第六話「ルナ」
ルナの視点です。
私は月宮瑠奈。
日本にいた時は、普通の高校生だった。
今から七年くらい前に突然記憶が戻ったわ。その時、今の身体は三歳になったばかり。小さな身体で何をするにも不自由だった。
この世界に来て良いことは一つもなかった。
私のいたティセク村は貧しかったから、いつもお腹を空かせていた。
それ以上に嫌だったことがある。ここは不潔だった。シャワーは浴びれないし、トイレもない。服だって何日も洗わないし、第一、服は一着しか持っていなかった。それにベッドには年中、虫がいて、いつも体中が痒かった。
私には耐えられなかった。
この世界で母に当たるディアナという人は良い人だったし、父に当たるジョセフという人も無口だけど悪い人じゃなかった。ジョセフという人は私の父だという話だったけど多分違う。
近所のおばさん連中が話しているのを偶然聞いたことがあった。私が生まれたのは母がこの村に来て半年後だと。つまり、私は別の人の子供。それはどうでもいいのだけど。
私に関する噂は村のみんなが知っていたみたい。村には私と同じくらいの歳の子供、もちろん今の身体の歳のことだけど、そんな歳の子供は少なかった。
村の人口が八十人くらいしかいないから、元々子供は少ないのだけど、それでも同じ歳の子は一人もおらず、二、三歳離れた子を入れても五人くらいだった。
五人しかいないのに“くらい”とつけたのは十歳になるまでに何人も亡くなっているから。
五歳の時には十人くらいいたのに、十歳になった時には八歳から十二歳の子供の数は五人に減っていた。みんな病気だった。
ティセク村には医者がいなかった。猟師である私の父が薬草を採ってくるだけ。
医者、この世界だと治癒師と呼ぶそうだけど、治癒師がいる一番近いところは二十五km離れたソーンブローという町だった。もちろん、治癒師に掛かるお金なんてないから、もっと近くても関係ないんだけど。
そう言えば、“キメル”という単位も最初は全然分からなかった。いいえ、今でもよく分かっていない。何となく一mが大体一メートルだから、その千倍の一キメルは一キロメートルくらいだろうってことくらい。だって、村から出たのは今回が初めてだから。
話を戻すけど、村に子供は少なかった。だからというわけではないけど、私には友達がいなかった。
だってそうでしょう。年上の子は働いていたし、話す相手は小学生や幼稚園児なんだから。そんな子供と本当の意味で友達になんてなれない。だから、いつも一人だった。
五歳くらいまでは仕事をしなくてよかったけど、それを過ぎると家の手伝いをさせられた。他の家に比べれば少なかったみたい。それでも、母の手伝いで畑で芋を拾ったり、家の裏を流れる小川で洗濯をしたりと、小さな身体では本当に大変だった。
そんな中でも母から文字を習ったり、この世界の話を聞いたりするのは楽しかった。
文字を覚えても本なんてないんだけど。でも、文字も書けないなんて情けないから勉強をした。
不思議なことに母はきちんとした教育を受けていた。この村で文字がまともに読み書きできるのは母と村長さんくらいだった。
五歳になり仕事をさせられ始めたところで、この生活を何とかできないか考え始めた。でも、すぐに諦めたわ。だって、何もないんだもの。
食事を改善しようとしたけど、調味料は塩だけ。食材も基本的にはジャガイモとキャベツとカブ。少しだけ小麦を作っていたけど、毎日パンが焼けるほどの量はなかった。
お祭のときに少しだけ贅沢をするっていう感じでパサパサのパンが出てきたくらい。でも、うちはまだましな方だった。父が猟師だったから、骨で出汁をとることもできたし、時々だけどお肉を食べることができた。
といっても、おいしいところは村の誰かと物々交換してしまうから、筋張った硬い肉か、匂いのきつい内臓くらい。お肉のことだけど、最初は食べられなかった。目の前で捌かれていく様子を見て気持ち悪くなったから。でも、人間は慣れるものね。半年も経たないうちに気にならなくなったわ。
