第五十一話「試飲会準備と宮廷の思惑」
トリア暦三〇一七年九月二十三日。
昨日、蒸留酒定期便とともにカウム王国の王都アルスに到着し、鍛冶師ギルド本部を訪問した。
蒸留責任者のスコットとともに熱烈な歓迎を受け、今日の午後に俺たちの歓迎の宴が行われることになっている。それとともに一般には“ザックコレクション”として知られている、長期熟成酒の試飲会を行う予定だ。
宿泊した宿、金床亭で朝食をとった後、午前九時頃にギルド本部に向かった。
安全な街の中ということで、一応、武器は携行するものの、防具は着けていない。
宴と試飲会は正午過ぎから行われるのだが、この時間に本部に向かうには理由がある。試飲会は三百人もの鍛冶師を相手にする大規模なものであり、その準備を行うためだ。
もちろん、昨日から俺たちの担当になった若手ギルド職員、ジャック・ハーパーが主体となって職員たちで手分けして行ってくれるのだが、これだけ大規模な試飲会は初めてということもあり、出来るだけ早い時間から準備することになった。
集会室は昨夜に行われていたスコッチ到着日の宴の痕跡も無く、きれいに片付けられていた。幅四十m、奥行き十五mの集会室には、長テーブルが四列に整然と並べられ、演壇になっている部分には大きなテーブルが置いてあった。
昨日倉庫に運び込んだザックコレクションの金属樽も運び込まれ、演壇のテーブルに並べられている。さすがに“ブランデー”の樽は運び込まれていないが、後でドワーフたちの手によって運び込まれるらしい。
更に朝一番で頼んでおいた木箱――みかん箱程度のものが十五個――も、テーブルの横に置かれていた。
この木箱だが、昨夜のうちに収納魔法から出しておいたものだ。俺たちと一緒に旅したウェルバーンの鍛冶師ギルド職員、ジョニー・ウォーターは、その木箱がなかったことを知っており、「どこから出てきたんだろう……」と不思議そうに呟いていた。
この箱の中身だが、グラスと空のボトルだ。グラスが十箱、ボトルが残りの五箱で、表には“割れ物注意”と書いてある。
グラスは今日の試飲会で使うテイスティンググラスで、コルク材――木属性魔法で作った擬似コルク――で仕切りをいれ、箱の中にきれいに並べて入れてある。一応、緩衝材として麦わらなどが詰めてあるが、未舗装の街道を荷馬車で運ぶには不安があったため、インベントリーに入れておいたのだ。
一つの箱には四十八個――六×八列――入っており、それをリディたちと手分けして出していく。
このテイスティンググラスだが、かなりの自信作だ。
鉛を三十パーセントほど混ぜ込んだクリスタルガラス製で、シンプルな脚付きグラスでありながらも、屈折率が高く非常に美しい。更にステムも単純な円筒型ではなく、四角形の断面を持ち、光を受けるとプリズムのように虹色に見える。本体部分は特にこだわり、スコッチの色がより美しく見えるように、曲面部分に歪みがないよう細心の注意を払って作ってある。
そして、最大の特徴は台部分だ。
プレートの裏側に鍛冶師ギルドのトレードマークである“ハンマーと金床”が、サンドブラスト――砂などの研磨材を圧縮空気などで吹き付けてガラスの表面を加工する技術――で描いてあるのだ。
グラス自体は俺の土属性魔法――鉛を混ぜるところは金属性魔法との複合魔法――で作るのだが、サンドブラストはベアトリスたちも含めたザックセクステット全員で作ったものだ。
まず、サンドブラスト用のホースとノズル、研磨材である砂を入れる箱を作る。砂は研磨材には何が適しているのか知らないので、土属性魔法でダイヤモンドの粒子を作った。
