第十九話「助手ニコラス・ガーランド」
ニコラス視点の話です。
私が先代のご当主様――ゴーヴァン様より、ザカライアス様の質問に答えるよう言われたのは一年ほど前、夏から秋に変わるちょうど今頃のことだった。
「ニコラス、お前に頼みがある。ザックが本を読み始めたのじゃ。分からぬことはお前に聞けと言ってあるから、済まぬが相手をしてやってくれんか」
先代様の依頼に、私は深く考えることなく、「分かりました」と答えた。
ザカライアス様は当時三歳。文字を覚えたところと聞いたから、精々、簡単な単語を聞いて来られるくらいだろうと高をくくっていたのだ。
しかし、すぐに自分の間違いに気づいた。
聞いてくる単語が政治や軍事、商業などの専門用語ばかりなのだ。特に概念を説明するのに困る“覚書”と“契約”の違いや、国とギルドの関係、ギルドの法的な地位などという質問には心底閉口した。
それがただの子供の質問であれば、笑っていられたのだが、「契約書が書式の整ったもので、覚書がそうじゃないものってこと?」とか、「ギルドは国の保護を必要としていないの?」とか、更に鋭い質問をされ、妻のケイトと共に頭を抱えることが多くなった。
そして私が困った顔をすると、すぐに笑顔で「ありがとう」と言って引き下がって下さるから余計にへこんでしまう。大人の威厳も何もあったものではないから。
四ヶ月ほど前、先代様、お館様に我ら従士一同が集められた。
先代様のおっしゃることが、最初は理解できなかった。それはそうだろう。ザカライアス様が神に選ばれた御子で、魂は別の世界からやってきたと言われても。
しかし、これまでのことを思い出し、何となく腑に落ちた。何せ、あれだけの質問をしてくる三歳の子供などいない。いるとすれば、何か特別な事情があるのだろうと。
そして、その説明の後、お館様が私に残るよう命じられた。
「今の話を聞いて、どう思った?」
「うすうす感じていたのかもしれません……いえ、今のお話でようやく納得できたというところでしょうか?」
横におられた先代様は「そうか」と頷かれた後、
「ザックがこの村を良くしたいと言っておる。だが、四歳の子供ではやりたくてもできぬことがある。お前にあの子の手伝いをしてもらいたいのじゃ」
私は躊躇いを感じていた。ザカライアス様のお考えについていける自信がなかったからだ。
「私では……ザカライアス様の足手纏いとなるだけでございます」
その言葉に先代様は、「お前にできねば、我が家でできる者はおらぬよ」と笑って取り合っていただけない。更におどけたような仕草で、
「ジーンもそろそろ結婚じゃ。冬にはケイトと二人だけになる。まあなんだ。ザックが行けば、少しは家が騒がしくなるじゃろう?」
先代様は娘のジーンが結婚した後、私と妻の二人だけになることを心配して下さっていたのだ。十一年前に亡くした息子アーロンと娘マーシャのことを覚えておられ、寂しくないようにとご配慮下さったのだ。
私はその想いに目頭が熱くなる。
「微力ながらザカライアス様のお手伝いをさせていただきます」
私は涙を堪え、先代様からの依頼を受けることにしたのだった。
妻のケイトにその話をすると、妻も全面的に賛成してくれた。
そして、その時から私たち夫婦の生活は激変した。
先代様に足手纏いになると言いはしたが、正直、ここまで突飛なことをされるとは思っていなかった。
まず、トイレの設置を始めるとは夢にも思っていなかった。
設計図を見せられ、職人のクレイグに相談に行くが、最初は彼もその設計図が全く理解できなかったのだ。
職人たちは家を建てるにしても、頭の中で考えながら作っていく。図面を使うなど、城を建てる時くらいしか使わないだろう。
私はクレイグに材木の切れ端を貰い、図面に合わせて削っていった。
それを組み合わせてみると小さな小屋のようなものができ、それでようやくクレイグも理解してくれた。
