ってきているのだ! そのような小細工をせねばならぬ敵に怯える必要があるか!」
「「オオ!!」」という雄叫びで自警団員が応える。
「敵は近い! 各隊長の命令に従い、力を尽くして戦ってほしい! 以上だ!」
そう言うと、父は踵を返して部屋に戻っていく。その後ろでは自警団員たちの歓声が続いていた。
部屋に戻ったところで、「あれで何とかなりそうか」と聞いてきた。バルコニーで鼓舞した者とは思えないほど疲れた表情をしている。
父もヴラドより強力な敵が来ると本能的に考えており、村人たちを騙したという気持ちが強いのだろう。
「今の演説で少しでも勝率が上がるなら心を痛める必要はないと思います。それに必ずしも嘘を言っているわけでもないのですから」
「そうだな……」と言ったところで、警報用の鐘が打ち鳴らされる。
その直後、イーノスが駆け込んできた。
「森の狼煙台に“敵発見”の合図です! 更に遠方に竜らしき魔物が見えるとの報告がありました!」
遂に敵が現れたようだ。




