第四十話「舞踏会:後篇」
俺は純白のドレスを身に纏ったリディを引き連れ、ベアトリスが待つテーブルに向かっていた。
だが、そこだけどうも雰囲気がおかしい。近づいていくと、若い貴族相手にダンが必死に止めようとしていた。
その若い貴族は金や銀の糸を多く使った豪華な服に派手な細剣を腰に吊るした優男で、俺より少し年上くらいに見えるが、傲慢な表情が垣間見えている。そして、かなり酔っているのか、顔だけでなく首まで真っ赤になっていた。
「何かあったのか?」
俺がそう言うとダンは僅かに安堵の表情を見せ、
「この方がベアトリスさんに……えっと、言い寄って来られたんです。それも……」
ダンの言葉を遮るようにその男が話に割り込んできた。
「こ、この獣人を私に譲れ! お、お前のじょ、情婦だと聞いたぞ……」
呂律が回らない言葉から、この若者がシーウェル侯爵家の嫡男ジョナスであることが判った。
ベアトリスは相手の身分が高いことから、困惑の表情を見せていた。これが冒険者や傭兵相手なら、拳で解決したのだろうが、ロックハート家に迷惑が掛かると思い、どうしていいのか判らないようだ。そのためか、俺の顔を見た途端、心底ホッとしたような表情を浮かべていた。
(性質の悪い酔っ払いだな。だが、俺の事はともかく、ベアトリスを侮辱するような言葉は聞き流せない……)
「彼女は私の婚約者だ。これ以上の侮辱は許せない」
俺は低い声に殺気を込め、ジョナスに放った。だが、完全に酔っている彼は俺の殺気を感じられなかったようだ。俺の言葉に対し、嘲笑し始めたのだ。
「許せないらと……き、騎士の次男風情に何が出来るんだ……くっくっ」
酔ってはいるが確信犯のようだ。
確かに普通なら侯爵家の嫡男に対して、騎士階級ではほとんど何も出来ない。
帝国の法では騎士に叙されていれば、建前上、上級貴族に対しても決闘を申し込むことが出来る。だが、これには皇帝の許可がいる。つまり、皇帝が許可しなければ、何も出来ないのと同じなのだ。
皇帝は権力維持のため、上級貴族の支持を必要としているから、そのような許可は恐らく出さない。もちろん、権力闘争の相手であれば利用するかもしれないが、それでも相手が有力な貴族であれば逆襲される恐れがある。だから、脅しとして使うならともかく、実際に許可を出すことはあり得ない。
そのためかは判らないが、帝都では上級貴族が騎士階級や平民たちに対して横暴な振る舞いをしているという噂もある。どの程度事実かは判らないが、騎士の妻を無理やり愛人にしたり、皇宮で働いている騎士や平民の娘を手篭めにしたりとやりたい放題だという。騎士として功績があったハリソン・ガネルが上級貴族に裏切られたことや、高等学術院で優秀な成績を収めたデズモンド・ゲートスケルが帝都で官職を得られなかったことはそれと無関係ではないだろう。
今回は騎士でもなく、その嫡男でもない次男が相手だ。彼らから見れば、騎士の家の次男など取るに足らない存在だと思っているのだ。
さすがに辺境伯が招待した客にそんな輩が紛れ込んでいるとは思わなかったが、やはり毒されている者はいるようだ。
だが、普通の騎士の次男坊には手も足も出なくとも、俺には報復する手段が無いわけではない。もちろん、積極的に鍛冶師ギルドを利用するつもりはないが、相手が権力を笠に着るならこちらも対抗手段を取らざるを得ない。
「婚約者? 獣人を妻に……げ、下賎な獣人を妻らと……馬鹿らことを……」
まだ、グダグダ言っているジョナスを無視し、ダンに「シーウェル家の従者の方を探してきてくれ」と頼む。彼はすぐに頷き、大声で「シーウェル家の従者の方!……」と叫びながら会場を回り始めた。
この騒動で楽士たちもどうしていいのか判らず、演奏が止んでいた。このため、踊ることもできず、不愉快な騒動を見せられている招待客たちの多くは眉を顰めていた。
俺の横でも不機嫌の塊がいた。
リディは小声で「吹き飛ばしてしまおうかしら。そうしたら清々するわ」と美しい形の眉を吊り上げ、今にも空気の槌の呪文を唱えそうな雰囲気を醸し出している。
俺は肘で軽く突き、「駄目だぞ。自重してくれ」と小声で伝える。彼女は不機嫌そうにふんと鼻を鳴らすが、呪文を唱えることはなかった。
「いささか酔っておられるようだ。早々に部屋に戻られてはどうか」
