6:待ってるから
結婚式当日に婚約者が逃亡し、婚約者の弟と結婚する羽目になった挙句、初夜では自分のことを煙たがっていると思っていたその弟から告白までされてしまったクロエは、翌日から一週間も寝込んだ。
流石の彼女でも脳の許容量をオーバーしてしまったらしい。当然と言えば当然の結果である。
「……よく寝たわ」
朝、ソフィアが来る前に目が覚めたクロエはテラスに出て数日ぶりに外の空気を吸った。
もうすっかり、朝晩は冷える季節となったようだ。思っていたよりも肌寒い空気にクロエはブルっと体を震わせた。
それでもすぐ部屋に入らないのは、朝の凜とした空気が好きだからだ。じんわりと頭が冴えてくる感覚がする。
「状況を整理しましょう」
クロエは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
吐き出した息は仄かに白い。
「オスカーはメイドと逃げ、私は仕方なくライルと結婚した。昔から私を毛嫌いしていて、私との結婚も嫌がっていると思っていたライルは、何故か私のことを好きだとか言…………、ああ。やっぱりやめましょう。良くないわ。これは良くない」
いざ声に出してみると恥ずかしいことこの上ないし、何よりも意味がわからない。クロエはその場に蹲り、火照る顔を隠した。
初夜のライルを思い出してしまったのだ。
いつもはクロエに対して険しい顔しか見せない彼が、見たことがないほどに優しい顔を向けてきた。
いつもは悪態しかつかないのに、あの日はずっと気遣ってくれた。
いつもは娼館の女の子たちに愛の言葉を軽く振り撒いている彼が、真剣な眼差しで重苦しいほどの愛を囁いてきた。
クロエは、そのギャップに少しでも心を打たれてしまった自分が堪らなく恥ずかしい。
「愛されることに飢えていたのかしら」
一方的に思いを寄せるだけの5年間だった。どれだけ愛を伝えても返って来ることがない婚約生活だった。
それでも、クロエはオスカーが好きだった。だから、たとえ一生片思いをすることになったとしても構わないと思っていた。
それなのに、いざ他の男に優しくされ、少し愛を囁かれただけであっさりと心が動いてしまうなんて。自分はこんなにも浅ましい人間だったのだろうか。
クロエは静かに息を吐き、ぎゅっと体を縮こめた。
「お嬢様!?」
クロエの様子を見にきた侍女のソフィアは、主人がテラスでうずくまっている姿に動揺して水桶を盛大に落とした。
割れるタイプのものではなかったのが唯一の救いだったが、おかげで床は水浸しだ。
彼女と一緒に部屋を訪れたライルは、面倒くさそうに桶を拾う。
「おい、ソフィア。大惨事だぞ。どうすんだよ、これ」
「お嬢様!どうなさったのですか!そんな寒いところにいてはまた熱がぶり返しますわ!」
「聞けよ、こら」
慌ててクロエに駆け寄るソフィア。彼女の胡桃色の瞳にはクロエしか映っていないのか、ライルのことなどまるで無視だ。
クロエはそんなソフィアに苦笑するしかない。
「大丈夫よ。少し風に当たりたかっただけだから」
「本当に?」
「本当によ。ほら、熱もないでしょう?」
クロエは前髪をあげ、額を見せた。ソフィアは彼女の額にそっと触れて体温を測る。
ソフィアの体温は昔から人よりも少し高くて、クロエは何だか心が軽くなった。
「熱は、ないようですね」
「でしょう?だから、ほら。とりあえず新しい水を持ってきて?顔を洗いたいわ」
「かしこまりました。すぐにご用意致したます」
ようやく落ち着いたソフィアは呆れ顔のライルからモップを受け取ると、ささっと床を拭いて再び水を汲みに行った。
ライルは慌ただしく動く彼女の背中を見送り、フッと笑みを浮かべた。
「本当に騒がしいやつだな。ソフィアは」
「でも見ていて元気が出るでしょう?」
「まあな」
働き者で明るくて優しいソフィア。そそっかしいところは玉に瑕だが、それでもいつでも何に対しても全力で生きている彼女を見ていると元気が出る。だからクロエは彼女が好きだ。
「そそっかしいけど、あれでもちゃんと仕事はできる方なのよ?」
「知ってる」
「あと人当たりもいいから、きっとすぐに公爵家のみんなとも仲良くなれるわ」
「もうなってる。メイドの休憩室では会話の中心にいるらしい」
「ふふっ。さすがね」
クロエは休憩室でのソフィアの様子を想像し、小さく笑った。