クレイグから図面の書き方を教えてほしいと頼まれるが、自分で書いたものではなく、書き方がよく分からない。私は今度教えると言って誤魔化した。
彼は少し残念そうだが、すぐにトイレの構造の方が気になったようで、仕事の話を始めた。
お屋敷のトイレを作ることが決まった時、私はザカライアス様に図面の書き方を習った。
ザカライアス様は「そんなに難しいものじゃないよ」と笑顔で教えてくださる。
「正面、真横、真上から見たままを書いてあるだけだし、寸法を書き込んで……」
一時間ほどの講義で何とか考え方は理解できたが、自分で書くとなると自信はない。もう一度教えて頂くわけにはいかないから、図面の書き方のメモを作っておく。
翌日、そのメモの写しをクレイグに渡し、昨日ザカライアス様から教えていただいたとおりに教えていく。
彼は感心したように何度も頷いていた。
そう、ここまでは私でも何とか理解できた。
しかし、問題は“石鹸”だった。
初めは森に詳しいガイ・ジェークスを呼び出し、森にある木の実や花の話を聞かれた。私には何をするのか全く予想が付かず、横で聞いているしかなかった。
その後、ガイと私を伴って、村の西側を流れるフィン川沿いに向かった。川岸に咲く黄色い花を指差し、「この花はどのくらい生えている?」と尋ねてこられた。
ガイと私は少し相談した後、「フィン川ではこの辺りに、アーン川にも同じくらいありますが」と答えた。
ザカライアス様は少し残念そうな顔で、「足りないな」と呟き、屋敷に戻られた。
帰り道にガイから「ザック様は何をされるんです?」と小声で聞かれたが、「私にも分からん」と答えるしかなかった。
その後、豚と牛の脂、石灰があるかと尋ねられ、あると答えると、“石鹸”を作ろうと思うとおっしゃられた。
その言葉に、私とお館様は絶句してしまった。
私も一時、学術都市ドクトゥスに住んでいたことがあったため、一応石鹸の存在は知っている。しかし、非常に高価な物であると記憶していたのだ。
確かにできれば村の特産品として売れる。だが、帝都付近でしか作られない物をこのような田舎で作ることができるのか、お館様も同じような感想をお持ちになったようで、そのことを気にしておられるようだった。
ザカライアス様は、「ちゃんとしたものができるか分かりませんが、多分大丈夫だと思います」と自信有り気に笑っておられる。
私はこの方には作ることが出来るのだと感心したのだが、その後が大変だった。そう、ザカライアス様からの指示が大変だったのだ。
「作り方の基本は知っているけど、分量は全然わからないんだ。それに出来るまで、少なくとも一週間、いや、十日ほど掛かるから、鍋ごとにどれをどれだけ入れ、どのくらい混ぜていたかをきちんとメモしておいて欲しい」
ザカライアス様は時々、前世の言葉を使われる。一週間という言葉もつい口につくそうで、前の世界では七日間を一つの単位にしていたとのことだった。
詳細なメモと言われたが、量るものがない。私がそれを指摘すると、匙を三種類ほど見繕い、更に小さなコップを手に持ってこられ、「これを“標準”に使って、何杯入れたかを数えておいて」と教えてくださった。
測定器の代わりにそれらを使うことにするとのことだった。測定器はドクトゥスに行けば売っているが、確かにこれでも充分に間に合う。
更に時間のことをおっしゃったので、それもどうしたらいいかと尋ねた。そう、この村には時計というものが無いのだ。
ザカライアス様は、少し考えられた後、簡単な水時計を作ってしまわれたのだ。
まず、木の棒と糸を使って、地面に模様を書き始め、日時計を作られた。そして、銅製の小さな鍋に小さな穴を開け、下部に水を受ける壷を設置するなどの細工を施された。満足げにそれを見られた後、水が落ちる時間を日時計で計りながら、途中で何やら計算もされていた。