俺がそう言うと、更に何か言ってくるが、呂律が回っていないため、もう何を言っているのか聞き取ることができない。聞き取れなくてよかったのだろう。恐らく殴りたくなるようなことを言っているはずだから。
喚き散らすジョナスを傍目にベアトリスが申し訳なさそうな顔をする。
「すまないね。あたしのせいで舞踏会が台無しだよ」
その言葉に「ベアトリスが悪いわけじゃない」と声を強める。俺も少し酔っており、このひと時を台無しにしたジョナスに対して言いようのない怒りを覚えていた。
俺は「この酔っ払いが……」と胸倉を掴もうと近づいた。
その時、いいタイミングでダンが走りこんできた。
「よ、ようやく、シーウェル家の方を見つけました……閣下、申し訳ございませんが、ご子息様を」
彼の後ろにいたのはシーウェル侯爵本人だった。年の頃は三十代半ば、祝宴の時に挨拶したが、俺たちに対しても普通に対応しており、悪い印象は持っていなかった。
俺は片膝をつき頭を下げ、リディは優雅にスカートを持ち上げて片足を引き、お辞儀をしていた。
「ザカライアス殿、息子が迷惑を掛けた。許してくれ」
侯爵はそう言うと大きく頭を下げる。俺は上級貴族にあるまじき行動に驚き、「頭をお上げください」と慌てて言うことしかできなかった。
「この馬鹿には貴公と婚約者殿には明日にでも詫びに行かせる。シーウェル侯爵の名において必ず詫びさせる。それで許してもらえぬか」
俺はベアトリスの方をちらりと見た。彼女も侯爵が頭を下げたことに驚いていたが、俺が眼で合図を送るとそれで十分と眼で応えてきた。
「あまり飲み慣れておられないのでしょう。ジョナス様が今後、私の婚約者に手を出さないということでしたら、酒の席でのこととして忘れることにいたします」
侯爵は僅かに安堵の表情を浮かべ、小さく頷いた。
「そう言ってもらえると助かる。だが、酒を飲み過ぎたとしても、やって良いことと悪いことがある。再び我が息子が貴公らに迷惑を掛けるようなら、この者を廃嫡する。我が侯爵家を危うくする愚か者に家名を名乗る資格はない」
俺はその言葉に再び絶句した。シーウェル侯爵家と言えば、現皇帝と縁戚関係にある名家だ。その侯爵家の嫡男を廃嫡するというのは政治的にも非常に重い話だ。それが酔った勢いで騎士の次男の婚約者に言い寄ったことが原因というのは、本来あり得る話ではない。
その疑問が顔に出ていたのか、侯爵は真剣な表情で話し始めた。
「貴公は自らの価値を軽く見すぎておるな。もし、貴公が本気で怒り、鍛冶師ギルドを動かしたとしたら……そう、帝都プリムスのドワーフたちをすべて引き上げさせたら……」
俺は思わず、「そのようなことは致しません」と口を挟んでしまった。だが、侯爵は気分を害することなく小さく頷き、言葉を続けていく。
「貴公ならそのようなことはせぬだろう。だが、もし、そのような噂が流れたら……ただ噂が流れるだけで、我がシーウェル家は取り潰される可能性があるのだ。我が家の政敵どもが嬉々として動くだろうからな」
侯爵はベアトリスに向かい、
「我が息子が何か言ったようだが、私は貴女を情婦とは思っておらぬし、獣人族を下賎などとも思っておらぬ。実際、家臣に獣人を何人も召し抱え、騎士として取り立てておる。もし、貴女が我が家に忠誠を誓ってくれるなら、騎士として取り立てるだろうな。貴女にはそれだけの価値がある」
侯爵は誤解を受けないよう、“我が家”という言葉を強調した。侯爵家の当主として、ベアトリスを武人として召し抱えても良いと言いたいようだ。その言葉にベアトリスは目を見開いて驚く。だが、侯爵はそれに構わず、従者に抱えられているジョナスを見下ろして、更に話を続けていった。
「息子には貴女の本当の価値が判っておらぬが、貴女が魅力的な女性であることは間違いない。我が息子は貴女の魅力と、慣れぬ酒に酔ったのだろう。我慢ならぬと思うだろうが、許してやってはくれまいか」
ベアトリスは「いや、いえ、気にしていません……」と言うだけで精一杯だった。
侯爵は従者らしき男性に「ジョナスを部屋に連れていけ」と命じると、会場の全員に向かって謝罪した。
「我が息子が迷惑を掛けた! だが、夜はまだ長い! 気分を変えて楽しんでくれたまえ! 後ほど、我が家秘蔵の葡萄酒を届けさせる! ザカライアス卿の銘酒には及ばぬが、存分に味わって欲しい! 楽士たちよ、演奏を始めよ!」
侯爵の言葉に会場から拍手が沸き起こり、楽士たちが明るい曲を奏で始めた。