いつも通り、マスキング用のシートは絵心があり手先の器用なシャロンが作るのだが、サンドブラスト専用のマスキングテープなどという便利なものはないため、柔軟性があり、表面が丈夫な蛇系の魔物の皮を使っている。
マスキングシートができたら、風属性魔法が使える俺、リディ、シャロンの三人がコンプレッサー役になり、ベアトリス、ダン、メルがノズルを調整して削っていった。
最初は俺を含め全員が初めての体験ということで失敗もしたが、何度か練習すると、元になった絵が単純なためか、割と簡単に絵をつけていくことができるようになった。
さすがに五百個近く作るには結構な時間が掛かったが、失敗しても俺の魔法ですぐに修復できる分、ほとんど無駄なく作業を終えていた。
ジャックにトレイを用意してもらい、そこにグラスを並べていくのだが、さすがに世界に冠たる鍛冶師ギルド本部の職員だけあって、このグラスの価値に気付いていた。
「本当に素晴らしいですね。この透明度と歪みの無さ……これほどの物は初めて見ました……これもザカライアス様のお手製ですか?」
ジャックは俺がウェルバーンで鍛冶師たちにグラスをプレゼントしたことを知っていたらしく、俺の作品だと気付いたようだ。
「俺たちで作った物だよ。グラスは俺だが、プレートの絵は俺たち六人でつけたんだ」
「皆さんで……器用なのですね……」
職人でもない冒険者がこれほどの細工を行えることに驚いているようだ。
確かに、この世界のガラス工芸品の品質はそれほど高くないから、この程度の品質でも驚愕の対象になる。
(例の神の遣わす者っていう話がなければ、酒関係の仕事を真面目にやってもいいかもしれないな。ガラス製品だけで十分に食っていけるし……)
俺がそんなことを考えている間にも、ジャックたちはグラスを丁寧に並べている。その手つきは価値を知りながらも恐る恐るといった感じはなかった。
そのことについて聞いてみると、ウェルバーンでの話を詳しく知っており、もし間違って割ってしまっても、俺が直せるため必要以上に緊張しないように気をつけていると教えてくれた。
「……もちろん、直して頂けると判っていても、割るわけにはいきません。ですが、こういった物を扱う時は必要以上に緊張しない方がいいんです。ここではとんでもなく高価な品を扱うこともありますから、多少は慣れているという部分もあるんですが……」
さすがに鍛冶師ギルドの総本山だけあって、国宝級の武具を扱うことがあるそうだ。確かに数億円の品を日常的に扱っていれば、いくら高価だといってもグラス一つで緊張することはないだろう。
トレイの上にグラスを並べ終わると、次に用意したボトルにスコッチを詰めていく。
このボトルだが、これもクリスタルガラスでできている。ワインボトルのような円筒型ではなく、四角い物や涙滴型など、ちょっと“お高い”コニャックの化粧瓶――基本的にはバカラ製のボトル――をイメージしている。
残念なことに、俺には芸術的な才能がないから絵を浮き上がらせたり、何かを模した形にしたりはできなかったが、昔に見た高そうなボトルを思い出し、出来る限りのカットや模様は刻んでおいた。
このボトルが五十個ほどあり、これに樽から酒を移してグラスに注ぐ予定だ。本来なら、化粧瓶よりフラスコ型のデキャンターの方が注ぎ易いのだが、見た目を重視したことと、この先の高級路線の先取りの意味でクリスタルガラスの化粧瓶を使うことにしたのだ。
準備を始めて一時間ほど経った午前十時頃、入口近くにいたベアトリスから声が掛かる。
「ザック! 至急、匠合長室に来て欲しいそうだ」
俺が「何の用なんだ?」と首を傾げると、
「何でもカウムの王宮から使者が来たって話だ」
俺は面倒だなと思いながら、匠合長室に向かう。
