17 さらば、我が友よ
「……わかりました」
露景の意図を察したのか、深く訊ねることはない。那子はたぬ子を露景の腕に預けると、自分の右腕の肌を隠すさらしの結び目を引いた。
いっそ豪快にすら映る思い切りのよさで解かれた白い布が、はらりと舞って地面に落ちる。
かつて父龍が、幼い那子の流血を止めるために傷口を覆った痕跡が、赤黒い色の痣の姿で露わになった。
「神使よ」
露景は山犬を振り返る。
「この通り、彼女は龍の眷属だ。知らなかったとは言わせない。巫女の略奪は、我らの友好的な関係に亀裂をもたらすのみだ。今ならばまだ、和解の余地はある」
露景の挑発じみた言葉を受け、まるで沈思するような間を空けてから、先ほどと同様に山が光る。山肌だけではなく木々や岩、おそらく川面まで。この山に所有されている全てのものが一様に発光している。山神の成せる業だろう。
軽く波打つような明滅が収まると、山神が発した光に込められた意思を読み取った神使は低く言った。
「……山神様は、巫女を奪おうとする龍に報復をとおっしゃっている」
「話が逆だ。龍の獲物を横取りしたのは君たちの方だ」
「いいや、そもそもこの女は山神に仕える血筋の末裔。そのような者に一方的に所有の印をつけた龍こそが無礼である」
「何?」
話が読めず、思わず低い声が出る。
びくり、と那子の肩が揺れた。見れば、頬が凍りついたようになり、見開かれた目は神使にじっと向けられている。
「知らぬか、穴守」
神使が、意地悪く笑うように牙を見せた。
「山神様の先の巫女はその女の母親だ。先の巫女は神に身を捧げた時にはすでに、身ごもっていた。腹が目立ち始めると、巫女は逃げ、娘を産んだ。我ら神使は神をも恐れぬ巫女を追ったが、そこの龍のせいで娘を仕留め損ねたのだ」
(那子さんが、先の巫女の……)
山神が求めたからには、那子は巫女の血筋なのだと想定していた。しかしその血というものが、二十数年前に神聖なる役目から逃げ出して、山神を弱めるきっかけとなった女に繋がるのだとは想定外だった。……いいや、違う。露景は、考えたくなかっただけなのだ。散りばめられた違和感や情報をつなぎ合わせれば、もっと早く真相にたどりつくことができたはず。
「ごめんなさい、旦那様。夏子さんや山の皆さんが苦しむことになったのは、全部私のせい。だから私は、償いたくて、山神様の元へ」
「那子さんのせいではない」
そしてきっと、彼女の母親のせいでもない。
山神の巫女は、その年の神占により任じられるもの。先の巫女も、まさか自分が選ばれるとは思わなかったのだろうし、もしかしすると身ごもっていることにすら気づいていなかったのかもしれない。
「でも」
「神使よ。引き渡しを拒むのならばなぜ、その娘を我らの前に連れてきた」
言い募ろうとした那子を遮るように、冷めた声が割り込んだ。父龍である。
確かに父の言う通り。那子を帰すつもりがないのならば、露景たちと再会させる必要はない。
「その巫女が、穴守を恋しがり、役目を十分に果たそうとせぬからだ」
神使は冷淡な口調で言う。
「神に仕える者が俗世の情に執着するなど、言語道断である。巫女の本質は本来、清らかなもの。自ら堕落するはずなどない。おおかたこの巫女は、穴守に籠絡されたのだろう。ならば穴守は、巫女の精神的清純を奪った不届き者だ。その罪は一族……父や兄が引責すべき。山神様は金輪際、無礼な龍に関わることなど望まない」
龍はぴくりと頬を痙攣させた。やがて、声を絞り出す。
「地底で眠る我が息子に、ゆりかごを出て行けと、そういうことか」
山が再度光ることはない。ただ、山犬姿の神使と青年姿の龍は、じっと睨み合う。
やがて父龍は、喉を塞いでいた大きな塊が溶解したかのように、詰めていた息を大きく吐き出した。
「もうよい。腹芸も茶番も終わりにしよう……神使よ、この山の神はもう長くはないのだろう?」
