第五十九話「王妃カトリーナ」
トリア暦三〇一七年九月二十四日午後一時半頃。
栄えある聖銀騎士団――王宮を守る近衛隊――の騎士である私、フェリックス・フォーテスキューは、この不運を呪っていた。
なぜ、このような日に王宮の城門警備責任者に当たってしまったのかと。
王宮を訪れる場合、事前連絡が必要だ。緊急の伝令など突発的な事態は起こり得るが、普段なら責任者である私の仕事は訪問者たちに不審な点が無いか、あるいは事前連絡との差異がないかを確認するだけの簡単な仕事だ。それも部下たちがほとんど捌いてくれるため、私は機械的に承認するだけで済む。
もちろん王宮を守る城門、それも最後の城門の警備は責任重大だ。私とて敵が攻め込んでくれば、命をかけて陛下や王家の方々をお守りする覚悟は十分に持っているつもりだ。
だが、ここアルスは峻厳なケルサス山脈を背後に控え、三重の城壁に囲まれた鉄壁の城だ。その三重目の城壁の門を守っているのが聖銀騎士団であり、ここで戦闘が起こりうるのは二重の城壁を破られた後、つまり心の準備が出来ている状況しか考えられない。
だが、今日に限っては……
その事態が発生した時、私は城門の内側にある詰め所でのんびりと午後からの来客名簿を眺めながら、仕事が終わった後の舞踏会のことを考えていた。だが、部下たちの悲鳴にも似た緊迫した叫び声が耳をつき、慌てて詰め所を飛び出したのだ。
飛び出した直後、私は目の前の光景に自らの目を疑った。
私が見たものは小さい体ながらも圧倒的な存在感を持つ者たちが無骨な片手用槌を握り締め、城門の前に続々と集まってくるという異様な光景だったのだ。そして、門衛たちが必死の思いで短槍を交差させ、何とかその者たちを押し留めようとしていた。
特別な理由が無い限り王宮の門は開かれており――午前八時から午後六時までは開門されている――、王宮と彼らの間にある障壁は門衛たちだけだ。だが、その圧倒的な存在、鍛冶師ギルドの匠合長ウルリッヒ・ドレクスラーと数十人の怒れるドワーフたちを前に、門衛たちが役に立つとは思えず、思わず門扉を閉じるよう命じそうになる。
鍛冶師ギルドの匠合長という重要人物に対し、門衛たちは高圧的に出ることも出来ず、必死になだめすかそうとしている。だが、ドワーフたちの迫力に徐々に押され、開け放たれた城門の直前まで押し込まれ、何とか踏みとどまっているに過ぎなかった。
少し前にアドルファス・エッジカンブ伯爵と黒鋼騎士団の一隊が戻って来たが、その際、エッジカンブ伯はともかく、黒鋼騎士団の騎士たちは皆、思いつめたような表情をしており、何となく嫌な予感はしていた。それと直接関係があるのかは不明だが、何らかの関係があるように思えた。
もっとも理由が判らずとも、この状況を何とかしなければならない。
普段の姿を見る限り、ドワーフたちが暴動を起こすことは考え難いが、それでも約束も無く、それも武器となり得るハンマーを持った者たちを通すわけにはいかない。
私はなけなしの勇気を振り絞り、彼らの前に立った。
その行為は自らの義務に従った正しいものだったが、私はその軽率な行いに酷く後悔した。
なぜ後悔したのか。それについては、その場にいなければ分からないだろう。
数百のオーガの群れの前に、無防備な状態で放り出されたら、私の気持ちが少しは分かるかもしれない。もちろん、私もオーガと対峙したことなど無く、この状況がそれと同じかは分からないが。
ドワーフたちから立ち上るオーラのような怒気が、私のような未熟な剣術士――恥ずかしいことに私の剣術レベルは二十に満たない――にもはっきりと見えた。
もし、怒号が伴っていれば、まだ何か行動を起こせたかもしれない。彼らを宥めるため言葉を掛けるとか、増員を呼ぶとか、暴動を想定した対応を選択できたからだ。だが、彼らは一言も発さず、目を細めてこちらを睨みつけるだけで、暴動とは言えない状況だった。そのため、自らが取るべき行動を考えなければならないのだが、目の前の光景に心と頭が凍りつき、何も出来なかったのだ。