(俺個人に対してか、ロックハート家に対してかは判らないが、昨日の今日で連絡が来るとは思わなかった……それだけ、ロックハート家の影響力があるってことなんだろうが……そう言えば、カウムの国王にあまりいい印象は持てないんだよな。バイロンの話を聞いているから……)
ロックハート家の従士バイロン・シードルフは、俺と知り合った当時は傭兵だった。そして、その前はカウム王国の要衝トーア砦――魔族の地、クウァエダムテネブレとの国境にある重要な砦――の守備隊長だった。彼は無能な上級貴族の指揮官の下で魔族襲撃の危険性を何度も警告し、襲撃を受けた際には砦を死守すべく奮戦したが、指揮官が自らの失策を糊塗しようと、何度も激戦地に送り込まれ抹殺されそうになった。指揮官ら貴族に絶望したことと、激戦によって多くの部下を失ったことから、バイロンはカウム王国に見切りを付け、傭兵になった。その時の話だが、彼の奮戦を知る同僚たちが指揮官である貴族の怠慢とその後の暴挙に対し、国王に直訴したそうだが、国王は何の処罰もせず、揉み消してしまった。
この世界の王国は古い歴史を持つ国が多く、王家も数十代に亘って続いているところが多い。だが、長い歴史を刻むうちに縁戚関係が複雑に絡み合い、そのため貴族たちの力が強くなっていた。カウム王国も例外ではなく、王家は侯爵以上の上級貴族の派閥の力関係を巧みに操り、存続している。その影響が色濃く出たのがバイロンの事例だが、その話を聞く限り、ここの国王に好意的になる理由は全くなかった。
一応、カエルム帝国の騎士の子息である俺は、カウム王国からどうこうされる心配はほとんどないのだが、大国の王家から何らかのアクションがあれば、受けざるを得ない。
そんなことを考えながら、ウルリッヒの部屋に向かっていた。
匠合長室に入ると、苦虫を噛み潰したような顔のウルリッヒ・ドレクスラーと、貴族らしい品のいい身なりの三十歳くらいの男性がソファに掛けていた。
俺に気付いたウルリッヒが、
「アドルファス・エッジカンブ伯爵じゃ。国王陛下の名代として来たそうじゃ」
エッジカンブ伯は“優男”という言葉がしっくり来る見た目で、白皙の顔に紺碧の瞳、良く手入れされた金髪を肩まで垂らしており、舞踏会などではさぞもてるだろうなというのが、第一印象だった。
伯爵はウルリッヒの言葉で優雅に立ち上がると、やや斜めに構えるようにして口上を述べ始めた。
「私はカウム王国アルバート十一世陛下の名代を申しつかった、エッジカンブ伯アドルファス。まずはお見知りおきを。貴君がロックハート家の麒麟児、ザカライアス・ロックハート殿ですかな」
一言しゃべるたびになぜか腕が振られ、ミュージカルのような、いや、ミュージカルをデフォルメしたコントのような動きをする。
鼻に掛かったようなしゃべり方、大袈裟な身振りが気になり、どうにも集中できない。
(宮廷とは無縁だったからな。ウェルバーンにはこんな感じの人物はいなかった……しかし、ここカウムの貴族は皆こんな感じなのか? 宮廷を題材にしたコメディにしか見えないが……これで前髪を指で掻き上げられたら、笑いを抑える自信はない……)
俺は笑いが込み上げるのを堪えながら、「カエルムの騎士、マサイアス・ロックハートの次男、ザカライアスです」と応えておく。
俺がソファに座ると、ウルリッヒが不機嫌そうに用件を伝えてきた。
「陛下がお前に会いたいそうじゃ。儂は断ったんじゃが……」
そこまで言ったところで、エッジカンブ伯が話に割り込む。
「魔術学院で千年に一人という天才にして一流冒険者。ウェルバーンでは精鋭騎士団を相手に一人で奮戦した猛者……その剣はカエルムの騎士を両断し、魔法は魔術学院でも群を抜く腕前とか……」
