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冷えた鍋と血の獣

 スラムの夜気は、いつも通り錆と泥の匂いがした。

 煤煙に霞む月明かりの下、崩れかけた煉瓦造りの壁に沿って歩いていたページの足が、見慣れたアジトの前に来た瞬間、ぴたりと止まった。


 静かすぎる。

 いつもなら、重い鉄扉の向こうからフリントのやかましい足音や、コグがいじっている機械の不快な摩擦音、あるいはベルが鍋をかき混ぜる微かな音が漏れ聞こえてくるはずだった。

 だが、今は何もない。


 それどころか、厳重に施錠してあるはずの分厚い鉄扉が、不自然に半開きになっていた。

 開いた隙間から、ひどく冷たい空気が外へと這い出してくる。


「……ッ」


 ページは無言のまま、片手でコートの裏へ滑り込ませた。工具差しにある真鍮シリンダーの冷たい感触に指を這わせる。

 ブーツの足音を完全に殺し、隙間に手をかけて、音もなく扉を押し開けた。


 ギィ……。


 微かな摩擦音が、息の詰まるような暗い空間に吸い込まれていく。

 部屋の中は、無残に荒らされていた。


 真っ先に視界に飛び込んできたのは、コグが目を輝かせていじっていたガラクタの山だ。原形をとどめないほど完全に踏み砕かれ、床に散乱している。

 その横には、ベルがいつも大事に手入れしていたスープの鍋がひっくり返っていた。具材の残骸が散らばり、冷え切った汁が床の煤と混ざって、どす黒い染みを広げている。

 部屋の隅に置かれていたフリントの指定席――古びたソファは、強靭な爪のようなもので無惨に引き裂かれ、黄ばんだ綿が内臓のように飛び出していた。


 静寂。

 肺が凍りつくような静けさ。あの騒がしかった「スラムの家族」の姿は、どこにもない。


 胸の奥で、冷たい泥水が激しく渦を巻き始めた。

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。


(殺されたか……? いや、死体はない。連れ去られた? )


 「あぁ、クソっ……!」


 歯を食いしばる。

 無意識のうちに、懐に忍ばせた銅貨を握り込もうとした。

 だが、指先が微かに震え、ざらついた金属の縁をうまく捉えられそうになかった。


 その時。


 不意に、背後で微かな衣擦れの音がした。


 ページがハッとして肩越しに振り返ると、泥だらけのアワユキが静かに立っていた。

 彼女は部屋の惨状を前にしても声を上げず、ただピンと立った獣の耳を微かに動かしていた。


 青銀の瞳が、暗い部屋の中をゆっくりと巡る。

 やがてその視線は、ひっくり返った鍋と、ベルがいつも立っていた洗い桶の周辺でぴたりと止まった。

 アワユキは小さく鼻先をひくつかせ、空気に残る微かな痕跡を掬い取ろうとする。


 数秒の沈黙。

 彼女は何かを言おうとして口を開き、また閉じた。


「……血の匂いは、しない」


 ようやく紡ぎ出された声は、掠れていて、小さかった。

 ページは目を瞬かせる。

 アワユキは視線を床に落としたまま、ぽつりと付け加えた。


「ベルの匂いもない」


 彼女は顔を上げず、再び耳を小さく動かした。


「……遠くに、逃げている」


 飾り気のない、事実だけの短い報告。

 だが、その言葉が持つ確かな熱が、冷たい泥の底に沈みかけていたページの意識を、強引に水面へと引きずり上げた。


「……はぁっ」


 ページは肺に溜まっていた濁った空気を一気に吐き出し、乱れた呼吸を無理やり整えた。

 