そして、ふと気がつく。
今、この部屋には自分とライルの二人しかいないことを。
(……………あ、まずい。どうしよう)
今のクロエの格好はナイトドレスにストールを羽織っただけ。かなり薄着だ。
おまけに髪も整えていないし、顔もまだ洗っていない。
それだけでも恥ずかしいのに、目の前にいるのは先日唐突に告白してきたライルだ。
あの夜の告白が冗談だと頭ではわかっていても、今はまだ素直に顔を見ることができない。
どうするのが正解なのかわからなくなったクロエは、テラスに続く窓を閉めたところで動けなくなってしまった。
「……あ、あの」
窓の前でこちらに背を向けて急にモジモジとし出すクロエ。そんな彼女の様子にライルの頬は緩んだ。
「体調はどうだ?」
「あ、全然平気。問題ないわ」
「そうか。なら良かった」
「えっと……、心配かけてごめんなさい」
「謝る必要はない。あんなことがあったんだ。仕方ないよ」
「……うん」
「もし大丈夫なら正餐には参加してくれないか?父さんも母さんも心配しているから、顔を見せてやって欲しい」
「うん。わかった……」
「ところでさ、クロエ」
「な、何?」
「どうしてそっちを向いているんだ」
「え、えと……。外の景色を見たくて?」
「もう十分見たんじゃないか?」
徐々に近づくライルの足音が、静かな室内に響く。
普段は軽口を言い合ったりもできる関係なのに、今は彼の足音にさえ緊張してしまう。
「でもまあ、良かったよ」
「何が……?」
「俺のこと、ちゃんと意識してくれているみたいで」
気がつくとすぐ背後まで迫ってきていたライルは、窓枠に手をつき、クロエに覆い被さるようにして背後から彼女の耳元で囁いた。
耳にかかる吐息にクロエの体はゾワゾワと鳥肌を立てる。全身が落ち着かない。何だかくすぐったい。
クロエはみるみる内に顔を紅潮させた。
「耳、赤いぞ」
ライルは背後からクロエの長く艶やかな髪に触れ、それを優しく耳にかける。
クロエはくずぐったそうに身じろいだ。
「や、やめて」
「クロエは耳が弱いんだな」
「ち、違……」
ライルはそのままクロエをキツく抱きしめた。彼の大きな腕に、クロエの小さな体はすっぽりと収まってしまった。身動きが取れない。
ああ、どうしたものか。
壊れてしまいそうなほどに早鐘を打つ心臓の音が背中から伝わってくる。
それだけで、ライルの想いは言葉にしなくとも十分に伝わってしまう。
(どうしてこんなことに……)
好きだという言葉が、ただの慰めであればどれだけ良かったか。クロエはグッと唇を噛み締めた。
「ライル、離して。お願いよ」
「離したら逃げるだろう?」
「……」
「無言は肯定。本当、咄嗟の嘘はつけないよな」
「……やめてよ。こういうことをされるのは困る」
「そんなに、俺に触れられるのが嫌か?」
「違うわ。そうじゃない。でもやめて」
「どうして?嫌じゃないんだろう?」
「嫌じゃないけど、でも何か落ちつかないっていうか。その、変な感じするから……」
「変って?」
「~~~っ!変は変なの!!もういいから、離して!!」
クロエは拘束が緩んだ隙に、ライルの腕の中から抜け出した。
そして正面から応戦するように構え、彼を警戒する。
多分だが、この状態のクロエをこれ以上刺激するのは良くない。
まるで暴漢と対峙したかのように戦闘態勢に入る彼女に、ライルは両手を上げて降参のポーズを取った。
「悪かった。もう触らない」
「……本当?」
「ああ、本当だ」
「ならいいわ」
クロエはスッと警戒を解いた。そして心を落ち着けるように大きく深呼吸をして、水を一口飲んだ。
「正餐には顔を出すわ。でも食事は軽めにして欲しいとキッチンには伝えおいて」
「わかった」
「あと、公爵夫妻のご様子はどう?結婚式の後から、ろくに話せていないから。気に病んだりしていないかしら」
「まあ、気には病んでいるね。君が寝込んだのは兄さんのせいだと思って自責の念に駆られている。でも実際その通りなのだから仕方がないよ」
「寝込んだのは別にオスカーのことだけが理由ではないわ」
「あ、もしかして俺のせいもある?」
「………………わかっているのならひと言くらい謝ったらどうなのよ」
「ごめんなさい?」
「そんなに簡単に謝らないで」
「何それ、超理不尽」
ライルはククッと笑い、もう一度軽く『ごめん』と謝った。