普段なら、九月のうららかな午後と言うこともあり、鳥や虫の鳴き声が聞こえているはずだが、私の耳にはドワーフたちの息遣い以外、何も聞こえていなかった。そして、眩い日の光と美しい木々の緑色が見えているはずだが、私の目にはドワーフたちの燃えるような目以外はすべての物がモノトーンにしか映らず、世界は色彩を失ったかのようだった。
聴覚と視覚だけでなく、私の声帯も機能を失っていた。そう、声を出すことが出来なかったのだ。
匠合長が低く重い声で「ここを通させてもらう」と言うのだが、パクパクと口を動かすだけで声にならない。
心の中では“予定の無い訪問者は通すことは出来ない”と言っていたのだが。
それでも私は頑張った。頑張ったと思う。
後で考えれば、なぜ出来たのか分からないが、「しばしお待ちを」というゼスチャー――右手を突き出し、手のひらを向ける仕草――を行うことが出来たのだ。
匠合長は僅かに目を細めるが、私のゼスチャーに構わず、足を踏み出す。だが、無理に押し通ることなく、門衛たちの目前で足を止めた。
この極々短い時間で、私の声帯は何とか機能を取り戻した。
「伝令! シャーゴールド閣下に直ちに城門にお越し願うと伝えよ! 誰でもいい! すぐに行け!」
私の近くにいた兵士がすぐに飛ぶように王宮の中に向かった。
私は目の端でそれを見ながら、自分が行けばよかったと後悔するが、ここの責任者である限り、門を放棄するわけにはいかない。正直に言えば、もし、自分で行くという案に気付いていたら、間違いなく駆け出していただろう。
シャーゴールド侯がここに来られるまで早くても十分。いや、恐らく二十分は必要だろう。つまり、その間、私はこの状況に身を置き続けなければならないのだ。
目眩がするほどの事実に膝が崩れそうになるが、部下たちの手前、平静を装い続けなければならない。それがいつまでもつかは分からないが。
「しばし、しばし、お待ちを。今、シャーゴールド侯爵閣下を呼んでおりますので……」
私はそう言いながら誰でもいいから、この状況を何とかして欲しいと心の中で祈った。そう思いながらも自分がドワーフたちに踏み潰される未来図が頭から消えない。
だが、奇跡は起きた。
私の真摯な祈りが神に通じたのだ。
ドワーフたちの後方から王家の紋章が入った馬車がゆっくりと進んでくる。時間的にモンクトン公爵家に行っておられたカトリーナ王妃殿下が帰ってこられたのだろう。
「鍛冶師方にお願いいたします。王妃殿下の馬車を通していただけまいか」
声に喜色を滲ませないよう努力しながらそう言うと、私の言葉に彼らの肉壁が左右に開いていく。その時気付いたのだが、ドワーフたちは未だに増え続け、その数は優に百を超えている。
王妃様が馬車の窓から顔を出された。
「何かあったのですか?」
そう問い掛けられたが、私にはすぐに答えることができなかった。
鍛冶師たちがなぜここに来ているのか理由を知らなかったからだ。私は知っている事実だけをお伝えすることにした。
「鍛冶師ギルドのドレクスラー匠合長が謁見を申し出ておられます。シャーゴールド侯に連絡しておりますので、問題はないかと……」
私は自分の発言に後悔した。
こんなことを言えば、王妃様はそのまま王宮の中に入っていってしまわれる。
だが、ここでも神は私の味方だった。
「そうですか……それでは匠合長にご挨拶しなければいけませんわね」
王妃様はそうおっしゃり、馬車から降りられたのだ。
王妃様は薄いグリーンのドレスを身に纏い、普段通りに優しい笑みを浮かべておられた。こう言っては不敬に当たるのだが、背が低くやや豊満すぎるお体――目の前のドワーフとあまり変わらないと一瞬思ってしまった――と、庶民的なお顔立ちであり、王国随一の貴婦人でありながら、畏敬の念より親しみを覚えるお方だ。もちろん、二十年前は可憐でお美しかったのだろうが、私の生まれた頃の話で、当然その時代のお姿を見たことは無い。
しかし、この時ばかりは親しみより、頼もしさを感じていた。
私はこれで時間が稼げると胸をなでおろしていたのだ。
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私、カトリーナ・ブレントウッドは、娘であるモンクトン公爵夫人と昼食を楽しむため、公爵邸に赴いておりました。
