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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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初夏の湿気を帯びた生温かい風が、開け放たれた講義室の窓から吹き込み、机の上のプリントをかさりと揺らす。

四限目の空きコマ。本来なら静かに自習やレポートに勤しむべき時間だが、今日の講義室は異様な熱を帯びていた。原因は、先ほどから女子たちの間で携帯の画面越しに飛び交っている、ある一つの「噂」だ。


「ねえ、聞いた? 文系キャンパスの法学部に、とんでもない美形の一年がいるらしいよ」

「聞いた聞いた! なんか『動く現代アート』とか『リアル王子』とか呼ばれてるんでしょ?」

「モデルか俳優の卵じゃないかって、他学部でも大騒ぎになってるらしくて……」


少し離れた席から聞こえてくる浮ついた声に、結菜は手元の解剖学の教科書から目を逸らさず、ただ静かに息を吐いた。

動く現代アート。リアル王子。また大げさな、と呆れる反面、その形容が誰を指しているのか、結菜の脳内には確信に近い嫌な予感が渦巻いていた。


「ちょっと結菜! 今の話聞こえた!?」

隣の席でマニキュアの剥げを気にしていた、ゆるふわの明るい茶髪に流行りのメイクをしたサヤカが、弾かれたように身を乗り出してきた。それに呼応するように、向かいの席のハーフアップで清楚系のミオも目を輝かせている。

「こーんな女子ばっかりで寂しい看護学部では良い出会いなんて見つからないよね! さ、さ、私たちもあの会話に混ざろうよ〜!」

サヤカとミオは盛り上がり、結菜へ同意を求める。 

「そ、そうだね........」


「なになに? 法学部の美形って誰!? うちらもその話、混ぜてよ!」


サヤカとミオが、噂の中心にいる女子たちの輪へズカズカと身を乗り出していく。結菜は「私はいいから」と制止する間もなく、その勢いに押されてサヤカに腕をがっちりとホールドされ、ズルズルと歓談の輪の中へ引きずり込まれてしまった。


「えっと、名前は確か……桐生、桐生 湊くんって言うらしいよ。写真回ってきたんだけど、見る?」

「桐生って……あの、テレビ局のスポンサーに必ず名前がある桐生グループ!? 嘘でしょ、なんでそんな超絶御曹司が普通の大学に……!」


噂の発端である同じ学科の女子が、得意げにスマートフォンの画面を差し出す。

そこに映っていたのは、遠目から盗み撮りされたであろう、粗い画質の写真だった。にもかかわらず、分厚い法学書を無造作に抱え、上質な仕立ての白シャツを気怠げに着こなすその姿は、画質の粗さを凌駕するほどの圧倒的な存在感を放っていた。長い睫毛の落ちる涼しげな目元。無防備なようでいて、誰も寄せ付けないような冷たい壁を感じさせる横顔。


「うわっ……何これ、本当に同じ新入生? 色気やばくない!? ほんとに芸能人じゃん.......!」

「でしょ!? なのに全然チャラくなくて、すっごい愛想がいいらしいの! そのギャップがたまらないって、文系キャンパスの女子が毎日出待ちしてるんだって」


きゃあきゃあと悲鳴に似た歓声を上げるサヤカたちの横で、結菜の背筋をサァッと冷たい汗が伝い落ちた。

間違いない。画質がどれほど粗かろうと、この肩幅の広さと、人を小馬鹿にしたような伏し目の角度は、毎朝「シャツが出てる」「野菜を食べなさい」と小言を言い続けている、あの世話の焼ける幼馴染以外の何者でもない。


(……なんで、よりによってこんな離れた医薬キャンパスにまで噂が回ってくるのよ!)


結菜は、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込んだ。

それに引き換え私は、実習のために短く切り揃えた爪に、癖っ毛を適当にまとめただけの地味な見た目だ。


高校時代、あの無駄に整った顔のせいで、彼の親衛隊から何度理不尽な嫉妬を向けられ、面倒な厄介事に巻き込まれたことか。  だからこそ、大学では絶対に彼とは赤の他人だという平和な防衛線を張り、安全な看護学科のコミュニティで堅実に生きると誓ったのだ。


