第十四話「ゲートスケル准男爵:後篇」
ラズウェル辺境伯の老獪な策に、私デズモンド・ゲートスケルは常に後手に回っていた。だが、それでも私にはまだ余裕があった。
“血華蓮”の栽培と“光神の血”の製造が露見したとしても、タイスバーン子爵家は商業都市の商人に薬品の製造を許可しただけであり、帝国の法に抵触するようなことは行っていない。
道義的な問題はあるだろう。
もちろん、辺境伯や帝国の高官に糾弾される可能性も高い。だが、少なくとも子爵領の領民たちは我々を支持してくれるはずだ。以前のような高い税と貧しい暮らしに戻りたいと、誰も思うはずはない。
しかし、私の思惑は意外なところから綻びが生じた。いや、最初から奴の手の平の上で踊らされていただけなのだろう。
オウレット商会のオーラフ・オウレットが豹変したのだ。
オウレットはルキドゥスの血の製造が辺境伯に知られれば、必ずや販売及び製造の禁止が法制化されると言い、その前に手を打つよう迫ってきたのだ。
その頃、私の施策により、タイスバーン子爵領は安定的な収入を得始めていた。つまり、この薬物の製造を必要としていなかった。
私はオウレットの申し出を断ろうとした。
だが、奴は開き直った。
タイスバーン子爵は敵国ルークスと通じていると、辺境伯に訴えると脅してきたのだ。
最初はたかが一商人の脅しなど恐るるに足りぬと考えていた。だが、奴は遂にその本性を剥き出しにした。
オウレット商会はルークス聖王府の意向を受けた特殊な機関であり、証拠をいくらでも捏造できると脅してきたのだ。
その言葉を聞き、私は果たしてオウレット商会が本当に聖王府の意を汲んだ組織なのか?と彼らの行動を思い返していった。
いや、思い返さなくとも、今までのオウレットの行動に不審な点は多くあった。私はその事実から目を背けていたのだ。
中堅どころの薬品専門の商会でありながら、豊富な資金と絶え間なく続く奴隷の供給。あれだけの資金と労働力があれば、あえてタイスバーン子爵領を選ばずとも、いくらでも取引相手はあったはずだ。
つまり、ルークスの聖王府は別の目的で私に接近したのだ。
私はそのことに気付き、悔し紛れにオウレットの言葉の矛盾をついてやった。
「貴様は聖王府が“ルキドゥスの血”の製造を取り締まっていると言っていたではないか。その聖王府の手の者がルキドゥスの血を作らせる。おかしな話とは思わぬか」
私の問いにオウレットは不気味な笑みを浮かべるだけで答えようとしない。
奴が答えなくとも何となく想像はついている。恐らく、聖王府は光神教団内の武闘派である聖騎士たちを取り込もうとしているのだ。
流通量を極端に減らし、聖王府の意向に従う聖騎士だけにルキドゥスの血を渡して手柄を上げさせる。欲に塗れた聖騎士たちのことだ。聖王府につけば、手柄が挙げられるとなれば、十分に調略できるだろう。ルークスの者たちなら、その程度のことをやっていてもおかしくはない。
しばしの沈黙の後、オウレットは唐突に話題を変えてきた。
「そのようなことはどうでもよろしい。あなたには関係のないことなのですから。そんなことより、この事態を打開するための提案をお話ししましょう……」
奴の口から出たのは恐ろしい提案だった。
「……帝国北部を独立させるのです。そして、アウレラを、世界の富が集まる商業都市を手に入れ、聖王国とともにカエルム帝国を討ち滅ぼすのです!……」
奴の提案は帝国の北部域を独立させ、ルークス聖王国と同盟し、帝国に対抗すると言うものだった。帝国北部域が独立し、ルークスと同盟、更にアウレラを手に入れれば、帝国と国力は互角になるという。
確かに帝国北部域だけで、帝国全体の二割ほどの国力を持っている。ルークス聖王国も帝国の二割ほどの国力であり、合わせれば戦力比は今の一対五から一気に一対二にまで近づけられる。更にアウレラの富を手に入れられれば、国力的には互角に近いところまで持っていける。
だが、それは机上の空論だ。
確かに帝国北部の国力、すなわち、人口や経済力などは帝国全体のほぼ二割だ。だが、実働戦力は圧倒的に劣っている。
現皇帝を含め、歴代の皇帝たちは北部総督の離反を警戒しており、一定以上の戦力の保有を認めていないのだ。
仮に北部総督府軍を無傷で手に入れたとしても、四個騎士団一万名と点在する街の守備隊員数千名しか戦力はない。仮に徴兵したとしても、すぐに戦力化できるはずもなく、それこそ“ルキドゥスの血”でも使わなければ、瞬く間に敗れ去るだろう。