「さすがに日時計で三十分は大雑把過ぎるから、目盛りが打てなくてね。一時間に落ちる水の量から三十分で落ちる量を計算したんだ。鍋の上と下とじゃ穴に掛かる圧力が違うから単純に真中ってわけにもいかないから。まあ、大雑把だけど、大体の目安程度かな。そうそう、穴の大きさが変わると時間が変わるから、毎日布で磨いてほしいんだ」
水の圧力で計算が必要とはどういう意味なのか私には理解できなかったが、作られた水時計は一時間用とのことで、三本の目盛りが打たれていた。
「十五分とか十分とかは、面倒だけど按分して。目盛りまで三分の一なら十分、半分なら十五分といった感じで」
一連のことを午後の三時間ほどで終わらせ、屋敷に戻っていかれた。
残された私は妻と共に、獣脂を溶かしてきれいに濾すところから始めた。
次に石灰を水に溶かしたものと、麦藁を焼いた灰を水で溶いた上澄みを集めていく。
壺をかき集め、濾した脂を温めていく。温度は人肌程度。指を入れて確認する。
そこに石灰から取った水と灰から取った水を混ぜたものを加えて、かき混ぜていく。
ドロドロになるまで、一時間くらいかき混ぜ続ける必要があるとのことで、妻と交代でやっていくが、なかなかドロドロにならない。
更に家の中に変な臭いが充満し始め、慌てて窓や扉を開けていく。
私はこれで本当に出来るのかと疑いながら、石鹸作りを続けていった。
そして、既に三ヶ月が経つが、一向にそれらしいものができない。
家の中には壷に入ったドロドロになった脂が三十個以上置いてある。
それを見たザカライアス様は、しきりに申し訳ないと謝られ、家の中が大変なら石鹸は諦めると言われるようになった。
「ここまでやってきたのです。もう少しやってみましょう」
私の言葉に何度も頭を下げて、「いつ止めてもいいから」とおっしゃるが、私のメモを見て、更に指示を出していく。
結局、ザカライアス様も諦めたくないのだと、帰られた後に妻と笑っていた。この笑いが得られただけでもやった価値はある。
トイレの改善もうまくいっていないようだ。
お屋敷に続き、我々、従士の家にも設置された。確かに最初は戸惑ったが、家の周りがきれいになり、今では皆、感謝している。
しかし、村に設置した分はゴードンのところでも、あまり使われていない。
理由を尋ねても埒が明かなかったので、仕方なくザカライアス様に報告に行くと、自分のミスだとしきりに反省されていた。
そして、聞き取り調査を命じるのだが、ここでも私の常識が覆された。
聞き取るのに、金を出してやれとおっしゃるのだ。
最初は私の能力が疑われたと思った。しかし、お館様がそのようなことをしなくとも聞き取れるとおっしゃると、耳に心地よい意見だけでなく、忌憚のない意見が聞きたいから、金を出すのだとおっしゃった。
私もお館様も最初は理解できなかったが、説明を聞くうちに納得できた。
確かに意見を出せば出すほど金が貰え、更に否定的な意見でも罰を与えないとなれば、お調子者が否定的な意見を言い出すだろう。
私は目からうろこが落ちる思いだった。
そして、集まった意見をザカライアス様に報告する段になり、このまま出すのでは駄目だと思った。確かに指示はそのままの意見を集めるようにということだったが、それでは読まれるザカライアス様が大変だ。
私は妻と共に、意見を分類していった。
肯定的な意見、否定的な意見、改善要望などに分け、更にどの意見が多かったか分かるようにしたのだ。
私がそれを持っていくと、ザカライアス様は少しだけ満足げに私を見てから、報告を聞き始める。そして、最後に私と妻に「よくまとめてくれた。分かりやすかったよ。さすがはニコラスだね」と労ってくださった。
その時、私は報われた気がした。
見た目は四歳の子供なのだが、私にとってザカライアス様は尊敬すべき上司であると改めて思った。そして、この方が成したいと思われることを全力でお手伝いしようと心に誓った。
主人公の一番の被害者(?)視点でした。
質問を見ると、ばれない方がおかしいですね。