父の突然の発言の際どさに、露景は軽く息を呑む。だが、神使は不快を表すでもなく、黄金色の瞳を暗く煌めかせるだけだ。龍は続ける。
「巫女は神を補佐するとはいえ、所詮人間だ。神力どころか妖力すらもたない人間の力を借りねば二十年と保たぬ山神に、我が子を任せるわけにはいかぬ」
それはつまり。
再び、淡い色合いの、しかし強烈な光が生み出され、木々の影を浮かび上がらせる。ほんの数秒の発光の後、神使は神妙な面持ちで、神の意を代弁した。
「去るというならば願ったり、と山神様が仰せである」
「無駄な矜持の塊め」
父龍は鼻を鳴らし、露景を一瞥してから祭壇の奥へと足を進めた。帆立貝の簾に隠された穴の一つに近づくと、何の感動もない平坦な抑揚で呼ぶ。
「息子よ。引っ越しだ」
しばらくの後、細い悲鳴のような音を立てながら穴から風が噴き出して、地面が細かく鳴動する。父龍が片手を土壁に添えると、それらはぴたりと止んだ。
「騒がしいのは好かん」
露景の祈りには反抗的な異母兄だが、淡泊な父の声には従順さを見せた。それは、親の言葉だからというよりも、龍の持つ、神気にも近しいほど強大な妖力を感じ取ってのことだろう。
やがて、再度地鳴りがして、穴の周囲の硬い土がぼこりと膨らんだ。そして。
「わあっ!」
露景の腕の中でたぬ子の身体が跳ねた。露景の方も、声こそ呑み込んだものの、目の前に突然現れたものに驚きを隠せない。見れば、那子も零れんばかりに目を丸くしていた。
一方、父龍と神使は落ち着いたものである。
「久しいな、息子よ」
土塊と共に穴から這い出してきた、腕の長さほどある法螺貝の細い部分をむんずと掴み、龍は神使に向き直る。実の息子に対して無造作過ぎる鷲掴み。しかし異母兄は、ぴくりとも抵抗しない。
「神使よ。お望み通り、我らは山を出る。これで満足だろう」
「山神様は別に、矮小な法螺貝の動向など、気に留めない」
「神などというものは哀れだな。このような小細工をせねば死に際の身辺整理もままならぬとは」
「身辺整理……」
那子がぽつりと呟いた。
つまり山神は、己の消滅の時が近いと知って、山中に宿る法螺貝をどのように処理すべきか悩んだのだろう。だから一計を案じ、山神にも龍にも関係のある那子を巫女に迎え、彼女を龍に奪い返させることで、法螺貝を預かる役目を返上しようとした。
半妖のようなちっぽけな存在から見れば、あまりに幼稚な見栄である。そんな理由で大騒動が引き起こされたことを知り、呆れて言葉も出ない。
そうこうしている間に、再度山が光る。
神使は、光に乗せられた神の言葉を受け取ろうと、顎を上げ耳を立てる。光が収まった後、神使は口を開こうとしたのだが、片手を上げた龍に制止された。
「いいや、いい。私も龍の端くれだ。死にかけの山神の言葉くらい自分で聞ける。……ああ、そうか。僅かな余生をせいぜい楽しめ。さらばだ、旧友よ」
冷えた眼差しの奥にある湖に、情の籠もった雫が一滴落ちて、静かな波紋が広がった。不可視のそれはしかし、確かな波動となり山の空気に伝播して、山肌に吸い込まれていく。きっと、山神へと届いたことだろう。
その証拠に山は、今までにない強烈な光に染め上げられて、鼓動のような明滅を繰り返した。
「まぶひい」
反射的に抱きしめたたぬ子の口が、露景の胸板に押しつけられて、くぐもった声がした。腕で目元を覆う那子の肩を抱き寄せて、三人で身体を寄せ合い神の光を全身に浴びる。
寄せては返す神気の波。その狭間、露景は聞こえるはずのないものを聞いた気がした。
――馬が合わぬとはいえ、古代からの仲。別れを述べるのは礼儀である。さらばだ、湖の龍……我が友よ。
はっと顔を上げ、父龍の顔を見る。父は口の端にどこか皮肉な笑みを乗せていた。
妖力を持たないはずの露景には、神の声など聞き取れるはずはない。だが、これは決して幻聴などではないはずだ。
やがて、光が止むと、洞穴の入り口に立っていた神使の姿は忽然と消えていた。