俺はシーウェル侯爵の話術と人心掌握術に感心していた。
まず、息子を処分すると宣言することで、不愉快に思っている人たちの共感を得ている。そして、身分の低い俺やベアトリスに躊躇いも無く謝罪するだけでなく、迷惑が掛かった招待客たちにも謝罪し、最大級の誠意を見せた。このため、ベアトリスはもちろん、周りにいる連中も侯爵のような人物が自分たちに誠実に謝罪したという記憶だけが強く残る。実際、彼の言葉で息子の失態の印象は大きく弱まっていたのだ。
侯爵の登場で何となく毒気を抜かれ、俺たちの間に微妙な空気が漂っていた。特に俺とリディは先ほどまでの怒りが微妙に残っているが、これ以上怒りが込み上げてくることもなく、だからと言って完全に終息したわけでもない。そんな微妙な感情が俺たちの間に漂っていたのだ。
そんな空気をベアトリスが破ってくれた。
「あんたたち、まだ踊っていないんだろ? さっさと行っておいで」
俺は彼女を残して踊りに行くことに躊躇いを感じていた。
「侯爵様のおかげでこれ以上絡んでくる奴はいないよ。それにシーウェル家秘蔵の葡萄酒が届くんだ。あたしは踊るよりそっちの方がいいね」
その言葉に俺とリディは同時に顔を見合わせる。そして、同時に噴出した。
「ああ、じゃあ、一曲踊ってくるよ。だが、俺たちの分も残しておいてくれよ」
そう言ってリディを誘い、踊りの輪に入っていった。
その後、リディと何曲か踊り、先ほどまでの苦々しい思いは消えていた。
人見知りの激しいリディがこれだけ多くの人の中で視線を気にせずに楽しんでおり、無理やり誘い出して良かったと安堵する。
彼女が純白のドレスを着ている理由を聞き、少しだけ考えることがあった。彼女が純白のドレスを選んだのは、俺が元の世界では新婦の着る定番のドレスであると教えたからだ。
“結婚”というキーワードは互いに出していない。俺としてはどう切り出していいか判らないからだが、そろそろ真剣に考える時が来ているのかもしれない。
そのことを踊りながら聞いてみると、「別にいいわよ、結婚なんて。どうせ生活が変わるわけでもないんだから」と素っ気ない答えが返ってきた。
本当のところはどうか判らないが、リディとベアトリスには近いうちに正式にプロポーズするつもりだ。今までは俺に与えられた使命を理由に先延ばしにしていたが、きちんとけじめをつけたい。
そんなことを考えながら、リディの顔を見ていた。
「私の顔に何かついているのかしら?」
いたずらっぽくそう聞いてきた。
「いや、ただ見ていたかっただけだ。こういうダンスでは相手の目を見るのが礼儀だしな」
そんな他愛の無い話をしていた。
その後、シーウェル侯爵家のワインが届き、中庭で振舞われることになった。俺たちもボトル――ガラス製ではなく陶器製の壷のようなもの――を二本手にいれるが、やはり真夏ということもあり、飲むには温度が高い。擬似ペルチェ効果の魔法で適温――やや低めの十二度程度――にし、収納魔法から取り出したグラスに注いでいく。もちろん、人前で出すわけにいかないから、ダンが部屋に取りにいったような細工はしている。
ちょうど、侍女長のバーバラ・ハーディングがいたので聞いてみたのだが、シーウェル家の赤ワインは帝都では有名らしく、貴族でも中々口に出来ないものだそうだ。
色は少し濃い目の鮮やかな赤色。灯りの魔道具の光にかざすと、僅かに紫がかって見える。
そして、口に運んでみると、真夏の街道を運んできた割には劣化しておらず、若いながらも黒葡萄の甘味と酸味のバランスが非常に良い。イタリアやスペイン辺りのミディアムタイプの赤ワインに近い感じだった。
「中々うまいな。ボトルに詰めて二年ほど寝かせればもっとうまくなりそうだ」
俺が満足そうに舌鼓を打っていると、リディとベアトリスも同じようにグラスを空けていく。
「本当においしいわね。でも、何か摘む物が欲しいわ」
リディの言葉に同感だった。
「これなどいかがですか?」
そこには黄色いドレスを着た若い女性がにこりと笑って立ち、つまみになりそうなもの――チーズや一口大のキッシュ、リエットを塗ったパンなど――がきれいに盛り付けられた皿を優雅に差し出してきた。
その女性は給仕をしていた侍女の一人、アイナ・ラシュトンだった。
「ザカライアス様なら必ずお求めになられると思いまして……と言っても、バーバラ様がそうおっしゃっただけですけど」
