第三十八話「舞踏会:前篇」
トリア暦三〇一七年七月二十日午後七時頃。
兄ロドリックとラズウェル辺境伯の末娘ロザリンドとの結婚式の二次会に当たる舞踏会が始まろうとしていた。
大急ぎで片付けられた大広間には、楽師たちが奏でる甘いメロディの音楽が流れ、着飾った若い貴族の子息や令嬢たちが続々と入場していく。
俺たちもその人の流れに乗り、会場に入ろうとしていた。俺はシャロンをエスコートし、その後ろにはメルをエスコートしているダンが続いている。この組合せだが、厳正なくじ引きによって決まったらしい。
メルもシャロンも俺と腕を組んで入場することを望んだためだが、いつもは一歩引く感じのシャロンがどうしても引かなかったのだ。
そして、リディが作ったくじを引き、シャロンが勝利を収めた。リディの話ではその時メルは泣きそうになっていたが、シャロンの提案により二番目に踊ることが決まったため、ようやく笑顔を取り戻したと言うことだった。
そんな話を聞くと、俺は彼女たちの想いに応えることができるのかと思ってしまう。
彼女たちの服装だが、メルとシャロンが着ているものは祝宴の時と基本的には同じだ。だが、さすがに年頃の女性らしく、髪型を少し変えたり、アクセサリーを増やしたりして舞踏会のイメージに合うよう手を加えていた。二人とも左手の薬指に指輪を嵌めていた。以前、ドクトゥスの不動産屋、マクラウドから貰った宝石で作ったものだ。
ダンは父や兄と同じような帝国の騎士たちが着るような青を基調とした服装に、儀礼用の長剣を下げている。
元々すらりと背が高く、父ガイ・ジェークス譲りのキリリとした涼しげな瞳と母クレアや妹シャロンに似たやや女性的な甘いマスクなので、騎士の出で立ちがよく似合う。
そのためか、着飾った令嬢たちの視線の多くがダンに向いていた。
リディとベアトリスだが、今はここにいない。
二人は今頃、夜会用のドレスに着替えていることだろう。俺の体が一つということで、三十分ほどしたところで、メルたちと交代する予定になっている。
ここに来るまでに二つほど出来事があった。
一つは兄ロドリックに会いに行ったことだ。
慣れない宴会で兄が飲み過ぎている気がしたので、解毒の魔法で酔いを醒ましてやろうと考えたためだ。
兄も酒が飲めないわけではないのだが、真面目な性格なため普段はかなり節制していたようだ。だが、今日は主役ということもあり、帝都から来た侯爵や伯爵、更には騎士団の上司たちからも飲まされ続け、フルボトル二、三本分くらいのワインを飲まされている。
祝宴中は程よく酔いが回り、かなり陽気になっていたが、酩酊するところまではいっていなかった。杞憂かもしれないと思いながらも、今日は新婚初夜なので、できれば酔っぱらっていない方がいいだろうと少し気を使ってみたのだ。
俺の予想が当たり、兄は控室のソファに横になっていた。付き人であるシム・マーロンが介抱しているが、歩こうとすると千鳥足になり、呂律もかなり怪しかった。
やれやれと思いながら、解毒の魔法を掛けて血中のアルコールを減らしていく。更に二日酔いの元である“アセトアルデヒド”を分解するイメージで浄化していく。これである程度の“酔い”と“二日酔い”は解消されるのだが、量が多過ぎたり、解毒が遅れたりすると魔法では完全に回復させることができず、二日酔いの症状が残ることになる。
今回は完全に酔っぱらってから時間が経っていないことから、軽い頭痛と倦怠感程度で収まるはずだ。
解毒の魔法を掛け、兄にいろいろとアドバイスを与えてから、自分たちの部屋に戻ろうとしたのだが、ここで二つ目の出来事が起きた。
廊下で騎士団長のマンフレッド・ブレイスフォード男爵と鉢合わせてしまったのだ。
騎士団長は俺の顔を見ると「ここにいると聞いたのでな」といい、すぐに謝罪を始めた。
「我が配下、フィリップ・イングリスが卿に危害を加えようとしたこと、責任のすべては私にある。本当に済まなかった」
そう言って深々と頭を下げる。
俺は「顔をお上げ下さい」と慌てる。北部総督府の重要人物であり、一軍を指揮する騎士団長に頭を下げさせるなど、傍から見れば非常に外聞が悪い。
俺自身、既に祝宴の前の出来事を忘れ始めていたのだが、真面目な騎士団長はそういうわけにもいかないのだろう。
「何も被害はなかったのです。それに彼の気持ちが判らないわけでもありません」
騎士団長は頭を振り、
「だが、守るべき招待客に剣を向けようとした。この事実は消えぬ。つまり、私の責任も消えぬということだ」
そう言ってもう一度頭を下げる。