ルークスのようにモエニア山脈――カエルム帝国西部とルークス聖王国北東の間にある急峻な山岳地帯――のような地理的な防壁があれば別だが、帝国北部域は開けた平原地帯が続いており、南部からの侵攻ルートは無数にある。帝国の侵攻を完全に防ごうとすれば、ただでさえ少ない戦力を分散せざるを得なくなるのだ。
問題はそれだけではない。ラズウェル家に忠誠を誓う騎士や民は多い。謀反のような強引な手段で権力を掌握したとしても、現状の戦力を丸ごと得ることは難しいだろう。
そして、“光神の血”だが、これは狂信者の国、ルークスだからこそ使えるものなのだ。普通の感覚なら、廃人になるような薬物を誰も使いたいとは思わないだろう。
聖戦に参加し、殉教することが美徳と刷り込まれた光神教信者以外、ペテンにかけて飲ませるような方法しか採れないはずだ。
恐らく、いや、確実にオウレットとその背後にいる聖王府の連中も、独立が成功するとは考えていない。彼らの狙いは帝国内に混乱をもたらすことだ。
ここまで分かっていたが、私はオウレットの提案を拒否することができなかった。
なぜなら、このまま行けば、間違いなくコンスタンス様は窮地に陥られる。用意周到なオウレットのことだ。既に決定的な証拠を捏造しているはずだ。もし、その証拠を帝都に持ち込まれたら、大恩あるコンスタンス様は死を賜るだろう。
奴の提案を飲むと決断した時、私は別のことを考えていた。
そう、私はただ、コンスタンス様に失望されたくなかったのだ。だから、奴の提案に乗った。
客観的に見れば、何という馬鹿な理由だと思うだろう。自分自身、そう思わなくもない。だが、紛れもなく、それは本心だった。
奴の提案を拒否しなかったが、私はこの状況を打開する方策がないか考え続けた。
そして、ロドリック・ロックハートとロザリンド・ラズウェルの結婚のため、ロックハート家がウェルバーンを訪れるという情報を手に入れた。
そこで私は閃いた。
ルークスが我々に反乱を起こさせるのは、我々にそれ以外に利用価値がなくなったと思われたからだ。ならば、彼らが納得する利用価値を手に入れればいい。
ルークスは鍛冶師ギルドとの関係が悪化し、ドワーフの鍛冶師たちを失っている。ならば、我々が鍛冶師ギルドを制御できる存在になれば、ルークスも我々に利用価値を見出すだろう。そして、時間を稼ぎ、その間にオウレットらを排除するのだ。
幸いなことに、ロドリック・ロックハートはまさに騎士の鑑と言える人物だ。
融通は利かないが、大きな恩を感じれば、我々の要求に従い、蒸留技術を渡す可能性は高い。
私はマサイアス・ロックハートの暗殺と彼の家族の拉致を部下であるハリソン・ガネルに命じた。そして、ロドリックの家族を救い出したことにして、彼に引き渡すことも。
部下のガネルだが、彼は私が偶然助けた騎士で、対ルークス戦線のベテランだった。彼は戦場で上級貴族に裏切られ、部下と名誉を失った。その結果、彼は髪の毛がすべて白くなるほどの失望を味わった。
彼はその報復を行うため帝都に舞い戻ったのだが、運悪く報復に失敗し、逆に追われる身となった。偶然、私は逃亡中の彼を助けた。彼はその後、私の腹心となって働いている。
拾った当時はぼろぼろに傷付き、まともに動くことも出来なかったが、治癒魔法によって回復すると、意外な才能を見せた。剣術の腕もさることながら、諜報や謀略などに才能があったのだ。そして、自然と裏の仕事はガネルの担当になった。
そのガネルにロックハート家襲撃を命じた。
話を戻すが、マサイアスが死ねば、ロドリックが跡を継ぐことは周知の事実であり、私の策が成功する可能性は高い。
しかし、ロックハート家は精強な兵で有名だ。
先代のゴーヴァン・ロックハートはその腕で平民から騎士になっているし、彼の部下はルークスの精鋭、獣人奴隷部隊と互角以上に渡り合った猛者たちだ。
私の部下の中で最も腕の立つガネルですら、レベル五十を超えた程度だが、ロックハート家の従士たちはレベル六十を超えていると聞く。事実、ロドリックは二十歳前であるにも関わらず、レベル五十を超えており、ロックハートの名は伊達で無いことを証明している。
その点についてはガネルと協議を終えている。
今回、マサイアスに従う従士は三名であり、他は自警団員だという。如何に手練といえども数が少ない。
