第六十九話「蒸留責任者の価値」
ベルトラムの工房を後にし、ベアトリスの案内がてら村を見ていく。
たった一年だが、村の発展は目覚ましく、村の中心には二軒目の酒場兼宿屋ができていた。これもアルスからのスコッチの買い付け効果のようで、目敏い商人はドワーフたちが目の色を変えて求める酒に興味を持ち、ラスモア村を訪れるようになっているそうだ。
そのため、宿泊客が増加し、唯一の宿、黒池亭だけでは賄いきれなくなったとのことだった。
更に最近の建築ラッシュでキルナレックから人が来ていることも、それに輪を掛けている。
俺は僅かに危惧を抱いていた。
(さすがに街道沿いじゃないから、一気に都会化はしないんだろうが、いい方向に変わってくれるだけならいいんだが……スコッチ特需のバブルが起きているようだから、今の村の雰囲気が壊れるかもしれないな……)
我ながら勝手なことを考えていると思うが、それでもこの牧歌的な雰囲気が変わらないで欲しいと考えていた。
村の西側を流れるフィン川沿いにあるスコットの蒸留所が見えてきた。
ここでも蒸留所の建て増しの工事が行われており、多くの男たちが働いていた。俺が近づいて行くと、何人かは俺に気付き頭を下げてくるが、俺のことを知らないのか、怪訝な顔をしている者もいる。
元々、ラスモア村の大工は木工職人のクレイグ一家だけだったが、キルナレックの職人が応援に来ており、俺に気付かなかったのだろう。その職人だが、景気のいいラスモア村に定住しそうだと後で聞いた。
久しぶりに蒸留所に入ると、独特な甘い麦芽の香りが鼻をつき、昔はよくここに通ったものだと懐かしく感じていた。
スコットの助手をしている職人がすぐに俺に気付く。
そして、一礼した後、スコットを呼びにいくため、走り出した。
ベアトリス以外は何度も来たことがあり、特に何も感じていないようだが、ベアトリスはいつになく興奮していた。
「ここであの酒を作っているのかい。しかし、村の大きさには不釣合いな醸造所だね」
普段はどっしりと構えている彼女が、落ち着きもなくキョロキョロと辺りを見回している姿に、思わず笑いが零れる。
確かにこれだけ大掛かりな醸造所は大きな街にしかないし、更に蒸留器があるところはここだけだ。
俺はベアトリスの様子を見て、自分が初めて蒸留所を見学した時のことを思い出していた。
(何年前だろう……あの時はマッシュタン――粉砕した麦芽を糖化させるタンク――を覗き込んだり、蒸し暑いウォッシュバック――発酵用のタンクや桶――の近くで独特な臭いを嗅いだり……最後はニューポット――蒸留器で蒸留されたアルコール――が出てくるのを飽きずに眺めていたな。そういえば、案内の人が呆れていたような気がするが、今ならあの人の気持ちが判るな……)
俺がそんなことを考えていると、責任者のスコットが小走りでやってきた。
俺はスポンサーである領主の息子であるとともに、“スコッチ”の名付け親でもあるから、彼はいつも下にも置かない対応をしてくれる。
この蒸留所の一番の“買い手”は俺だからということもあるだろう。
名義上、この蒸留所で作ったものはすべてロックハート家のものだが、短期で売りに出すもの以外は、すべて俺名義で保管されている。
本当ならロックハート家の財産であり、俺名義というのはおかしいのだが、これは昔、長期熟成用に保管するという話になったとき、冗談で俺の名を取った“ザックコレクション”というシリーズとして売りたいと言ったことがある。その時、父は何も言わなかったが、ニコラスにそのことを伝え、いつの間にか帳簿上は俺名義となっていた。
それだけではなく、長期熟成用の樽には他の樽にはない“ZL”の焼印が押されている。そう、俺のイニシャルが押されているのだ。
ちなみにすべての樽にはロックハート家の紋章――立ち上がった獅子の紋章――の他に、樽詰めの年月日、原材料――麦かぶどうか、ぶどうならワインにしたものか、搾りかすかなど――、蒸留に使用した蒸留器の種類――ランタンヘッド、ストレートヘッドなど――などが記号として記されている。
これについては、今後蒸留責任者の名を入れてもいいと思っている。
本当はフレーバーについても入れたいのだが、今のところ乾燥は石炭でやっているためか、ピート香――泥炭でつけたスモーキーな香り――があまり効いていない気がする。これについては、石炭が原因ではないかもしれないが、今はまだその検証をやっていない。だが、あの独特なスモーキーな香りはきちんと再現したいと思っている。
