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8:可哀想なクロエ(2)

「ちょ……、やめて。耳元で喋らないで。くすぐったい」

「……だめだよ、クロエ」

「な、何よ」

「まだ俺のこと好きじゃないんだろう?」

「す、好きじゃない……」

「じゃあ、そんなふうに顔を真っ赤にするのは良くない」

「それは……どういう意味……?」

「知りたい?」

 

 ライルはクロエは頬に手を当て、ジッと瞳の奥を覗き込む。

 うっかりキスしてしまいそうな距離なのに、クロエは何故か目を逸らすことができない。

 昼下がり。二人だけの空間。緊張感漂う静寂の中で、ほのかに香るベルガモットの匂いと、お日様の匂いが混ざり合う。

 心臓の音がどんどん早く、そして大きくなる。果たして、これは一体どちらの音なのだろうか。

 

「……し」

「し?」

「知りたくない!!」


 クロエはライルを押し除け、両手で耳を塞ぎ、目を閉じた。

 これ以上視線を合わせ、声を聞けば、自分の中の何かが崩れてしまう気がしたのだ。


「な、何なのよ。もう……」

「俺の前ではあんまり可愛い顔をしないで。めちゃくちゃにしたくなるから」

「めっ……!?」

「本当は君が俺を好きになってくれるまで待つつもりだったんだけど、そんな風に可愛い顔をされたら待てなくなる」

「な、ななな何を言ってるのよ!?」

「俺だって、君の意に沿わないことはしたくないさ。だからどうか俺の理性を奪わないでくれ」


 すでに夫婦となっているのだから、ライルがクロエに触れてもなんの問題もない。

 それはつまり、彼女の貞操が彼の理性によって守られているということだ。

 そこのところを全く理解していないクロエは混乱しているようで、頭の上にはクエスチョンマークが飛んでいる。

 ライルは忠告するようにクロエの頬を、首筋を、鎖骨を、艶かしく人差し指でなぞった。


「俺たちはもう夫婦なのだから、その気になれば今すぐにでも全部奪えるんだぞ?でもそうしないのは、君が俺を好きになってくれると言ったからだ。どうせなら好きになってもらってから君に触れたいだろ?だから待ってるだけ」

「ライル……?」

「何年もずっと押し殺してきた男の劣情をなめない方がいい。いざ解放されると自分でも制御できないほどに暴走するだろう」

「暴走……」

「だから……、クロエ。そんな俺の全部を受け入れても良いと思えたら、合図して?」

「合図……?」

「なんでも良いよ。たとえば、君の方から俺にキスするとか?」


 ライルはクロエのプルンとした桃色の唇を指の腹で軽くなぞった。

 クロエはその感触に驚いたのか、ビクッと体を震わせた。

 ライルの触れたところが徐々に熱くなるのを感じる。どうしてだろう。まだ好きなわけじゃないのに、どうしてこんなにも体が熱いのか。

 おかしい。あり得ない。自分はこんなにふしだらな女だったのだろうか。


「顔、いちごみたいに真っ赤になってる」

「う、うるさい」

「食べていい?」

「た、食べ!?」


 ライルはクロエの美味しそうな頬を甘噛みした。

 なまじ普通にキスされるよりも恥ずかしい。


「~~~~っ!?」

「本当に可愛いよ。クロエ」

「うううううるさい!うるさいうるさいうるさいっ!!」


 耐えきれなくなったクロエは、頬を抑えたまま『私は食べ物じゃないからぁ!!!』と叫び、コンサバトリーを飛び出した。



「あ、逃げた」


 ライルは去っていくクロエの背中に手を伸ばしたが、すぐにぎゅっと拳を握った。

 そして今はまだ、捕まえないでおいてやるとでも言わんばかりに、その手を下に下ろす。


「ククッ。クロエは本当に可愛いな。……前までも可愛かったが、最近は特に可愛い」


 自惚れかもしれないが、結婚してからのクロエは以前よりも感情表現が豊かになった気がする。

 オスカーの隣にいた時は緊張のせいか、多少頬を赤らめることはあれど、あんな風にわかりやすく怒ったり笑ったりすることはなかった。

 もちろん彼の隣で恥ずかしそうに微笑む姿も、それはそれでとても愛らしかったが、今みたいに感情表現な豊かなクロエの方が本来の彼女に近いと言えるだろう。


「昔はもっと笑って怒って泣いてたのに。いつの間にか、感情をあまり見せなくなって……」


 いつだったか、オスカーが言ったらしい。『僕はお姫様みたいな女の子が好きなんだ』と。

 だからクロエは彼の理想に近づこうとたくさん勉強して、立派なお姫様になった。

 けれどオスカーはそんな彼女を見て、ライルにこう言った。


 ーーー昔の彼女の方が好きだった。


 あの時、ライルが兄を殴らなかったことは奇跡に近い。


「……ああ。可哀想なクロエ」

 

 開けっぱなしの扉の先を眺めながら、ライルはポツリとつぶやいた。





 ***




「あら?お嬢様?」


 ちょうどクロエの走り去る姿を見たソフィアは、首を傾げながら開けっぱなしの扉から部屋の中を覗いた。

 すると、そこにはクロエが走り去った先を見つめて、仄暗い笑みを浮かべるライルの姿があった。


「……!?」


 ソフィアは思わず、扉の影に隠れた。

 どうしてだろうか。隠れる必要など全くないのに、どうしても見てはいけない姿を見てしまった気分になる。


「ライル様のあんな顔、見たことないわ……」


 いつも飄々としている彼があんな、深い闇を抱えていそうな表情をするなんて知らなかった。

 ソフィアはこのまま何もなかったかのように立ち去るのが正解と判断し、足音を立てずにゆっくりと後退る。

 だがその時、部屋からライルの呟きが聞こえてきた。


 ーーー可哀想なクロエ。…………騙されていることも知らずに。


「え……?騙されて……?」


 騙されたとは何のことだろう。その先の言葉が知りたくて、ソフィアは聞き耳を立てた。


 ーーーでも、これでやっと邪魔者がいなくなったんだ。だからどうか早く、俺のことを好きになって?


「邪魔、者……って。まさか、オスカー様のこと?」


 それは根拠のない直感だった。

 だが、ライルの独り言を繋ぎ合わせると、彼が意図的に兄を公爵家から追い出したようにしか聞こえない。ソフィアはブルッと体を震わせた。

 もし本当にライルがオスカーの逃亡に関与しているならば、それは許されないことだ。

 

「どうしよう……」


 クロエに伝えるべきだろうか。だが、ソフィアの立場で迂闊な事は言えない。せめて、この憶測にきちんとした根拠を用意しなくてはならない。

 ソフィアは混乱する頭で必死に考え、一先ずは素早くその場を立ち去ることに決めた。


 そろりそろり。静かな廊下を、足音を立てぬように気を遣いながら一歩一歩後ずさる。

 そんな中で聞こえてくるのは自分の心臓の音と、かすかな衣擦れの音。

 それから……、


 ーーー愛しているよ、クロエ


 うっとりとした声色のはずなのに、どこか冷たさ感じるライルの独り言だった。

 その声にソフィアは全身が総毛立つ。

 粘着質で息苦しさを感じるほどの感情が彼女の耳にしつこく残り、離れない。


「あの人、普通じゃないわ……」


 こんな感情(もの)をクロエに向けていたのか。

 ソフィアはたらりと、こめかみから冷や汗を流した。

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