戦いは数だ。こちらが敵を圧倒できる戦力を用意すれば問題はない。
唯一の不安要素はマサイアスの次男、ザカライアス・ロックハートだ。
私の調べた限りでは既に高位の魔術師として学術都市で名を馳せ、更に冒険者としてもアウレラ街道に知らぬ者はいないというほど名を上げている。それだけなら、恐るるに足りないが、私が最も恐れているのは、彼に政治的な才能があるということだ。
あの魔術師ギルドの評議会議長ワーグマンと懇意にしながらも、老練なワーグマンの誘いを断ることができたことが、それを如実に表している。
十五歳という若さでワーグマンと互角以上に渡り合える存在。恐ろしいまでの才能を秘めている。
確かに政治的な才能と戦いの才能に相関性はない。だが、ワーグマンほどの男と渡り合えるということは、若くして先が見える英才なのだ。私にはそのことが恐ろしく思えていたのだ。
その点についてもガネルと十分に協議していた。
ガネルはザカライアスについて油断すべきではないが、大きな障害になる可能性は低いと断じた。
「デズモンド様の情報から見る限り、ザカライアスは相当な腕の“冒険者”と思われます。しかしながら、傭兵としての経験はないようですし、対人戦はあまり経験していないように見受けられます」
私は軍事の素人であり、ガネルが何を言いたいのか、すぐには理解できなかった。
「対人戦の経験が無くとも、高位の魔術師であれば、強力な戦力となり得るのではないのか?」
ガネルは頭を振り、
「冒険者は魔物を狩ることを専門としております。彼らは狩る側であって、狩られる側ではないということです」
私にもガネルが言いたいことが少しずつ分かってきた。
「つまり、冒険者と通常の兵士では戦い方が違うということか?」
「御意。冒険者の魔術師は自らが有利になる場所で戦うことを好みます。例えば、火属性魔法の魔術師なら、延焼の恐れがある森の中で戦うことを嫌います。また、風属性魔法の魔術師も障害物の少ない草原や荒地などに魔物を引き込んで戦うのです。ザカライアスのパーティは風属性と火属性で魔物を狩ることが多いようです。つまり、深い森の中での戦闘は彼らの得意とする戦場ではないのです」
ガネルが言うには、魔術師はその属性によって戦い方が異なり、苦手な場所では戦力が大きく低下する傾向にあるそうだ。
私はなるほどと思ったが、一つの疑念が頭を過ぎった。
「ザカライアスは全属性持ちの天才。ならば、戦場を選ばぬのではないのか?」
ガネルも同じことを懸念していたようで、「確かにその通りでございます」と答える。だが、それについても既に検討していたようで、すぐに答えが返ってきた。
「確かに他の属性を使って来る可能性はあります。ですが、今回は森の中で奇襲をかけるつもりです。見通しの効かぬ森の中で乱戦に持ち込んでしまえば、如何に強力な魔術師といえども味方への誤射を恐れ、単発魔法で対応するしか方法がなくなります。つまり、強力とはいえ、弓術士と同じ程度の脅威にしかならないのです」
私はそれでも納得できなかった。
「ザカライアスは先が読める人物らしい。どうしても不安が残るのだが……」
「恐れながら、如何に先が読める天才とは言え、すべてを見通せるはずはありませぬ。若き天才が初陣で戦死することなど掃いて捨てるほど実例がございます。殺し合いの場は、一瞬の逡巡が命取りになるのです。奇襲を掛けて考える余裕など与えなければ良いのです……」
ガネルは私を安心させるためか、いつも以上に饒舌だった。
「私が集めた者たちをすべてこの作戦に投入します。特に腕の立つ剣術士をロックハートに当てるつもりです。少なくともロックハート家の三倍の人数を当てます」
「三倍で大丈夫なのか? ロドリックは僅か一個小隊で一つ目巨人を倒しているのだ。少な過ぎるのではないか?」
「奇襲を掛けることによって、敵の戦力を分散させてしまえば、局所的には五倍にも六倍にもなるでしょう。逆にこれ以上増やすと奇襲が看破される恐れがあります。ですから、これが最適な人数なのです」
ガネルは約七十名いる傭兵崩れのならず者たちのうち、接近戦が得意な三十七名をロックハート家襲撃に充てることにした。
「良かろう! すべてお前に任せる」
私はガネルを信頼し、彼にすべてを任せることにした。
私はもう一つ手を打っておいた。
それはオウレット商会をこの襲撃に巻き込むことだ。