フレーバーと言えば、使っている樽にも改善したいことがある。今はワイン樽を使っている物もあるが、ほとんどがフレッシュなオーク樽だ。そのせいか、全体に均一な感じで、個性が乏しい気がしている。
当然、バーボン樽やシェリー樽はないから、何か良い手を考えたい。
俺たちの前にやってきたスコットが、「ようこそお越しくださいました」と笑顔で迎えてくれる。
俺がベアトリスを紹介し、見学させたいというと、自ら案内役を買って出てくれた。既に彼女が俺の後見人であると知っており、うちの従士たちに話し掛けるような丁寧な口調で対応していた。
ベアトリスのための即席の見学ツアーに、俺たちもついていく。
施設の中を進んでいくと、以前は五人くらいしか働いていなかった従業員の数が、十人以上になっていた。
村の農家の次男、三男が働いているそうだが、それでも人手不足なのか、皆せわしなく動き回っている。
見学ツアーは製麦、仕込み、発酵と続き、蒸留を見ていく。
当然、自動化など一切ない手作業であり、麦の運搬、マッシュタンやウォッシュバックのかき混ぜなど、かなりの重労働だ。
だが、働いている人たちは汗を拭きながらも笑顔が絶えず、かなり楽しそうだ。特に蒸留作業では、初期のメンバーたちがいろいろな意見を出し合っている様子が見てとれた。
(自分たちの作ったものが飛ぶように売れていくというのは嬉しいのだろうな。やり甲斐としては、最高にいい職場だからな)
俺は彼らを見ながら、こういう仕事もいいと思い始めていた。
(本当に楽しそうだな。世界を見てまわるのもいいが、こういう仕事も楽しそうだな。将来、自分用の小さな蒸留器で本当のザックコレクションを作るのもいいかもしれないな……)
ベアトリスはというと、スコットの説明を聞きながら、何度も頷いていた。更に蒸留器から出てきたニューポットを試飲させてもらい、満足そうに笑っている。太い虎の尾も揺れているから、本当に楽しいのだろう。
一通り見学を終えると、既に日はかなり傾いていた。
俺たちはスコットに礼をいい、館が丘に戻っていった。
俺はニコラスのところに行き、りんご酒の話を聞いてみた。
彼は少し困ったような表情で、
「りんご酒はかなり甘いので、そのまま蒸留しても大丈夫なのか不安があったのです。それに味のほうも……今のところ、蒸留器はフル稼働ですから、無理に作らなくてもと考えたのです」
どうやら、この辺りのりんご酒は甘口タイプのシードルのようで、甘い酒という初めての試みに慎重になっていたようだ。
「甘口でも問題ないな。量が確保できるなら蒸留してもいいな」
話を聞くと、カウム王国辺りではりんごの生産量が多く、割と安価に手に入る。ただし、今のところ、アルスからのスコッチ買い付け時に届く分しかないため、大した量は確保できないということだった。
俺としてはカルヴァドスというか、アップルブランデーの再現をしたいと考えていた。
(カルヴァドスか……それほど詳しいわけじゃないが、三十五年物くらいのものはコニャックに引けを取らない。花のような香りが一気に広がる感じは独特だし……長期熟成用に何樽か蒸留しておくのもいいな……)
俺はニコラスにりんご酒の蒸留を依頼した。
俺はもう一つに気になっていたことをニコラスに聞いてみた。
蒸留所の責任者スコットのことだ。
彼はこの世界で唯一の蒸留酒の作り手だ。
そして、その蒸留酒は飛ぶように売れている。それも金に糸目はつけないドワーフが最大の顧客なのだ。
少しでも目端の利く商人なら、自社でスコッチが作れないかと考えるはずだ。
蒸留器自体も今のところベルトラムにしか作れないが、構造は簡単だし、再現することはそれほど難しくない。
つまり、現在において、スコッチを作るために必須なのはその職人、すなわち、スコット本人と言うことになる。
「スコットのことなんだが、引き抜きとか大丈夫なのか?」
俺がそう言うとニコラスは笑いながら、首を横に振った。
「何度もそういう話が来ていますよ。一番の大物はカウム王国の国王陛下でした。お館様のところにスコットを譲って欲しいという使者が訪れまして、私も同席いたしました」
俺は大国であるカウム王国の国王自らが、使者を送ったという事実に驚きを隠せなかった。確かに王都アルスでのスコッチの人気は凄いという話だ。だから、国営の蒸留所を作って安定的な収益を上げる、更には国内の主要産業にして税収を増やすというのは判らないでもない。