「いいなぁー、文系キャンパス! うちらの学科、男子なんて数えるほどしかいないし、目の保養が足りないよー」

「ねえ、だったら今日の昼休み、文系キャンパスの合同学食まで見に行ってみない?」

「行く行く! 絶対行く!」


ミオの思いつきの提案に、サヤカが諸手を挙げて賛同する。その熱狂の矛先が、ついに硬直している結菜へと向けられた。


「結菜も行くよね!?」

「えっ? い、いや、私は……午後から実習の事前指導があるし、図書館で資料の整理を……」

「またそんな真面目なこと言って! 息抜きも必要だってば。それに結菜、最近ずっとお弁当だし、たまにはあっちの学食でご飯食べたいでしょ?」


サヤカに腕をぐいぐいと引かれ、結菜の頭の中で警鐘が鳴り響く。

お弁当なのは、節約のためと、隣の部屋に住むあのだらしない幼馴染の分のついでに作っているからだとは口が裂けても言えない。しかも、よりによって彼が跋扈する文系キャンパスのテリトリーに自ら足を踏み入れるなど、飛んで火に入る夏の虫だ。


「本当に、私はいいから……」

「だーめ! うちら三人、いっつも一緒に行動してるじゃん。結菜だけ置いてくなんて薄情なことできないって」

「そうそう、強制連行ね!」


善意100%で繰り出される友人たちの言葉に、結菜のささやかな抵抗は虚しくかき消された。

白衣の柔軟剤の匂いと、アルコール消毒の匂いが微かに混じる医薬キャンパスの空気が、急に息苦しく感じられる。


(……見つかりませんように。絶対に見つかりませんように……!)


祈るような思いで、結菜はサヤカたちに腕を引かれたまま、重い足取りで理工学キャンパスへと向かう羽目になったのだった。



* * *



セレブが多く通うこの私立大学のキャンパスは、大きく二つのエリアに分かれている。一般入試組や奨学生が多く通う実学重視の医薬キャンパス、そして、湊のように富裕層の子息が集まる経済・法学・文学部などを擁するエリートの牙城、文系キャンパスだ。


この大学のキャンパスは大きく3つに分かれている。私たちが通う医薬キャンパス、理学、工学、理工学キャンパス、そして湊がいる経済、法学、文学部などがある文系キャンパスだ。


 医薬キャンパスから理工学キャンパスまでは、徒歩十分ほど。都会でもなく田舎でもない、地方都市特有の穏やかな住宅街と学生アパートが点在する中を、車道を挟んだ並木道に沿ってただ真っ直ぐ下っていくだけの道のりである。

 遠いというほどではないが、万年運動不足の大学生にとって、初夏の陽射しの中を十分間も歩くのは「ちょっとした遠征」に等しかった。


「ほんっと、信じらんない……」

 額に滲む汗を手の甲で拭いながら、結菜は隣をずんずんと歩くサヤカとミオの横顔を呆れたように盗み見た。普段は「次の講義棟まで歩くのダルい」と文句を言うくせに、今日の二人は別人のような健脚っぷりを発揮している。イケメンの噂ひとつでここまで動けるなんて、すさまじい行動力だ。


呆れ半分で歩を進めながらも、結菜の胸の内は別の焦りで満ちていた。

(もし本当に見つけてしまったら、どうやり過ごせばいい?)

 向こうから話しかけてくるだろうか。いや、あいつのことだから案外ケロッとしているかもしれない。でも、もし万が一「幼馴染」だと周囲にバレたら、絶対に面倒なことになる。

 ドギマギと頭の中で最悪のシミュレーションを繰り返す結菜の心臓は、文系キャンパスのモダンなゲートが見えてくるにつれ、嫌なリズムを刻み始めていた。


空調が効いているはずの文系キャンパスの巨大な学食は、数百人の学生が発する熱気と、安価な揚げ油の匂いが混ざり合い、ひどく息苦しかった。

「うわ、めっちゃ混んでる! 文系キャンパスってこんなに人いるの!?」

「でも、せっかく十分も歩いて遠征してきたんだから、あの『リアル王子』を見つけるまでは絶対帰れないよ!」

 カチャカチャと無機質な食器の音が反響する中、結菜は目をギラギラさせたサヤカとミオに両腕をホールドされたまま、トレイを片手に人波を縫って歩かされていた。


「ちょっと結菜もボーッとしてないで、もっと積極的に探してよ〜」

「ええ……探すって言っても、こんな人混みじゃ……」

「あ! そうだ、人集りを探せばいいんじゃない? だって女子に囲まれてるんでしょ?」

 ミオの具体的な提案に、サヤカが「それだ!」と指を鳴らす。結菜は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込んだ。