彼らは黒幕として、我々だけにリスクを負わせようとしている。つまり、我々が失敗しても彼らには追及の手が伸びない。だから、私は保険として彼らをこの策に引きずり込むことにした。
もちろん、オウレットに今回の襲撃のことは一切伝えていない。今後の蜂起のために、武器が必要になるから、密かに武器を集めるよう命じただけだ。
最初は渋っていたが、我々が武器を集めれば、必ず辺境伯の目に留まり、計画が露見すると言ってやると、渋々ながらも協力を約束した。
私はオウレットの集めた武器を襲撃部隊で使うようガネルに命じた。ガネルも集めた傭兵崩れたちに不安を持っていたようで、それらの武器を渡した上で訓練も行ったようだ。
そして、アウレラ街道に放っていたガネルの部下から、ロックハート家が動いたという報告が上がってきた。
私はロークリフの代官、アルマン・ボイエットに使者を送り、襲撃が失敗した場合にこちらの手の者を密かに処分するよう命じた。
ボイエットはオウレットに弱みを握られ、我々の企てに加担している。オウレットはルキドゥスの血の運搬のため、アウレラ街道への出口ロークリフを抑える必要があり、ボイエットを嵌めたと聞いている。
ボイエットは小心者で信用できないが、今回は保険のようなものだと割り切っていた。
そして、七月七日、ガネルの部下、傭兵崩れのマドックが指揮を執る襲撃部隊がロックハート家を襲った。
私はウェルバーンで襲撃の成功の報告を待っていた。
しかし、翌日の夕方にもたらされた報告は、襲撃失敗とマドックらの捕縛という最悪の情報だった。
私は焦った。
襲撃が成功すると信じていたこともそうだが、もし失敗しても指揮を執るマドックが捕らえられることはないと考えていたのだ。
マドックには襲撃に成功しても失敗しても、すぐに離脱し、ある場所に向かうよう命じてあった。また、ガネルには襲撃を見届けるよう言ってあり、襲撃の成否に関わらずマドックを処分するよう命じてあったのだ。
更にボイエットにもマドックの身柄を確保し、処分するよう指示を出していた。どのような状況でもマドックはその日のうちに、この世から消えるはずだったのだ。
私は報告を聞きながら、ガネルを叱責した。
「襲撃の失敗は仕方がない。だが、なぜマドックが生きている!」
ガネルは頭を深く垂れ、
「私の見込みが甘かったようです。ザカライアスは私の予想をはるかに超える魔術師でした……」
普段、滅多に表情を変えないガネルが悔しそうな表情で搾り出すように報告を始めた。
私はその報告を聞き、私自身の情報収集の甘さが原因だと痛感した。
ドクトゥスで調べた範囲では、ザカライアスが得意とするのは風属性と火属性であり、極稀に光属性を使うという話だった。だが、その情報の中にオリジナルの魔法をいくつも開発し、通常の魔法より効果的な魔法を使うというものがあった。当然、他の属性でもいろいろ試していたのだろう。
彼は三つの属性以外の魔法を意図的に隠蔽していたようだ。恐らく、このような事態を想定していたのだろう。
そして、私はまんまとザカライアスの策に嵌ってしまったのだ。
ティリア魔術学院の最も権威のある教授が手放しで彼を賞賛しているという話は有名だ。その中には複合魔法の研究も含まれていた。当然、闇属性も極めていると考えるべきだったのだ。だが、私はザカライアスの情報操作にしてやられてしまった。
私はそのことを後悔したが、今は過去を振り返っている時ではない。
「ロックハート家がここウェルバーンに入ったところで、辺境伯とともに殲滅する。恐らく明後日にはここに来るはずだ。決行はロックハート家がウェルバーン城に入った翌日。これはコンスタンス様にはお諮りせずに行う……」
私は独断でウェルバーン城襲撃を強行することにした。
準備に掛ける時間が限られている。
幸い、ガネルはマドックらと会う時、常に髪を黒く染めて変装していたため、マドックの口から我々の関与が知られる恐れは小さい。だが、時が経てば、辺境伯は私が関与している証拠を見付けだすだろう。
私は賭けに出た。
辺境伯に対し、あえて対決姿勢を鮮明にすることにしたのだ。
対決姿勢を鮮明にすれば、ロックハートも用心のため、城の外にできるだけ出ないようにするだろう。常識的に考えれば、最も安全な場所は城の中だ。
