プロローグ
現在連載中の「トリニータス・ムンドゥス」と同じ世界です。
プロローグが重たい感じなので、サクサク読みたい方は、読み飛ばしください。
サミュエル・ウルマンの“青春=Youth”っていう詩を知っているか?
“青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう”っていう書き出しの詩だよ。
有名な詩だし、著名人なんかが座右の銘にしていたりするから、知っているかもしれないな。
俺はこの詩が嫌いだ。
そう若いころから嫌いだったよ。
なぜかって?
俺はこの詩に書いてある“若さ=Youth”を失った人間だったからな。
正直、初めて見た時、俺のことを見て書いたんじゃないかと思ったくらいだ。
自分で自覚していることを人に指摘されるのは嫌なことだろう?
それと同じさ。詩の内容がどうこうっていうんじゃない。
“自分でも分かっているよ”って言いたくなるから、嫌いなだけだ。
これを読んでいる若い人たちは、あまり考えたことはないだろうな。
小学校の頃、自分はスポーツ選手でもパイロットでも何にでもなれるし、何でもやれると、根拠もなく、そう思っていた。
中学生になると、自分はプロスポーツ選手にはなれないと気付いた。
そして、芸能人にもなれそうにないし、みんなが羨むような華やかな人生は送れそうにないと思い始めていた。だけど、まだやれることはたくさんある、それを見付ければ楽しく生きていけると思っていた。
高校生になったら、急に現実が見えてきた。
そう、自分の学力では一流大学には入れない。政治家や企業のトップなんかの社会を動かすような人間にはなれないと、そう気付いてしまった。それでも、自分にできる何かがあるはずだ、それを探せばいいと思っていた。
だが、俺は保険を掛けてしまった。大学を選ぶときに。単に就職が楽そうだと言うだけで、好きでもない学部を選ぶという保険を。
俺が入ったのは地方の国立大学の工学部。
その頃は、夢なんか関係なかった。その日を楽しく過ごすことだけを考えていたから。
卒業の前の年、仕方なく自分の進路を考え出した。そして、ここでも保険を掛けていた。
出来るだけ潰れそうにない会社、そして、クビになっても潰しが効きそうな会社を選んでいた。もう、自分には夢を見ることができない、現実を生きるしかないと思い込んでいた。
二十五歳で何となく結婚した。子供は出来なかった。
三十五歳の時、“自分の夢のために生きる”と言って、妻は出ていった。それでも、まだ、自分は体力的にも問題なく、未来があると信じていた。
四十歳、人生も半ばを過ぎ、自分の人生の選択肢がほとんどないことに気付いた。
不惑の年と言われるが、惑うほどの選択肢がないという意味だと俺は気付いた。そして、やり直す時間など、既に無いということも。
四十五歳、体力的にも衰えを感じ始め、やり直すことすら考えなくなった。
この歳になると、自分の人生を振り返ることが多くなる。なんと面白くない人生を歩んできたんだろうと、毎日そのことばかりを考えていた。そして、“生まれ変わったら”と考えることが多くなった。
人間は何を消費して生きているか、知っているか?
人は自らの“夢=可能性”を消費して生きているんだ。
子供の頃には無限にあった“夢=可能性”。それを食い潰して生きているんだ。
人生の成功者は、消えていく可能性をうまく消化できた者のことを言うんだと、俺は思う。
そして、俺は冒険心を持たず、易きについた。ウルマンがいう”青春=若さ”を失った者、そのものだった。
そう、俺は自ら持っていたはずの“夢=可能性”を捨ててしまったんだ。
この物語は、挑戦もせず、夢を諦め、ただ生きるという目的のためだけに漫然と生きてきた男が、人生を一からやり直すという夢のお話。
俺の名前は川崎弥太郎、今年で四十五歳になる冴えない中年男。
関西の港町でプラント関係の会社に勤めている。
同期には部長もいるのに、この歳で主任止まり。まあ、出世しようという気概もなかったから、誰の責任でもないが。
名字の“川”が“岩”なら、“横三(注)”の創業者。なのに、名字が“縦三(注)”だから、中途半端な感じで、この街ではよくからかわれる。
まあ、実際に名前で損をしたことはないから、問題はないのだが。
注:“横三”とは三菱重工業(株)を、“縦三”とは川崎重工業(株)のことを指す。大昔の軍需産業での隠語。
俺はいつものように安い居酒屋で晩飯を食い、まだ十年以上ローンが残っているマンションに帰っていく。転勤が多いから、売り払っても良かったのだが、売るのが面倒というだけで何となく住んでいる“我が家”だ。
家に帰っても誰がいるわけでもなく、することもネットでエロサイトを見るか、投稿小説サイトを見るかしかない。
テレビはほとんど見ない。
ドラマなんて何年見ていないんだろう。
ドラマの世界ですら、ときめかなくなった。
違うな。
ドラマを見ると自分が惨めになるから、俺にはハッピーエンドはないと分かっているから、見なくなった。
今日も小説サイトを覗いていく。
面白い小説に当たることは少ないが、転生物の小説はほとんど目を通している気がする。
自分も転生したい、そんな出来もしないことを妄想し、灰色の現実から逃げ出せるから。
いつものように「転生」、「異世界」、「ファンタジー」で検索を掛ける。
画面には、千件近い作品があると表示される。
その中から適当に選び、クリックする。
今日は外れが多い。
十作品ほどチラ見して、缶ビールを取りに行く。
缶ビールを片手に小説を読み始める。
(ああ、これも外れか。女子高生が主人公じゃ、感情移入なんてできないな……)
そして、別の作品を探そうとした時、突然胸が苦しくなった。
視界が急速に暗くなっていく。
机に突っ伏すように倒れると、缶ビールが倒れ、腕を濡らす感じがした。
(ああ、零しちまったよ……)
緊張感も切迫感もなく、そんなことを考えていた。そして、それがこの世界から飛ぶ前に考えた最後のことだった。
俺の目には、パソコンの画面に映る「トリニータス・ムンドゥス」という小説のタイトルがぼんやりと映っていた。