「あ、ねえ! あそこの窓際! 女子が固まってる!」

 サヤカの弾んだ声に、結菜の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

 視線の先、初夏の眩しい陽光を背にして座るそのテーブルだけが、周囲の喧騒から切り離されたように静謐だった。

 重厚な法学の専門書を足元に置き、無地の白シャツの袖を無造作に捲り上げた桐生湊がそこにいた。


彼を取り囲むように、周囲のテーブルには不自然なほど女子学生が密集していた。手元のパスタをフォークでつつきながらチラチラと露骨に視線を送る者。不自然に声のトーンを上げて笑い、前髪を弄る者。


 その中心で、湊の向かいに陣取ったいかにも洗練された他学部の先輩らしき女性が、艶やかなネイルの指先を身振り手振りに交えながら、熱っぽく彼に話しかけている。先輩から漂ってくるむせ返るような甘い香水の匂いが、学食のご飯の匂いと混ざって結菜の鼻をついた。


 だが、その熱狂の渦の中心にいるはずの彼自身は、まるで分厚い防弾ガラスの向こう側に隔離されているように静謐だった。取り巻きの女子たちは皆、熱狂的な視線を彼に送るものの、誰一人としてその真っ白なシャツの袖に気安く触れることはできていない。見えない境界線が、そこには明確に存在していた。


高校時代から死ぬほど見慣れた「リアル王子」の営業スマイル。

けれど結菜には、そのガラス玉のように色素の薄い瞳の奥に、誰にも心を開いていないひどく冷たくて空虚な孤独が沈んでいるのが分かってしまった。


(あんな風に完璧に笑ってるけど……本当は、家のしがらみにがんじがらめにされてるくせに)


あいつは幼い頃から、親の飾り物として政治家や企業のトップが集まるパーティーに引きずり回されてきた。大企業の跡取りという重圧に晒され、息を潜めるようにあの安いアパートへ逃げ込んできた彼。


あの完璧で冷たい笑顔は、腹の底でドロドロの権力闘争をしている大人たちをやり過ごすために身につけた、ただの美しい仮面なのだ。 それでも決して向こう側の世界の気配を完全に消しきれない完璧な彼と、ただの世話焼きな幼馴染でしかない自分。


住む世界が、根本から違うのだ。あんな完璧で遠い存在の彼に、ただの幼馴染の私なんかが想いを寄せるのもおこがましい。自分の足元へ視線を落とすと目に入る、安売りしてたからという理由だけで買ったシンプルなスニーカー。

胸の奥がヒヤリと軋むのを覚え、結菜は持っていたプラスチックのトレイの縁を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。


結菜はサヤカたちに腕を引かれるまま、足早にその場を通り過ぎようとした。

 その時だった。


不意に、先輩の言葉に頷いていた湊の顔がゆっくりと上がり、人波の隙間から結菜と真正面で視線がぶつかった。

 ガラス玉のように色素の薄い、ひんやりとした瞳。

 周囲の熱気とは無縁のその絶対零度の視線に射抜かれ、結菜は無意識に息を止めた。指先がトレイの縁を白くなるほど握りしめる。

(バレた......? いや、大丈夫か? 今目が合ったよね.......?)


次の秒。

 湊は微かに長い睫毛を伏せ、まるでそこには誰もいないかのように、ただの背景でも見る目つきで結菜を透過した。そして、向かいの女子学生へ再び向き直り、非の打ち所のない微笑みを向けたのだ。


「うわ……こっち見なかった? やばい、超かっこいいんだけど!」

「あの涼しい目! リアル王子ってマジだった……!」

 はしゃぐミオたちの声を聞き流しながら、結菜は肺に溜まっていた空気をふーッと吐き出した。


よかった。完全に他人のフリをしてくれた。これで私の平和な学生生活は守られる。

そう頭では安堵しているのに、なぜか胸の奥の柔らかな部分を、冷たい針で何度も刺されているような鈍い痛みが走った。





駅前のスーパーで特売のひき肉と玉ねぎを買い込み、鉄製の外階段を上って自室のドアの前に立つ。

 鞄から鍵を取り出そうとして、結菜は手を止めた。

 ドアの隙間から、薄く明かりが漏れている。


(……また勝手に入り込んでるし)


鍵穴にキーを差し込むと、施錠されていない手応えがあった。金属音を立ててドアを開けると、生温かい初夏の夜風と一緒に、ガンガンに冷えた人工的な空調の冷気が結菜の頬を撫でた。