ただ、一介の職人に対して、国王自らが使者を送るという事実は次元の違う話だ。
俺が驚いていると、ニコラスが楽しそうにその時の様子を話してくれた。
「子爵家の当主が使者として訪れたのです。これにはお館様、先代様も驚かれまして、すぐにスコットを呼びに行かせました。その間に先方の条件を聞いて、更に驚きました」
思わず、「条件?」と呟いていた。
「はい。スコットを譲ってくれれば、カウム王国の男爵位を授けると。更にそれに見合った領地も付けると」
俺は「それで、父上は何と答えたんだ?」と搾り出すように尋ねた。
ニコラスは真面目な表情に戻し、「お館様はこうおっしゃられました」と言った後、居ずまいを正す。
「“過分な申し出なれど、あの蒸留所は我が息子が領民たちのことを想い作らせたもの。領主といえども、その想いは無碍にできぬ”とおっしゃられたのです」
俺は「父上がそんなことを……」とそれ以上言葉が出てこなかった。
「その後、スコットにも騎士への叙任と領地も与えるとの申し出があったのですが、スコットはきっぱりと断ったのです」
俺は驚く以上に呆れていた。騎士の地位を出すカウムと、それを断ったスコットに対してだ。
「……騎士の爵位を断ったのか」
ニコラスは大きく頷き、「はい、それはもうきっぱりと」と笑顔で答える。
「その時のスコットの言葉ですが、彼はこう言っていました。“私は地位も学もないただの職人でございます。しかしながら、苦労してあの酒を作り上げた時、幼かったザカライアス様が私の苦労を思い、ただの職人である私の名を酒に付けて下さいました。それをお館様もお認めになったのです。本来なら、ご家名を付けるべきところを、私のようなものの名を……私には既に過分の名誉を与えて頂いているのです。そう、後世まで名を残すと言う名誉を。そのご恩に対し、仇で返すようなことは私にはできません”そう言ったのです」
確かにスコットの名は後世まで伝わるだろう。だが、それだけなら、騎士の位を蹴る理由にはならないはずだ。
「しかし、それだけのことで騎士の位を蹴ったのか?」
俺がニコラスにそう言うと、彼は真面目な表情に戻し、
「はい。ですが、私でも同じことを言ったと思います。大恩あるロックハート家に仇なすことを嫌ったのかと。しかし、カウムの使者は更に食い下がってきました。その時のスコットの言葉はこういうものでした。“私の名はスコッチという名と共に後世に伝わるでしょう。私が騎士の地位に目が眩み、大恩あるロックハート家を裏切ったとなれば、私は破廉恥な男という話が永遠に語り継がれるのです。私はただの職人ですが、そのような屈辱には耐えられません”そう言ったのです」
スコッチという酒と共にスコットの名は語り継がれるだろう。その時、地位に目が眩んで主君を裏切ったとなれば、悪評も一緒に語り継がれる。あり得ることだが、俺は彼の言葉に居た堪れない気持ちになっていた。
確かにスコットが引抜かれないよう、あえて“スコッチ”という名を付けた。それは軽い気持ちと、打算的な考えによるものだった。
(あの時は確かにスコットの労をねぎらうために名をスコッチとしたと言った。その気持ちも確かにあった。だが、打算もあった……あの時も我ながらあざといと思ったが、本当にこんなことになるとはな……しかし、たかが酒のためにここまでの物を用意するカウム王国は侮れない。いや、ただ単にドワーフたちの圧力に屈しただけかもしれんが……)
更にニコラスから、商業都市アウレラの大商人がスコッチの製造法を買いたいと申し出たことも聞かされる。
「最初は五万C(=五千万円)と言っていたのですが、徐々に値を吊り上げてきまして、最後には百万C(=十億円)と言ってきました。お館様もさすがに驚いていましたが、それだけの価値があるのでしょう。その後も同じような申し出が絶えません」
俺はこれらの話を聞き、危惧を抱いた。
これから酒造りの規模を大きくしていくとすれば、更に市場規模は大きくなる。そうなれば、強引な手段を取る奴が出てこないとも限らない。
特に蒸留責任者のスコットの身はかなり危険だ。拉致されることも考えられる。
(さて、どうするかだ。顧客にとってはうちの村で作った物にこだわる必要はない。どこで作られようが品質が同じなら、すぐに買い手は見つかるだろう。いや、今の品薄状態を考えれば多少味が落ちても売れるはずだ……買い手か……そうか! この手がある!)
俺はニコラスの家を飛び出し、館が丘を駆け下りていった。