俺の情報はしっかりと掴んでいるようで、ほぼ正確な情報だった。だが、問題はその話し方だ。一々、美辞麗句を並べるため具体性が乏しく、いつ、どういう手順で謁見したらいいのか、全く掴めない。かなり自己中心的な人物なのか、ウルリッヒが不機嫌そうな顔をしていることに気付いていないように見える。
「……陛下は常々、貴君のような英才を求め続けておられるのです……陛下より、謁見の許しを得ておるのです。すぐにでも、王宮にお越し願えまいか」
長々と数分間話し続け、中々口を挟めなかったが、ようやく、結論めいたことを聞けた。
(面倒臭そうな人のようだな。こういう人物を使者に立てる国王もどうなんだろう?……それにしても、ウルリッヒが大人しく話を聞いているのが気になるが……)
話が切れた瞬間、間髪いれずに一気に断りに行く。
「光栄なお言葉ですが、本日は鍛冶師ギルドからの強いご要望により、主要な鍛冶師方を集めた長期熟成酒の試飲会を執り行います。陛下が、楽しみにされておられる鍛冶師方を無視してでも召喚されるとおっしゃるのでしたら、同行いたします。ですが、陛下が鍛冶師方のご要望を無視されるとは思えません。一度、ご確認いただけないでしょうか」
正直な話、カウムの国王と謁見したいとは思っていない。俺がアルスに入ったことを知れば、呼び出されるとは思っていたが、出来ることなら知られる前に街を出てしまいたかった。
(多分、昨日の騒動が原因なんだろうな。あれだけの数のドワーフが集まれば、何事かと調べるはずだ。調べれば、俺が街に入ったことはすぐに判る。面倒なことだ……まあ、今の言葉でギルドの意向ってところは理解できるだろうから、無理やり連れていかれることはないんだろうが……)
俺は鍛冶師たちの意向でここにおり、今から親方クラスが集まる重要な試飲会をやると言ってやったのだ。これを無視することができるかは、カウム王国と鍛冶師ギルドの力関係だが、恐らく王国側が引くはずだ。
俺が即座に同意しなかったことに、エッジカンブ伯は僅かに顔をしかめるが、言葉の意味を理解しているのか、すぐには反論してこなかった。
「なるほど……陛下もギルドとは良好な関係をお望みのはず。改めて、日程の調整をさせて頂きましょう」
伯爵は気障なだけで無能ではないようだ。最初に強引に連れて行こうとしたのも、ウルリッヒが辟易としていることに気付きながらしゃべり続けたのも、主導権を握ろうとした策のうちなのかもしれない。
エッジカンブ伯は「では、日を改めて」と言って優雅に礼をし、退出していった。彼が部屋を出たところで、俺は大きく溜息をつく。横ではウルリッヒが不機嫌そうにしゃべり始めた。
「どうも苦手なんじゃ、あの伯爵がな。あの調子でしゃべられると、どうにも調子が狂うんじゃ……まあ、あれ以上強引に出られれば、儂にも考えはあったがな」
立て板に水の如く美辞麗句を垂れ流す伯爵は、質実剛健なドワーフとは真逆の存在であり、彼が煙たがるのも判らないでもない。特にカウム王国からの正式な使者ともなれば、如何に絶大な力を持つ鍛冶師ギルドといえども気を使わざるを得ないからだ。
国王もそれが判っているから、あえて伯爵をギルドへの使者として立てたのかもしれない。
「とりあえず、何とかなったが、明日にでも顔を出した方がいいんだろうか?」
俺がそう呟くと、ウルリッヒは首を横に振り、
「お前には明日以降も頼みたいことがあるんじゃ。スコット殿も含めて、後ほど相談させてくれ」
「頼み? どんな話なんだ? 今は言えないことなのか」
ウルリッヒは大きく手を横に振り、
「いや、言えんようなことではない。蒸留所の建設についての相談じゃ。今考えておる場所で問題ないか見てもらいたいだけじゃよ」