 狭い三和土には、結菜の安物のスニーカーの横に、不釣り合いに上質な革靴が無造作に脱ぎ捨てられている。


「ただいま。あんた、また私の部屋のクーラー勝手に下げたでしょ」


フローリングの廊下を抜け、スーパーのビニール袋をガサガサと鳴らしながら居間へ入る。

 結菜のシングルベッドの上には、昼間の学食であれほど女子たちを熱狂させていた「リアル王子」が、シワの寄った白シャツ姿でうつ伏せに倒れ込んでいた。


「……遅い」


枕に顔を埋めたまま、くぐもった声が響く。

 結菜は冷蔵庫を開け、買ってきたパック肉を乱暴に押し込んだ。


「隣の自分の部屋に帰りなさいよ。汗かいた服で私のベッドに乗らないでっていつも言ってるでしょ」

「今日、ちゃんと他人のフリしてやった」

「人の話聞いてる? 大体、なんで他人の部屋のベッドで……」

「腹減った。今日の飯、ハンバーグにして」


抗議を完全に無視して放たれた言葉は、学食で見せたあの完璧な好青年のものとは程遠い、酷く掠れて気怠い響きだった。

 結菜がため息をつきながら振り返ると、湊がのそりと身を起こすところだった。

 ネクタイは外され、第一ボタンが開いている。外で見せるあの分厚いガラスのような装甲は見る影もなく、その無防備な顔には、大企業の跡取りとしての重圧から逃げ出してきたような色濃い疲労が滲んでいた。


「はぁ!? 今からひき肉こねろって言うの!? コンソメスープ作って適当に済ませようと思ってたのに」

「判例読むのに追われて、俺、丸二日まともな飯食ってない。ピーマンは入れないで」

「だからってなんで私が……ああっ、もう! わかったわよ!」


文句を言いながら、結菜は再び冷蔵庫から玉ねぎを取り出し、まな板の上に乱暴に置いた。

 トントン、と包丁がリズミカルな音を立て始める。

 換気扇の低いモーター音と、玉ねぎのツンとした匂いが四畳半の部屋に広がっていく。


ふと、背後に濃い影が落ちた。

 振り返るより早く、結菜の肩越しにスッと長い腕が伸びてくる。結菜が調理台の端に置いていた飲みかけのペットボトルの水を、湊が当然のように奪い取り、喉を鳴らして中身を飲み干した。

 すぐ背後に立つ彼から、微かに古い紙の匂いと、ブラックコーヒーの苦い香りが漂う。


「ちょっと湊。それ私のなんだけど」


結菜の抗議に、湊は空になったペットボトルをシンクにコトンと置き、結菜のパーソナルスペースから一歩も引かないまま、じっと彼女を見下ろした。


「……じゃあ、その対価、ちゃんと払ってよ。平和なキャンパスライフ、守ってやったんだから」


ひんやりとしたガラス玉のような瞳が、結菜を至近距離で捉える。

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。結菜は誤魔化すように視線を逸らし、「はいはい、焦げるから向こう行ってて」と彼の広い胸板を肘で小突いた。

 湊はつまらなそうに鼻を鳴らすと、再びベッドへと戻り、今度は完全にスイッチの切れたように寝息を立て始めた。


玉ねぎを刻む手を止め、結菜は彼の寝顔をそっと盗み見た。

 あんなに完璧で、手の届かない存在。誰も気安く触れることのできない彼が、今、結菜の匂いが染み付いたベッドで無防備に眠っている。


(こんな顔……私しか、知らないくせに)


今はこうして、手が届く場所にいる。私の作った安上がりなご飯をねだり、私の部屋で眠る。

 けれど、この奇跡のように穏やかな日常が、いつか崩れ去る砂上の楼閣であることを、結菜は痛いほど分かっていた。


(……こいつはいつか、『あっちの世界』に帰っていくんだ)


大企業の跡取りとして、いずれ彼に相応しい世界へ戻り、自分とは違う華やかで完璧な女性を隣に立たせる日が必ず来る。その時、ただの「世話焼きの幼馴染」は、彼の手を離して静かにフェードアウトするしかない。


届かないと分かっているからこそ、これ以上踏み込めないのだと知っているからこそ、この不格好でちょっと歪な関係だけは、這いつくばってでも手放したくなかった。


結菜はギュッと奥歯を噛み締めると、どうしようもなく惨めなその恋心を微塵切りにするように、再びまな板に向かって勢いよく包丁を振り下ろした。

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