そう言って、コロコロという感じで笑う。
確か俺やシャロンより一歳年下の十四歳だったはずだが、彼女の笑顔は大人びて見えた。
(グラスを割って泣いていた時はもっと幼く見えたんだが……着るものも含めて雰囲気でこうも変わるものなのか……)
リディはアイナをちらりと見て、「一曲踊ってあげたら? おつまみのお礼に」と言ってきた。
ベアトリスも「あたしとリディアーヌは美味いワインとこのつまみで一杯やってるわ」とグラスを掲げる仕草をする。何とも男前な台詞だが、妖艶なドレスがいつもと違うと戸惑いを覚えてしまう。
リディに「早く行きなさい。もちろん、侍女長とも踊るのよ」と犬を追いやるようにシッシッと手を振る。
俺はその仕草に呆れながら振り返り、「一曲踊っていただけますか」とアイナを誘った。
彼女は「はい! 喜んで」と満面の笑みを浮かべて俺の手を取った。
一曲踊って見たが、さすがに行儀見習いで城に上がっているだけのことがあり、見事なステップだった。
アイナはもう一曲踊りたそうだったが、侍女長バーバラ・ハーディングと踊るため、彼女と別れた。
モスグリーンのドレスに身を包んだバーバラは寂しそうに壁際に立ち、踊りの輪が解けていくのを見つめていた。彼女の周りには人はおらず、次の相手は決まっていなさそうだった。
「バーバラ様。私と一曲踊っていただけませんか」
その時、彼女は俺とは反対側を見ており、俺に気付いていなかったようだ。そのため、非常に驚いた表情を浮かべ、俺の誘いに応えることを忘れてしまったようだ。
俺は出来るだけ柔らかい笑顔を作り、もう一度彼女を誘った。
「私と一曲、いかがでしょうか?」
バーバラは顔を真っ赤にして「喜んで」と消え入るような声で応え、俺の手を恥ずかしそうにとった。
意外だった。
長年、小国の宮廷とも言える、このウェルバーン城で過ごしているから、こういった機会は多いはずだ。もちろん、侍女長ともなれば、それほど頻繁に出席はできないだろうし、ラズウェル家は不幸が続いていたから華やかな園遊会や舞踏会が余り開かれなかったのかもしれないが、それでも先ほどのアイナよりよほど経験はあるはずだ。
だが、目の前にいるバーバラ・ハーディングという女性は十四歳の少女より初々しい感じがしたのだ。
比較的大人しい曲が流れ、ゆっくりとしたステップで踊っていく。さすがに洗練された動きで俺の方がリードされていた。
曲が終わると、優雅に礼をして離れていく。
俺には何となくその姿が寂しげに見え、思わず声を掛けていた。
「少しお酒でもどうですか?」
そう言って近くを通る給仕からゴブレットを受け取る。
近くの椅子に座り話をし始めると、彼女の表情が徐々に明るくなっていく。十分ほど話をし、もう一曲踊って彼女と別れた。
リディたちのところに戻ると、リディが興味深げにバーバラの印象を聞いてきた。
俺には彼女の意図が判らず、思ったままに答えた。
「……やっぱり侍女長って仕事は大変そうだな……でも、意外だったよ。侍女長とベアトリスが同い年だったとは。どちらも若く見えるけど、侍女長は二十代にしか見えなかったからな……」
そんなことを話しているとリディが耳元で囁く。
「で、どうなの? あの娘も村に来そうなの?」
俺は「はぁ?」と思わず声を上げてしまった。
「あり得ないだろう。ここの侍女長が何でうちの村に来るんだ?」
「あなたは鈍感ね。まあいいわ。これ以上増えても困るし……」
どうやら、バーバラが俺に惚れて村に来るかもしれないと思っているようだ。だが、それは無いと思っている。話してみて判ったが、彼女は責任感の強い女性だ。今の状況のラズウェル家を離れることはないだろう。
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私、バーバラ・ハーディングは十年ぶりに舞踏会に出席いたしました。
侍女長という役職柄、若い侍女たちが多く出席する、このような場にでることを極力避けておりました。上司である私が参加すれば、彼女たちが羽を伸ばせないのではないか、そう思っておりました。
ですが、今日だけは我儘を通させていただきました。恐らく今日が私にとって最後の舞踏会になるでしょうから。
祝宴の片付けの指示を出し終え、大急ぎで大昔に着たドレスを引っ張り出しました。袖を通してみたのですが、サイズこそ問題なかったものの、少し古いデザインであり、やはり周囲から浮いています。