家も酷かった。特に冬は隙間風がそこら中から入ってくるから、凍死するんじゃないかと思うくらい寒かった。一つしかないベッドで母にしがみついていなければ寒くて震えを止めることすらできなかったと思う。
そんな生活の中で一つだけ不思議なことがあった。母も私も黒髪なんだけど、森で取ってきた薬草で茶色く染められたの。変な匂いのする草でとても嫌だったんだけど、母は絶対に許してくれなかった。理由を聞いても「あなたのためなの。我慢してね」としか言ってくれなかった。
そんな生活が七年も続いた。そして、突然終わりを告げた。
収穫祭が終わり、そろそろ冬の準備を始める十月の半ば、突然村に悲鳴が響き渡った。
「逃げろ! オークの群れが襲ってきた! 森に逃げ込め!」
そんな声の後、悲鳴と一緒に「助けて! いや!」とか「来るな!」なんていう声が聞こえてきた。私は恐怖でがくがくと震えるしかなかった。
この村には時々魔物が入り込んでいた。そんな時は猟師である父や村の若い男たちが退治していた。入ってくるのは大きな狼だったり、ゴブリンと言われる気持ち悪い人型だったりしたけど、命の危険を感じるようなことはなかった。
でも、今回は数が多いのか、悲鳴とバタバタと走る足音、豚の鼻息のような魔物の鳴き声が入り混じって、私は家の中でしゃがみこむことしかできなかった。
母が慌てて家に駆け込み「この中に隠れていなさい。どんなことがあっても声を出しては駄目よ。分かった?」と言って、毛皮を保管しておく地下の保管庫の扉を開けた。中にはたくさんの毛皮が入っていて、独特の獣臭さが鼻をついた。
私が躊躇っていると「時間がないの」と言って強引に押し込められた。それだけではなく、身体の上に何枚もの毛皮を掛け、最後には蓋を閉めてしまった。
入った後は不安で押し潰されそうだった。真っ暗で息苦しいこの場所にいつまで居なければいけないのか。それよりも魔物に見つけられ、殺されてしまうのではないかと。
板越しだったから、くぐもった感じの音しか聞こえてこなかったけど、魔物が村の人たちを殺している音が聞こえていた。何分経ったのか分からなくなった頃、突然、家の扉が開けられ、何人もの足音がまわりに響いた。
悲鳴を上げそうになった。でも、必死に口を押さえて堪えた。
永遠に続くかと思ったけど、多分五分くらいで足音が遠ざかっていった。私は助かったのだと安堵の息を吐き出した。そうなると、母や父がどうなったのか気になってきた。
あのタイミングでは逃げ出すことは無理だろうし、家の中に魔物が入ってきたということは、父も母も殺されたのだと涙が浮かんできた。
今までは自分の本当の父や母でないと思っていたから、愛情は感じていなかった。それでも、やっぱり一緒に住んでいた人がいなくなるのは悲しい。
まだ悲鳴が続いている中、私は泣き疲れて気を失ってしまった。
気が付いた時には、どのくらい気を失っていたのかは分からなかった。突然聞こえてきた足音で目を覚ましたから。
その時、保管庫にいることを忘れ、立ち上がろうとして身体をぶつけてしまった。しまったと思ったけど、どうしようもない。通り過ぎるのを待つしかないと息を殺していた。
テーブルやベッドを動かす音がした後、人の声が聞こえてきた。何を言っているのかまでは分からなかったけど、確かに人間の声だった。
五分ほど息を殺していると突然、保管庫の扉が動いた。思わず悲鳴を上げてしまった。
私の目の前に黒尽くめの革鎧を着た若い男の人と、使いこんだ革鎧の若い女の人がいた。その後ろには槍を持った大柄な人がおり、その人も女の人だった。でも、私は恐怖でガクガクと震えることしかできなかった。
何かを話していたようだけど恐慌に陥っていた私には理解できなかった。若い女の人が私が震えていることに気づいて、大丈夫だからと言って抱き締めてくれた。
その時、助かったという喜びはなかった。
ただ、怖かった。隠れている間に起こったことが夢であって欲しいと願っていた。
黒尽くめの男の人――ザックさんというらしい――が何かに気づき、外に出て行った。しばらくすると血がついたオーブと魔晶石をそれぞれ二つずつ持ってきた。