昼食を終え、王宮に戻ってみると、御者が慌てた様子で城門に異常があると伝えてきました。
「百人以上のドワーフが城門に迫っております……け、剣呑な雰囲気で、ございますが、い、いかがいたしましょうか……」
只ならぬ様子に御者の声はかなり震えておりました。
「このまま進んで頂戴。大丈夫よ。王家の馬車に危害を加えることはないはずよ……」
そう言いながらも私には確信はありませんでした。夫である国王陛下は浅慮なところがあり、もしかしたら、鍛冶師たちを怒らせたのではないかということが頭を過ぎったからです。
娘からも鍛冶師ギルドで大きな宴会があったという話を聞いておりますし、女官からもロックハート家の関係者がアルスを訪れたようだとも聞いておりました。もしかしたら、その関係で陛下が何かやらかした……いえ……何か齟齬があったのかもしれません。
馬車の窓から外を覗くと、確かに剣呑な雰囲気のドワーフたちが門を取り囲むように集まっておりました。近づくにつれ、剣呑という言葉では言い表せないほどの怒りを滾らせていたのです。
これは危険だと直感しました。
私個人に対する危険というより、王国がという意味です。
城門を守る聖銀騎士団の若者に事情を聴きましたが、どうも要領を得ません。私はドレクスラー匠合長にご挨拶するという名目で馬車を降りました。
「お久しぶりですわね。ウルリッヒ殿」
匠合長は夫である陛下とはあまり気が合わないようですが、なぜか私に対しては親しみを覚えてくださり、いつもは笑顔で対応して下さります。私も堅苦しい敬語を使うことなく付き合って下さるウルリッヒ殿を好ましく思っておりましたが、今日に限っては私に会ってもいつも浮かべる笑みも無く、厳しい表情を全く変えませんでした。
「騒がせて申し訳ないと思っておる。だが、何としてでも国王陛下にお会いして、事の次第を確認せねばならん」
彼の言葉から陛下が過ちを犯してしまったことが確実になりました。齟齬というような小さな話ではない大きな過ちを。
彼らは我慢強く、少々のことでは行動を起こしません。もちろん、不快感や怒りをあらわにすることはありましたが、手を上げることは非常に稀です。彼らを本格的に怒らせたのは、光神教の狂信者くらいなものでした。
私は目の前が真っ暗になり、目眩を覚えましたが、いつも通りの声音で話しかけることに成功しました。
「何があったのかしら? 立ち話もなんですので、庭園に参りませんこと?」
私の後ろのいる騎士に、「私のお客様ということで通してくださらないかしら」と伝えると、彼は「そ、それは……」と口篭った後、僅かに震えながらも毅然とした態度で断ってきたのです。
「王宮への武器の携帯は限られた方のみに認められております。持っておられるハンマーを預からせて頂けなければ認めることはできかねます……」
私の後ろで震えていた割に、このフェリックス・フォーテスキューという騎士は思ったより真面目な騎士だったようです。
聖銀騎士団は貴族の子息が多く、上からの命令には特に疑問を持つことなく従うのですが、彼はきちんと自分の仕事を弁えているようです。
惜しむらくは、彼がこの状況を理解せず、規則を持ち出したことでしょうか。通常時ならそれでもよいのですが、この状況ではマイナスにしかなりません。彼には臨機応変の才が無いということなのでしょう。
「これは道具ですよ。道具なら問題ないでしょう?」
私の言葉にしばし沈黙し、「分かりました。殿下のおっしゃるとおりでございます」と言って、門衛たちに「殿下の馬車と鍛冶師方をお通しせよ」と命じました。
私はそのまま歩いて王宮の庭に向かいますが、すれ違う文官や女官たちは百人以上のドワーフたちに驚いていました。
私は一人の文官に飲み物を用意するよう命じました。
「お飲み物を用意しなさい。そうね、お酒がいいわ」
文官が頭を下げて厨房に向かおうとしましたが、ドレクスラー匠合長がそれを止めます。
「儂らは酒を飲みに来たんじゃねぇ。何もいらんからすぐに陛下に会わせてくれんかの」
私は耳を疑いました。
ドワーフがお酒を断ったのです! どのような状況になろうとも飲むはずのお酒を!