そして、私の腹心、ハリソン・ガネルを子爵領に戻し、謀反の準備を始めたように思わせることにした。辺境伯にしてもオールダム男爵にしても、コンスタンス様と私が軍事に疎いと思っており、ガネルなしで事を起こすとは露にも考えないだろう。
その心理的な間隙を突くことにしたのだ。
そして、七月十二日、その時はやってきた。
ウェルバーン城の警備は第一騎士団の大隊が輪番制で行っている。第一騎士団は北部総督直属の騎士団であり、最も忠誠心が高く、辺境伯を裏切ることは考えられない。
私はそこに目をつけた。
城の警備を行う大隊が反旗を翻せば、逃げ場の無い城の中で一個大隊五百名――行軍の補助要員として軍属が百二十五名いるため、実戦力は三百七十五名――が辺境伯たちの命を狙うことになる。
いかにロックハート家が手練であり、ザカライアスが天才的な魔術師であっても、精鋭騎士団一個大隊を相手に勝利することは不可能だ。
更にラズウェル家の者しか知らないとされる脱出ルートも、コンスタンス様より聞き出しており、逃げ出すことは不可能なはずだ。
問題は忠誠心篤い第一騎士団の兵士たちをどのように裏切らせるかだ。
これについては、既に手が打ってある。
そう、事の発端となった“ルキドゥスの血”を使うのだ。
ルキドゥスの血は恐怖心を失くし、身体能力を一時的に向上させる効果がある。それに加え、判断力が低下し、命令に盲目的に従うという効果もあるのだ。
ルキドゥスの血を飲ませる方法だが、それは夕食時にワインの差し入れという方法だ。この場合、不寝番を行う中隊に飲ませることができないが、大隊長と他の四人の中隊長を引き込んでしまえば、それほど障害にはならないはずだ。
ルキドゥスの血を飲まない中隊が大隊長命令に従わない場合は、裏切り者として皆殺しにすればいい。
夕方、私はウェルバーン城の食堂にいた。
今日の警備担当は、第一騎士団の第四大隊であり、私は彼らにタイスバーン子爵からということで百本の赤ワインを差し入れていた。第二中隊が不寝番で不在だが、他の中隊はほぼ全員揃っている。
私は大隊長に媚を売るような振りをして、赤ワインを注ぐ。
「タイスバーン子爵閣下からの差し入れだ。当然、城の警備に支障が出てはならんが、一、二杯なら構わんだろう? もちろん、毒など入っておらんよ」
私は自分のゴブレットにワインを注ぎ、それに口を付ける。
ルキドゥスの血は極少量なら高揚感が高まる程度で、判断力には影響しない。
私が口をつけたことから、大隊長以下も安心したのか、次々と杯を空けていく。
その間にも、私はコンスタンス様がフランシスの後見となることが、帝国の為になると説いていく。
彼らは私の目的がコンスタンス様の人気取りだと誤解し、私に蔑みに似た視線を送ってきた。これで僅かにいた疑り深い騎士たちも、私の差し入れたワインを飲み始めた。
私は彼らの考えに気付かない振りをしながら、心の中で喝采を上げていた。単純な騎士たちは私の策に気付くことはなかった。これで事は成ったと。
二十分ほどですべてのワインがなくなった。
既に目が虚ろになっている者もおり、ルキドゥスの血の効果が出始めている。私の隣に座る大隊長の目にも力がなくなり、視線が定まっていない。
「諸君! 我が祖国は危機に瀕している! 北部総督、ヒューバート・ラズウェルが帝国を裏切ったのだ!」
私の言葉に騎士たちは何の反応も示さなかった。だが、それは私の予想通りの展開だった。ルキドゥスの血は著しく判断力を低下させる。このため、何をして良いのか分からない発言に対して、反応ができないのだ。
「私、“ジャーメイン・ヘンダーソン伯爵”は、皇帝陛下より北部総督を処分するよう勅命を受けている! 我が指揮下に入り、ヒューバート・ラズウェルと彼に味方するロックハート家の者どもを打ち倒すのだ!」
私は判断力の鈍った騎士たちに対して偽の名を使い、ありもしない勅命で彼らを動かすことにした。
ルキドゥスの血は上位者の命令に忠実になるという効果があるが、これは服用した者がそう思えばよいだけで、実際に上位者である必要はない。通常は実施部隊の指揮官がルキドゥスの血を服用する事は無いため、このようなことは起きない。
私の言葉に大隊長が立ち上がり、「逆賊ヒューバート・ラズウェルを討て!」と命じると、食堂にいた騎士たちは同じように「逆賊を討て!」と叫んで立ち上がる。
私は成功を確信した。そして、辺境伯を逃がさぬよう細かい指示を出した後、その場を後にした。