そこで夢ではなかったと気づいた。それが父と母のオーブと魔晶石であることが分かったから。
その先のことは良く憶えていない。家の外に出ると、動物を捌いている時のような血と内臓の匂い、ううん、それを何十倍にもしたような強い匂いが鼻を突いた。それよりも殺された村の人たちの姿が怖かった。
隣のおばさん、マギーさんの死体と目が合った。いいえ、目はなかったから違うんだけど……そこからは全く憶えていない。
気づくとザックさんに抱きしめられていた。必死に大丈夫だと言ってくれるけど、あの光景が目に浮かぶたびにパニックになった。
その後はオークに追われていたみたいだけど、よく分かっていない。あの時はこのまま死んでもいいと思っていたから。
ソーンブローに着いた時に初めてザックさんたちがいないことに気づいた。弓を持ったとてもきれいな女の人のリディアさんと、とても大きな虎獣人の女の人、ベアトリスさんの姿がなかった。
その時はなぜいないのかなんて考える余裕はなく、何度も襲ってくる恐怖に怯えていた。
赤毛の若い女の人メルさんがいてくれなかったら、私はずっと泣き叫んでいたと思う。メルさんは立派な剣を持った剣士だけど、私にはとても優しかった。日本にいた時の姉のように。
ダンさんとシャロンさんの兄妹も私のことをいつも気にしてくれた。私は悪い夢を見ているんだと思い込むことにして、優しく歌ってくれるメルさんの子守唄に身を委ねるだけだった。
何時間か眠ってしまった。一度目を覚ますと、ザックさんたちも戻っていた。よく分からないけど私たちを逃がすために時間稼ぎをしていたみたい。泣いていたのか、メルさんは目を真っ赤にしていた。
でも、その顔は本当に嬉しそうだった。シャロンさんもダンさんも笑顔を見せている。うらやましいなと思ってしまった。私にはこんな風に心配してくれる人なんていないから。
昨日からの疲れと母たちを失った悲しみで精神が参っていたようで、すぐにまた眠ってしまった。
朝までぐっすりと眠れた。昨日は何度も襲ってきた恐怖も今日はあまり襲ってこない。それでも村で見た光景が目に浮かび、体が震えてくる。その度にメルさんかシャロンさんが抱きしめてくれる。
私はこの人たちに命を救われた。でも、この人たちは何者なんだろう。ベアトリスさんは私の母と同じ歳くらいだけど、リディアさんはもっと若そうだし、それを言ったらザックさんたちは私より五、六歳年上くらい。物凄く若いのに村の人が全く敵わなかったオークを倒しているし、町の偉い人とも普通にしゃべっている。
大きな町に着いた時、ザックさんに向かってみんなが手を振っていた。どうやら有名人みたい。黒尽くめの革鎧と真っ黒なマント、兜から覗く顔はもの凄くかっこいい。耳に入ってくる言葉からどうやら貴族みたい。確かにそんな雰囲気はある。
次の日、大きな町から荷馬車に乗って森の中に入っていった。ザックさんたちは先に出発したみたいでダンさんとシャロンさんが付き添っている。他にも厳つい顔の隊長さんらしい人と二人の兵士が護衛についた。やっぱり貴族なんだと思ったけど、私にはあまり興味がなかった。
物凄くきれいな場所に着いた。
きれいな丘の間には小川が流れ、道の端には花が咲いている。丘の間に建つ家は私がいた村のようなみすぼらしい小屋ではなく、三角屋根と真っ白な壁、黒い柱のおもちゃのようなかわいい家だった。どこかのテーマパークだと言われても信じてしまうくらい。
時々、村の人とすれ違ったけど、みんなきれいな服を着ていた。私の村では祭の時でも着れないような服だった。
丘の間を進んでいくと目的地の小さな丘があった。ここもきれいな場所だった。緑の絨毯のような草原と楓と白樺の林、レンガ造りの建物と木造の大きな建物があり、頂上には古いお屋敷が建っている。
今日はここに泊まるのかなと思うけど、正直どうでもよかった。
早くこの悪夢が覚めてくれればいいな。
目覚めたら日本に戻っているはず。お父さんやお母さんが家で待っている。学校の友達も……。長い長い悪夢だけど、覚めない夢はないわ。
でも、何日経っても夢は覚めない。
誰か、私を助けて……。