それでも良かったのです。私は踊りたいわけでも恋を語らいたいわけでもなかったのですから。
そう、ザカライアス・ロックハート様のお姿を見たかっただけ……。
ですが、私はこの場に来たことを後悔しました。
それは周囲から浮いているとか、侍女たちが迷惑そうにしているとかではなく、あの方の幸せそうなお顔を見てしまったからです。
ベアトリスさんと入ってこられた時は見ていないのですが、リディアーヌさんとご一緒に入場されるところを見てしまったのです。
純白のドレスを身に纏った女神のように美しいリディアーヌさん。もちろん、自分と比べようなどとは露とも思っていませんでしたが、その美しさに嫉妬という醜い感情がわきあがるのを止めることができませんでした。
そして、その隣で幸せそうに微笑むザカライアス様のお姿を見て、本当に後悔したのです。ここに来なければ夢を見ることはできたのにと。
あのお顔を見て、私に微笑む姿を想像することなど出来ません。ですから、私は後悔したのです。
ザカライアス様はそのままベアトリスさんのところに向かわれました。その時、そこで揉め事が起こっていることに私は気付いていなかったのです。
本来なら私が処理すべき事なのですが、その時はザカライアス様が近づかれるまで全く気付かなかったのです。
ベアトリスさんに絡んでいたのは、シーウェル侯爵家のご嫡男ジョナス様でした。普段は大人しい感じの少年なのですが、お酒で箍が外れてしまったのでしょう。私はザカライアス様に不愉快な思いをさせてしまったことを悔やみました。もっと早く気付いていれば、シーウェル家の方を見つけてジョナス様をお部屋に連れて行ってもらうことも出来たはずです。
ですが、まだ間に合うと思い、シーウェル家の従者を見つけ、指示を出しました。
「今すぐ、侯爵閣下をここへお呼びください。大至急です」
従者は「閣下をお呼びするのですか!」と驚き、動こうとしません。
「私はここの侍女長バーバラ・ハーディングです。侍女長が侯爵家の一大事が起こっているからすぐにお越し願いたいと申しているとお伝えください。早く!」
従者は私の役職を聞き、慌てて侯爵様を呼びに行きました。
これで恐らく解決するでしょう。ですが、それではザカライアス様たちが不愉快な思いを残したままになってしまいます。私は侯爵様が来られるであろう入口で待つことにしました。
侯爵様は私の伝言により、大慌てで走ってこられました。
「何があったのだ! 我がシーウェル家に係る一大事と聞いたが」
私は事情を手短に説明しました。
侯爵様は頭を抱えられたあと、「ジョナスの愚か者が!」と怒りを露わにされました。
私は侯爵様に私の考えをお伝えしました。
「ザカライアス卿のお怒りをお静めするには、お酒をお使いになられることをお勧めいたします……」
最初は侯爵様もよく判らなかったようですが、私の考えをすぐに理解されました。この方はお館様が一目置かれるほどの方ですので、私の拙い考えであってもヒントさえあればそれで十分なのです。
その後は侯爵様のお陰で事なきを得ました。
ザカライアス様がシーウェル家のワインについて興味を持たれたようですので、私の知る知識をお伝えしました。その時に「何が合いそうかな」と呟かれました。私はすぐに料理長につまみの手配をお願いしました。
その後は出来るだけ目立たないように壁際に立ち、ザカライアス様を見ておりました。ワインが出てきたタイミングでアイナさんにつまみの載ったトレイを持っていくように頼みました。本来であれば、給仕が運ぶべきところですが、アイナさんもザカライアス様と話したそうにしていたのできっかけになれば良いと思ったのです。
私の考えは成功したようでした。
アイナさんと踊られたザカライアス様なのですが、なぜか私のところに来られたのです。そして、私をダンスに誘われたのです。
その後のことはよく覚えておりません。
一曲踊った後にお酒を飲みながらお話をしたのですが、何を話したかも定かでは……。
最後にリディアーヌさんと目があったのですが、あの方はなぜか優しい目で私を見ておられました。
理由はよく判りません。
ですが、なぜかリディアーヌさんとはお友達になれるような気がしたことだけは確かでした。その機会に恵まれることはないにしても。




