序章:鬱蒼とした森の中で、リカバリーウェアと短パンは無理ゲーすぎるでしょう
※中編くらいの長さになる予定
※9月末までの完結を目指して、毎日更新予定
※次回は明日18時頃に更新予定
「……は?」
目を覚まして最初に見えたものが、自分の部屋の天井ではなかったことに気付いた瞬間、曽根崎由香は寝起きの頭では到底処理しきれない違和感に襲われた。
薄暗い空間に木漏れ日が細長く地面へ落ちている。
頭上には見覚えのないほど高く伸びた木々が枝葉を広げ、その隙間から覗く空は昨日まで毎日のように見上げていた日本の空と同じ色をしているように思えるのに、周囲に広がる景色が現実逃避をしようとしている彼女の思考を強制的に呼び戻してくる。
頬に触れているのはベッドに敷かれた柔らかなシーツではなく、湿り気を帯びた土と草で、鼻腔をくすぐるのは部屋で使っているピローミストの香りでもエアコンの乾いた空気でもなく、湿った森特有の土と樹木のどこか青臭い匂いだった。
「…………」
由香はしばらく瞬きすらできなかったが、ゆっくりと身体を起こして自分の状態を確認した。
薄手のリカバリーウェアのシャツにグレーの短パンに裸足。
完全にいつも寝るときの格好だった。
「……待って」
声が掠れる。
「ちょっと、待って……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、由香は周囲をもう一度見回した。
何度見ても見渡す限り木々と草に覆われ冷たい風が肌を撫で、遠くから獣のような鳴き声まで聞こえる気がする。
「……スマホ」
慌ててポケットを探すが、寝巻きにポケットなどあるはずもない。
因みに寝る直前にポケットなモンスターの睡眠アプリを起動して、ヘッドボードに伏せた記憶がある。
「……ない」
そこで初めて背筋に嫌な汗が流れ、本当の意味で恐ろしくなった。
昨夜は仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませて趣味で追いかけている作品の情報を眺めながらSNSを確認して、風呂に入って、それからベッドに入って眠ったはずだ。
明日の仕事朝一番の打ち合わせがあることも覚えているし、そのために昨日のうちに必要な資料の最終確認もしておいたことも記憶に新しい。
今週末にはコラボカフェに行く予定だってあった。
それなのに――
「……ここ、どこ?」
思わず由香は自分の頬をつねった。
「痛っ……」
もう一度、今度は反対側をつねる。
「……痛い」
やっぱり痛い。
駄目もとで目を閉じて、深呼吸をしてもう一度開けてみるが目の前にひろがる森は消えなかった。
「なんで……夢じゃない…?」
震える声で呟いた瞬間、身体の内側が急激に冷えていく。
頭の中に、一つの言葉が思い浮かんだ。
――異世界転移
「…………いやいや」
自分で考えておきながら、由香は首を横に振った。
――そんな馬鹿な。
異世界に転移するなんて、フィクションである物語の中の話だ。
確かに趣味の一つとしてそういう作品を読むことはあったし、もし自分が異世界へ行ったらどうするかなんてことを考えたことだってある。
その時は、仕事だってこなせるようになった35歳にもなる大人なのだから、きっと冷静に対応できるものだと考えていた。
まずは状況を確認し、生存を優先して安全な場所を探して、助けを求めて必要なら交渉だってするようなスマートな行動ができると思っていたのだ。
だって突然のトラブルや予想外の変更には慣れていたし、打ち合わせの準備から資料作成、当日の進行まで一通り任されることも多く、人前で話すことも苦ではなかったし、問題が起きたらまず整理をして優先順位をつけて一つずつ対処するタイプだったからだ。
もし本当に異世界へ行くようなことがあったとしても、意外と何とかなるのではないかと楽観的な妄想をしていた。
「……訂正しよう」
由香は震える声で呟いた。
「全力で訂正したい……」
怖い。
普通に怖い。
年齢なんて関係ない。
三十路だろうが四十路だろうが、知らない森に一人で放り出されれば怖いものは怖い。
「無理……」
涙が滲んだ。
「これは無理ゲーでしょう……」
落ち着かなければならないと理屈では分かっているけれど、心と身体が言うことを聞かない。
「どうしよう……」
胸が苦しい。
「怖い……」
声が震える。
「帰りたいよ……」
どうすることもできず、寒さだけではない震えが抑えられない身体を抱きしめて、その場にしゃがみ込んでいると森の奥で何かが動いた。
――ガサッ。
「……っ」
由香の身体が強張った。
――ガサ、ガサッ。
人間なのか動物なのかもわからないが、確実に音が近づいてきているように感じる。
「まさか……魔物?」
その言葉を口にした瞬間、恐怖が一気に膨れ上がり、足が震え呼吸が浅くなる。
「来ないで……」
近づいてくる音は止まらない。
「お願いだから……来ないで」
由香は一歩、また一歩と後ろへ下がった。
そして、次の瞬間。
「……っ!」
裸足であることも、半袖短パン姿で森を走るなど危険極まりないことも忘れて反射的に走り出した。
木の根に足を取られ、枝で腕を傷つけても、痛みを認識する余裕すらない。
「嫌……!」
恐怖から溢れ出る涙が頬を伝う。
「誰か……!」
助けを求めたいけれど、誰に向かって叫べばいいのかすら分からない。
「誰か、助けて……!」
無情にもその声は木々の騒めきに吸い込まれ、由香は知らないうちに森の奥へ、危険区域へと近付いてしまっていた。