どうやら、アルス近郊で蒸留所を建設したいが、その場所が適しているか見て欲しいようだ。
「それなら問題はないな。スコットもすぐに了承してくれるだろう」
俺も新しい蒸留所には興味があったし、今のスコッチに足りないものを何とかしたいとも思っていたから、渡りに船の申し出だった。
話は済んだので、再び集会室に戻っていった。
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王宮に戻ったエッジカンブ伯爵はすぐに国王アルバート十一世に報告に向かった。その表情は先ほどまでの演技掛かったところは微塵も無く、真剣そのものだった。
国王の執務室に入ると、そこには五十歳くらいの疲れた表情をした男が豪華な椅子に座っていた。
その傍らには四十代と思しき、怜悧な表情の文官、シャーゴールド侯爵が立っており、伯爵を招き入れる。
「して、首尾はどうじゃ」
国王はややしゃがれた声で伯爵に問う。
「招聘は叶いませんでした」
伯爵はそう答えると頭を下げる。
「しかしながら、ある程度の情報は入手できました。ドレクスラー匠合長とザカライアス・ロックハート卿の関係は非常に良好のようです。ザカライアス卿は匠合長を呼び捨てにし、匠合長はザカライアス卿のことを親しげに愛称で呼んでおるそうです……」
そこで国王は小さく頷き、シャーゴールド侯を見る。
「侯はどう見る?」
侯爵は一礼した後、静かに話し始めた。
「鍛冶師ギルド掌握のためには、ザカライアス卿を取り込めれば最良。ですが、彼を取り込む“手”がございませぬ。あの者は地位も名誉も歯牙にもかけませぬゆえ」
「伯爵位では無理か……王女でも娶らせるか?」
侯爵は「恐れながら」と言って、小さく頭を振る。
「彼の者は既に四人もの美女を侍らせております。更に言えば、陛下のお血筋で歳の頃があう方もおられませぬ……強いて申し上げるならば、王太子殿下のご長女、シャーリーン殿下でしょうが、未だ七歳とあらば、あと五年は……」
国王と侯爵の会話にエッジカンブ伯が遠慮気味に入ってきた。
「恐れながら、私に一つ考えがございます」
国王は「申してみよ」と先を促す。伯爵は一礼した後、話し始めた。
「私が得た情報では、ザカライアス卿は鍛冶師たち以上に酒に拘りがあるようでございます……」
その言葉に国王は目を見開き、「ドワーフ以上にじゃと! 信じられん!」と首を振る。
「はっ。しかも、本日の試飲会には並々ならぬ力を入れておるようでございます。そこで提案でございますが、鍛冶師たちが欲しております蒸留所の建設において、陛下の御心をお示しされてはいかがでしょうか」
シャーゴールド侯爵が「具体的にはどうすればよい」と国王に代わって先を促す。
「王家直轄領に蒸留所を作り、鍛冶師ギルドに無償で譲渡もしくは貸与し、更に無税にしてはいかがでしょうか。さすれば、必ずや彼らは陛下に感謝の念を抱くことでございましょう」
伯爵の言葉に侯爵が「ザカライアス卿のことはどう致す」と質す。
「ザカライアス卿はドワーフ以上に酒に拘りまする。また、あれほどドワーフたちと懇意なのです。ならば、新たな酒造りに陛下がご慈悲をお与えになれば、必ずや陛下に敬意を表するのではありますまいか」
国王は「うむ」と頷くが、蒸留所の建設の具体化が思い浮かばない。
「それはよいが、どのようにして蒸留所に適した土地を探し出すのだ? 余にも、卿らにも、それが判る部下はおらぬだろう」
伯爵は「御意」と頷き、
「しかしながら、そのことはロックハート家の者が知っておりましょう。幸い、蒸留酒の発明者が同行しておるとの情報もえております。彼に王室直轄領での開発を依頼されてはいかがかと」
国王は「うむ」と頷くが、
「公爵たちが手を打ってこぬか?」