正直なところ、あの従士が斬り掛かってきたとしても問題はなかったし、こういうことの方が余程面倒だと思っている。だから、これ以上ややこしくしてほしくないというのが本音なのだが、真面目な騎士団長は、簡単には納得してくれそうにない。
「家族を殺した相手が目の前にいるのです。若ければ逆上してもおかしくはないですから。これで彼の考えが変わってくれればそれで十分です」
「そう言ってもらえることはありがたいのだが、これは規律に関すること。私の監督責任はもちろんだが、処分を行わねば軍としての規律が保てぬ」
やはり騎士団長は頑として譲ろうとしなかった。
俺は論法を変えることにした。
「判りました。ですが、私のため、ロックハート家のために、厳しい処分はご容赦いただけないでしょうか」
騎士団長は俺の言っている意味が判らなかった。
「よく判らぬが、どのような意味か」
俺は彼の意表を突けたことに活路を見出そうとした。
「ここで厳しい処分を下せば、私が望んだように見えます。止むを得なかったとはいえ、私は多くの騎士、兵士がたを殺めているのです。その私が更に厳しい処分を願ったと言えば、ロックハート家の印象が悪くなってしまいます」
騎士団長は思いもよらない話を聞かされ混乱していた。
「では、どうすればよいのだ……」
「厳しい訓練でもさせてはどうでしょうか? それとも追加の任務を与えるとか。その程度で十分です」
俺はそれだけ言うと、まだ納得しきれず難しい顔をしている騎士団長との会話を切り上げ、部屋に戻っていった。
本当に面倒な話だと思っている。
斬り掛かろうとした従士の処分は必要だろうが、相手が“俺”というのが良くない。如何に規律の行き届いた騎士たちであっても、総督を助け、ガネルを捕えた俺に対し、やっかみに似た感情を持っているかもしれない。俺に対してだけなら大した問題ではないが、ロックハート家に対してなら話は別だ。
(しかし、俺に出来ることはほとんどないな。騎士団内部の処分に口を出すわけにもいかないし……穏便に済ませてくれというくらいが関の山だ……考えても仕方がない。このことは忘れて舞踏会のことでも考えるか……)
俺はこの話を忘れることにしたのだ。
シャロンをエスコートしながらそんなことを思い出していたが、楽師たちの奏でる音楽が変わったことで意識を会場に戻す。
緩やかな音楽から、アップテンポな音楽に代わり、入口の方に皆の視線が向いていた。どうやら、兄たちが入場してくるようだ。
兄は先ほどまでの千鳥足とは異なり、しっかりとした足取りで新妻ロザリーと腕を組んで入場してくる。
俺たちを含め、既に会場に入っている若い男女が盛大な拍手で二人を迎える。
兄たちも手を振ってそれに応え、大広間の中央に向かった。
俺は跪き、「一曲踊って頂けますか」とシャロンに声を掛け、右手を差し出した。
シャロンははにかみながら、「はい、よろこんで」と俺の手を取る。
横ではダンが同じようにメルを誘い、周囲でも同じようなやりとりがなされていた。
最初の一曲は決まった相手がいるため、すぐにカップルが成立する。そのため、一分ほどで最初のダンスが始まった。
帝国を含め、この世界の宮廷では円舞のような回りながら踊るワルツのようなスタイルが主流だ。もちろん、突飛なことをする若者はどの世界にもいるようで、円舞に拘らないダンスもあるようだが、さすがに上級貴族の舞踏会では見られることはない。
このダンスなのだが、前世で社交ダンスなどやったことはなく、この世界に来てから覚えたものだ。ドクトゥスのティリア魔術学院は王家や貴族との付き合いを想定した授業もあり、一般的なマナーだけでなく、こういったダンスなども授業に盛り込まれていたためで、一応基本のステップとルールは知っている程度だ。一応知っているが、ドクトゥスの学院生時代には本格的な舞踏会に行くことはなく、今回が初めての経験だ。
もちろん、兄の結婚に伴い、こういった舞踏会があることは判っていたので恥を掻かない程度の練習は行っている。その過程で授業を受けていないメルやダン、ベアトリス、そしてリディもダンスを習うことになったのだ。リディの場合、一応学院の卒業生であり授業を受けているはずなのだが、何分四十年ほど前のことなのでほとんど忘れてしまっていたのだ。
軽やかな音楽が流れ、数十組の着飾った若い紳士、淑女たちが大きな輪を作りながら踊っていく。
輪の中央では軍服姿の兄と銀色に見える純白のドレス――祝宴の後に着替えている――に身を包んだロザリーが抱き合うような形で踊っている。二人の顔は幸せそうな笑顔が絶えることなく、周りの男女の姿は目に映っていないかのようだ。
(とりあえず解毒の魔法が効いたみたいだ。あの足取りじゃ、こんなダンスは踊れないだろう。今回の披露宴が異例だったのか?)