私はこの時はっきりと判りました。
カウム王国に危機が迫っていると。そして、それは王国始まって以来の最大の危機だと。
私は笑みを絶やさないよう努力しながら、庭に向かいました。
庭にはベンチなどがあるのですが、さすがに百人以上が座れるだけの椅子はありません。もちろん園遊会でもあれば、用意はされるのですが。
噴水の周りの石畳が敷かれた広場に誘導しました。
侍女が椅子を用意してくれましたが、私は断りました。ドレスが汚れるので、布は敷いていますけど、私を含め、全員が地面に座っています。地面に直に座るなど、いつ以来だろうと頭に過ぎりますが、今はそれどころではありません。
全員が座ったところで、
「何があったのか教えていただけないかしら? 皆さんのお力になれればと思っておりますのよ」
ドレクスラー匠合長はギロリと私を睨みましたが、私が見つめ返していると、ゆっくりと事情を説明してくださいました。
話を伺う内に、私の中に怒りと申し訳なさがない交ぜになって湧き上がってきました。
なぜこのようなことが起きたのか、私にはすぐに判りました。そして、誰がそう仕向けたかも。
私は立ち上がり、深々と頭を下げ、「本当に申し訳ございません」と謝罪しました。しかし、そんな言葉では全く足りないとも思っておりました。
私の行動に鍛冶師たちが慌てていました。
「王妃様が悪いわけじゃねぇのは分かっておるんじゃ。だから、頭を上げてくれんか」
匠合長が代表して、そうおっしゃってくださいました。ですが、これでは何の解決にもなっていません。
「皆さんのお気持ちはよく分かりました。今日のところは私にお任せしていただけませんか? 必ず、皆さんのご納得頂けるように致しますから」
ドレクスラー匠合長は鍛冶師たちを見回してから私の方に振り返りました。
「ここは王妃様に任せる」
私は安堵し、「ありがとうございます」と答えましたが、匠合長は厳しい表情でこう付け加えてきました。
「だが、時間は今日の夜までじゃ。それまでに納得できる話が聞けなけりゃ、儂らにも考えがある」
それだけおっしゃると、鍛冶師たちとともに大人しく帰っていかれました。
しばらくすると、シャーゴールド侯爵が息を切らせてやってきました。
「ハァハァ……ドワーフたちは? 殿下に何か無礼なことを言いませんでしたか」
先ほどまで浮かべていた笑みを消し、「特に何も」と答えました。
正直なところ、私はこの侯爵があまり好きではありません。
陛下の側近であり、王国の政治を任されながら、ほとんど成果を上げることなく、権力争いにかまけているからです。もちろん、侯爵が陛下のために三公爵家と権力闘争をしており、私欲が無いことは認めますが、あまりに視野が狭いのです。
私が陛下に助言した方が余程良いと思うほどですが、後宮の者が政治に口を出すことは国の乱れを生じさせます。以前に一度だけ政治に関与したことはありますが、出来るだけ口を出さずにいたのです。
ですが、今回の件ではそう言っているわけには参りません。
「何が起きているのですか、シャーゴールド侯?」
私の問いに侯爵は「特に問題となることはございません」と笑みを浮かべて答えてきました。
「鍛冶師たちの様子を見る限り、何も問題ないとは言えないのではありませんこと?」
彼はそれでも笑みを消すことなく、「妃殿下がお心を痛めるようなことは何も。では、失礼致します」と言って去っていきました。
陛下でもシャーゴールド侯でも、この事態は解決できないでしょう。ですが、放置していれば、必ず王国に大混乱が起こります。
私はそれを防ぐべく、積極的に政治に関与することを決めました。