伯爵は頭を振り、
「アルス近郊はすべて直轄領にございます故、周辺の調査に護衛という名目で、人を付ければよろしいではありますまいか。さすれば、公爵家の者が近づく前に対処が可能でございます」
国王はしばし黙考した後、
「伯爵に委細任せる。必要な金、人材は好きに使うが良い。何としてでも、ザカライアス卿を我が陣営に加えるのじゃ。いや、加えなくともよい。公爵家に取り込まれぬようにせよ。頼んだぞ」
伯爵はきびきびと一礼すると、足早に退出していった。
残された国王は伯爵の後姿を見ながら、シャーゴールド侯爵に問い掛けていた。
「うまくいくだろうか? 魔術師ギルドの切れ者ワーグマン議長、老練なラズウェル辺境伯をもってしても、手に入れることは叶わなんだ逸材じゃ……」
侯爵は僅かに躊躇いの表情を浮かべながら、
「手に入れるというお考えはお捨てになった方がよろしいかと。手に入れようとすれば、必ず反感を招きましょう。逆に公爵たちが手に入れようとしてくれた方が陛下にとっては有利にことが進むかと……ドワーフたちが陛下に、王家に同情的であってくれさえすれば……今、ギルドに見放されれば、王家は……」
「皆まで言うな。言わずとも判っておる。今はまさに存亡の瀬戸際……何としても、力を得ねばならん……トーア砦のこともある。公爵どもはこの機を利用し、何か仕掛けてくるかもしれぬ……」
国王のもとにトーア砦周辺において、魔物の行動に異変があることが伝えられていた。また、トーアの司令部より、前回の魔族侵攻時にも同じような事象があったという報告もされていた。
だが、国王はトーア周辺の異変に対して何も指示を出さなかった。
理由は経済的な問題と、指揮官の能力、そして圧倒的な情報の不足だった。
トーア砦は先の魔族の侵攻、つまり十年前の三〇〇七年に起きた大侵攻以降、大規模な体制の強化が行われており、それに掛かる費用は王国、すなわち王家がすべて負担している。これにより財政はかなり逼迫しており、王国政府としては大規模な索敵などを命じにくい状況にあった。
更に悪いことに、砦の指揮官は未だに縁故によって決められており、優秀な指揮官が任命されているとは言い難い状況にあった。また、入ってくる情報も上級貴族出身の指揮官によってフィルターが掛けられた状態にあり、国王のみならず、王国政府の誰もがトーア砦の状況を把握しきれないでいた。
仮に正確な情報が入ってきたとしても、明確な目撃証言がない以上、動きようがなく、現状の防衛に専念していれば問題ないと誰もが考えていた。国王自身も数百km離れたトーア砦の状況より、王宮内での権力闘争の方に危機感を持っており、結局、トーア砦周辺での大規模な索敵作戦は実施されなかった。
後年、多くの歴史家たちがこう指摘していた。
『……もし、三〇一七年の九月時点で大規模な索敵を実施していれば、後の歴史に大きな影響を与えていただろう。特に三〇二五年に勃発した……』
一方、国王アルバート十一世たちに対しては、同情的な声が多かった。
『……当時、アルバート十一世も彼の腹心たちも数年後に発生する重大な事件を予想できなかった。確かに彼らは国内政治にのみ注力していたが、この時点で数年後を予見しうる政治家はどこにも存在しなかったであろう。例え、広い視野と識見を有する魔術師ギルドのワーグマン評議会議長や、世界の情報が集積される商業ギルドのファーナビー理事長であったとしても、この状況では彼ら以上の対応が出来たとは考えがたい。この時、東の壁とも言えるアクィラ山脈では、あらゆる情報が不足し、また、不正確であった……』
人知れず、歴史は静かに動いていた。
一応、歴史は動いています。酒以外でも……