素直に謝られては怒りをぶつけたくともぶつけられない。
クロエは仕方がないとため息をこぼした。
「着替えるから、そろそろ出て行ってくれないかしら」
「手伝おうか?」
「結構よ!」
クロエは衝動的に近くにあった枕をライルに投げつけた。
それが淑女としてふさわしくない行動だとわかっているのに。
相手が王子様ではないからだろうか。ライルの前ではどうしても『淑女でいなくては』という意識が欠けてしまう。
(よくない。これは良くないわ)
ライルとて、今はもう次期公爵。彼の妻となる以上、今まで通りに淑女でいなくては。
クロエは自分を律するように背筋をピンと伸ばして、落ちた枕を拾うライルを見据えた。
「ねえ、ライル……」
「ん?何?」
「ひとつ、大事な話をしておきたいのだけれど」
「何さ、急に改まって」
「私ね、あなたのこと好きじゃないわ」
真剣な眼差しで、でもどこか申し訳なさそうにスッパリと振ってくるクロエに、ライルは小さく笑う。
「そんな申し訳なさそうな顔をしなくても大丈夫だよ。君が俺をなんとも思っていないのなんて、初めからわかってるから」
クロエがオスカーしか見ていないのは誰の目から見ても明白だった。
兄に恋をする彼女を誰よりも近くで見ていたライルが、それを知らないはずはない。
「私はあなたの事を、年上の義弟としか思ってないわ」
「うん」
「いつから私のことを好きだったのかなんて知らないけれど、私はずっと、本当にずっと、オスカーだけを愛していたの」
「うん。知ってる」
「裏切られたとしても、今もまだ彼が好きなの。私の心は彼にあるの」
「うん。大丈夫。わかってる」
「だから、急に好きとか言われても困るの」
「うん……」
嘘をつくこともなく、上辺だけを取り繕うこともなく、真剣に、ひとつひとつ丁寧に言葉を紡ぐクロエ。
きっと自分の発している言葉がどれだけ残酷なものであるかは理解しているのだろう。だからそんなに悲痛な表情を浮かべている。
ライルはそんな彼女の不器用な姿が愛おしいと思った。
「クロエ。俺は別に……」
好きになってもらおうなんて思っていない。もちろん、好きになってくれたら嬉しいし、そうなってもらえるよう努力はするつもりだ。
けれど、もし思いを返してもらえなくても別に構わない。だってもう結婚しているのだから。
誰がなんと言おうと、クロエはライルの妻で、複雑で面倒な離婚手続きを行わない限りは死ぬまで一緒にいることができる。だったらもう、十分だ。これ以上は何も望まない。
ライルはそう言おうとした。
しかし、彼がそう言うよりも先にクロエが続けた。
「だからね、ライル。もう少しだけ時間が欲しいの」
「…………え?」
「あなたのこと、ちゃんと異性として意識してみる。あなたが私を想ってくれるみたいに気持ちを返すことはできないかもしれないけれど、それでもできる限り応えたいとは思ってる」
クロエはライルの目をしっかりと見つめて宣言した。
まさかそんなことを言われるとは思っていなかった彼は、目を丸くした。
「何よ。その顔は」
「俺のこと、好きになってくれるのか?」
「す、好きになるとは言ってないわ。そうなるよう努力するって話で……」
「努力してくれるのか?」
「一応ね!夫婦になったわけだし?」
「そっか……」
ライルは口元を手で覆い、嬉しくてにやけてしまう口を隠した。
だがしかし、目元からも声色からも喜びが漏れ出ていて隠しきれていない。
「そっか。そっかそっか……」
「な、何よ」
「努力してくれるのか」
「だからそう言っているじゃない!」
「そっかぁ」
「なっ!?さっきから何なのよ!」
「クロエ」
「何よ!」
「好きだよ」
「……っ!?」
「待ってるから。君が俺を好きになってくれる日が来ることを、期待して待ってるから。だから……、早く好きになって?」
ライルは自分の薬指にはめられたサイズの合っていない指輪に軽く口付けると、上目遣いで熱い視線をクロエに送った。
別に自分の指に口付けられたわけでもないのに、薬指が熱い。クロエは咄嗟に左手を背中に隠した。
「は、早く出ていって!」
「わかった、わかった」
「早く!」
「はいはい」
ライルはククッと笑いながら、手をひらひらとさせて部屋を出た。
入れ違いで戻ってきたソフィアはいつもと少し雰囲気の違う二人の様子を交互に見て、不思議そうに首を傾げた。