 そうだ。

 あいつらが、ただ怯えて殺されるのを待つわけがない。

 スラムで生き残るための知恵と逃げ足は、嫌というほど叩き込んできたはずだ。


 理性を引き戻されたページは、視界の焦点を鋭く結び直した。

 探すのは一つ。


 ベルに教えておいた、緊急時の『避難サイン』だ。


 素早く部屋の隅々へ視線を走らせる。

 ひっくり返った木箱の裏。

 剥がれかけた床板。

 そして、煤けた煉瓦の壁の下部、大人の目線からは死角になる位置に――チョークで引かれた、かすれた小さな二重線を見つけた。


 東の旧市街へ抜けた。

 そういう意味を持つ、間違いのない暗号だった。


「……生きてる」


 無事だ。


 まずはそれでいい。


 ページはゆっくりと立ち上がり、改めて荒れ果てた部屋を見渡した。


「……契約終了、ってわけか」


 ページは誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に小さく呟いた。


 すぐさま合流地点への道順を頭に描き、この場を離れようと踵を返しかけた、その瞬間。


 ――ガシャァァァァンッ!!


 凄まじい破砕音が夜の静寂を切り裂いた。

 アジトの窓ガラスが木枠ごと吹き飛び、粉々になった破片が散弾のように降り注ぐ。


「なっ――」


 アワユキが咄嗟に身を屈める。

 暗闇を縫って突入してきたのは、赤い血と黒い泥だけで構成された異形の塊――研究所の追手が放った『血の獣』だった。

 剥き出しの巨大な牙の隙間から、鉄と水銀の悍ましい匂いが部屋に充満する。


 ズンッ、と重い音を立てて床に着地した血の獣は、低く、腹の底を震わせるような唸り声を上げた。


 ページがシリンダーを引き抜くより早く、獣は妙な動きを見せた。

 すぐに飛びかかってくるのではなく、その醜悪な鼻先を床の煤に擦り付けるようにして、執拗に匂いを嗅ぎ回り始めたのだ。


 ズズッ……ズズズッ……。


 獣の顔が、チョークの二重線が引かれた壁の方へ向く。

 そして、その鼻先が東の旧市街へと続く微かな残り香――子供たちが逃げたルートを捉え、ピクリと反応した。


(まずい……!)


 ページの背筋に、氷のような悪寒が走った。

 このままでは、あいつらの逃走ルートを完璧に辿られる。スラムの泥濘など、この異常な嗅覚の前では何の障害にもならない。追いつかれるのは時間の問題だ。


 即座の判断。

 計算の歯車が、最悪の盤面を打開するために火花を散らして回転する。


 ページはコートの裏に手を突っ込み、工具差しから一番大ぶりの煙玉を鷲掴みにした。


「こっちだ、クソ犬!!」


 あえて喉が裂けんばかりの声を上げ、ページは煙玉を獣の目の前の床へ、力任せに叩きつけた。


 ――パンッ!!


 鼓膜を揺らす乾いた轟音。

 直後、むせ返るような火薬の匂いと共に、白灰色の煙が爆発的に膨張した。

 狭いアジトは一瞬にして視界ゼロの濃霧に包まれる。


「ガァァァァッ!!」


 突如として視界を奪われ、鼻腔を火薬の刺激臭で焼かれた獣が、苛立ちに満ちた咆哮を上げた。

 その殺意の矛先は、見事に子供たちのルートから逸れ、ページたちの方へ完全に固定された。

 

「俺たちも逃げるぞ!」


 ページは煙の向こうで身を固くしているアワユキの細い腕を乱暴に掴み、裏口の車庫へと強引に引き寄せる。

 暗がりで身を潜めていた煤けたスクーターのシートに彼女を押し込み、キーを回した。


 ブルゥンッ!


 エンジンが低く、獣の咆哮に負けじと唸り声を上げる。

 帰る場所は、もうない。

 あるのは、守るべきものと、振り切らなければならない追手だけだ。


 ページは生存への希望と、静かで激しい怒りを胸に、スロットルを力強く捻った。

 スクーターが凄まじい駆動音を響かせて泥水を跳ね上げる。

 後戻りできない第二幕の逃避行へ向けて、二人は深く冷たい夜の闇へと飛び出していった。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。

評価・ブックマーク・感想などいただけると、かなりモチベになります。

今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。

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