後でこのことについて聞いてみたのだが、どうやら新郎に対する悪ふざけのようで、大抵の新郎は潰されてしまうそうだ。そのため、新郎新婦は会場に現れないか、現れても一曲で終わることが多いと教えてもらった。但し、帝国の慣習では新郎新婦は踊りたくとも二曲までしか踊らせてもらえない。理由は寝室に直行し、ゆっくりと二人だけの夜を迎えるためなのだそうだ。
俺はシャロンの腰を抱くよう手を添え、クルクルと回りながら踊っていた。
正直なところ、このダンスという奴があまり好きではなかった。身体能力が高いので踊れないわけではないが、どうしても気恥ずかしさが先に来てしまうからだ。
今日に限っては目の前にいるシャロンの幸せそうな笑顔を見ていると、これはこれでいいと思えてくるから、好きではないと言ってもその程度のことだ。
一曲目が終わると、新郎新婦に盛大な拍手が贈られる。その拍手が終わると、次の相手探しになるのだが、俺の場合、メルがいるので探す必要はない。
メルにもシャロンにしたのと同じように片膝をついてダンスの誘いをする。
彼女は真っ赤になりながら俺の手を取った。横ではダンとシャロンが腕を組んでいた。
本来なら兄妹で踊るようなことはないそうなのだが、メルもシャロンも別の相手と踊ることを嫌がり、ダンで手を打ったそうなのだ。
二人は二曲目が終わったところで、部屋に戻ることに決めている。この辺りの話を聞くと、ダンに同情してしまうが、彼はこの後も残り、美しい令嬢たちと踊ることになる。もっともメルと踊れただけで十分満足しているようだが。
二曲目は一曲目よりスローな感じの曲で男女の密着度が高くなる曲だった。周りでもチークでもないが、抱きあうような感じで踊っている。
俺も同じようにメルを抱き寄せるが、どうにも目のやり場に困る。彼女が着ているドレスは肩を出し、胸元を大きく開けた大胆なデザインのもので、体を密着した状態で相手の顔を見ると胸の谷間を見下ろすことになる。そのため、いつの間にか成長している娘に色気を感じているようで、何とも言えない気分になってしまうのだ。前世でも娘はおろか、子供もいなかった俺だが、娘を持つ父親の複雑な気持ちというものがなんとなく判った気がしていた。
二曲目も無事に終わった。
曲が終わると踊りの輪がゆっくりと解けていく。兄は「それでは皆様、存分に楽しんでください!」と言って、ロザリーと腕を組んで会場を後にした。
周りからは再び盛大な拍手が沸き起こる。
上級貴族が多いだけにさすがに下品な声は掛からない。これが冒険者たちなら、「そっちも存分に楽しめよ!」などという声が掛かったことだろう。
兄たちが下がったことを機に、俺もメルとシャロンとともに部屋に戻っていく。二人だけで帰してもいいのだが、酔った貴族の子息に絡まれないとも限らない。もちろん、戦闘力では圧倒できるのだろうが、無駄に揉める必要もないから、俺がついていく方がいい。もっとも次のベアトリスのエスコートのついでということもある。
右手にメル、左手にシャロンというまさに両手に華状態で会場を後にする。さすがに俺がついているから、絡んでくる奴もいなかった。
無事に部屋に戻ると、そこには夜会用のドレスに着替えたベアトリスの姿があった。




