1-28 聖術
「おはようございます、アニエス様」
ハッとして目を開いた。恐ろしいことに、すっかり爆睡してしまった。自分の図太さに震えたが……いや、違う。多分少し吸ってしまったケトロシヤのせいだろうと、心の中で胸をなでおろした。
私を起こしに来たメイドの顔をぼんやりと眺める。メイドは、満足そうに微笑むと、私の背に手を入れて、そっと起き上がらせた。
「ご気分はいかがですか?」
「……えぇと……」
寝起きの頭でなんと答えようか首を傾げていると、メイドは更に満足そうに頷いた。
「えぇ、大丈夫ですよ。よくお休みになられた証拠です。いつも精霊に囲まれて暮らしてらっしゃいましたから。お一人でよく眠れたのでしょう」
バカいえ、みんながいても毎日爆睡だったわ!とツッコみそうになりながらも、なるほど寝起きの感じは薬が効いてるっぽい雰囲気なのだろうなと、そのままぼんやりと頷く。
メイドはまた満足そうにして、私を豪華な衣装に着替えさせると、部屋を出ていった。
次いで、ガチャリと鍵を開けて入ってきたのは、ユリウス様だった。
「アニエス様、よくお休みになられたようで良かったです。リラックスできたようだと、メイドからも聞いていますよ?」
「ありがとう、ございます……」
ケトロシヤを投与した手術後の患者の様子を思い浮かべながら、ユリウス様に答える。ユリウス様は満足そうに微笑んだ。
「大丈夫です、私はこれからあなたとずっと一緒にいます。もう安心ですからね?」
「…………」
良かったー!なんて三文芝居してもバレるだろうなと、ただぼんやりとした顔をキープする。バレてないかな、とドキドキとしながらユリウス様の様子を窺う。
ユリウス様は、私の頭を優しく撫で始めた。
振りほどきそうになるのを、必死で耐える。
「アニエス様、これから貴女は私と一緒に謁見の間へ行きます。そこで、貴女がどう思っているかをみんなに伝えましょう」
「……帰りたい。ディカルドに、会いたい」
あまりにも素直すぎるのもおかしいのではと、思っていることを口にしてみた。ぼんやりとユリウス様を見返すと、ユリウス様は困ったように笑いながら、また私の頭を撫でた。
「アニエス様、もう違うでしょう?『ディカルド様とは離縁し、聖女の勤めを果たします』昨日アニエス様は私にそう言いましたよね?」
「言って、ない……」
「忘れてしまったのですか?仕方ないなぁ」
ユリウス様はメイドに目配せをした。朝食が運ばれ、並べられる。
「では先に朝食を召し上がりましょうね?」
スープにパン、そして紅茶。ソーセージとサラダにフルーツ。美しい装飾の皿に盛り付けられたそれらの朝食が並べられる。
私はさっと昨日と一緒だなと理解しながら、ふらりと朝食とは逆のほうへ向かった。
「いつも……朝はすぐに食べられないんです……」
「そうですか……では、このまま置いておきますので。また少ししたら来ますから、昨日みたいにちゃんと召し上がってくださいね?」
すっかり昨夜の様子に安心しているのだろう。ユリウス様はまた昨日と同じようにメイドに指示すると、ケトロシヤの香に火をつけさせ、部屋を出ていった。
誰も部屋にいなくなったのを確認してから、昨日と同じように香の処理をして、安全な朝食だけを食べる。
「……さっきの台詞、次は言えるようにならないとダメだよね」
ディカルドと、離縁する。そんな言葉、口に出したくもないけれど。仕方がないのだろうと、ため息を吐いた。
「でも、嫌だなぁ」
ふらりと鏡の前に立つ。朝着せられたのは、想像以上に美しい、滑らかなローブだった。昨夜綺麗に磨かれ、そして美しく髪を結い上げられ化粧を施された私は、今まさに聖女の出で立ちだった。
着替えた時にメイドにつけられたのだろう、チェーンで繋がれた胸元を彩る透明な石が、柔らかな光を放つ。
「……ディカルド様とは、離縁し……聖女の勤めを……果たします……」
鏡の中の自分を見つめながら、ボソリとつぶやく。嫌だなぁと思いながら、ぼんやりとその言葉を繰り返した。
「いいですね、その調子ですよ」
いつのまにか、背後に甘い表情をしたユリウス様が立っていた。もう一度、と促される。
「ディカルド様とは、離縁し、聖女の勤めを、果たします」
「お上手ですね。ご気分はいかがですか?」
「……問題、ありません」
「それは良かったです。よくお休みになられた証拠ですね」
そのままユリウス様に手を取られ、部屋を出る。ゆらゆらと揺れる視界は、まるで透明な水の中のようだった。
「――様子はどうだ」
背後から重厚な声が聞こえた。
確か、これは――大司教の、声。
ユリウス様が、小声で大司教に耳打ちをしている。
「父上の術のおかげで無事に。やはり一晩の聖女の香と晩餐、少しの教えだけではお疲れを解しきることは出来ず」
「……場所が大聖堂であれば、盤石であったが、致し方ないか」
「えぇ、香も効いておりますし、この様子であればこのまま問題なくお勤めを果たされるのではと」
「分かった。よいか、できる限り早くここへ聖女様をお戻しするのだ。――大聖堂の外では、聖術は使えない掟だ」
「畏まりました」
――聖術?何の話か飲み込めないまま、促されるままに大聖堂を出る。大聖堂の門の外に、精霊達が集まっているのが見えた。
ふわふわと、吸い込まれるようにそちらへ向かう。
会いたかった。
そんな心地よい気持ちを覚えながら、門の外へ一歩踏み出した。
パリンと、頭の中で何かが割れた。混濁していた意識がはっきりとする。
大司教が、そっと私の様子を窺うように、顔をのぞき込んだ。
「アニエス様、今日は皆様になんとお伝えするのですか?」
「……ディカルド様とは、離縁し……聖女の勤めを、果たします」
「なるほど、素晴らしいお話だ。皆喜ぶでしょう」
満足そうに頷いた大司教は、ユリウス様に目配せすると、私を馬車へと誘導させた。
フラリとユリウス様に寄り添いながら、馬車の中へ入る。
心臓が、バクバクとしている。誤魔化せただろうか。
聖術。それが何なのかは分からないけれど。さっきの私は、間違いなくそれにかかっていた。途中の記憶もイマイチあやふやだ。ゾワリと鳥肌を立てながら、術にかかっているふりをして、俯く。膝の上に小さな精霊が乗っかって、私のことを心配そうに見上げていた。
大丈夫よ、と目配せをする。
――聖女を操る術は、ケトロシヤやエリトヤ草によるものだけではなかった。会話の内容からして、恐らく、薬の効果と聖術を組み合わせて上手く私を操っていたのだろう。
危なかった……と冷や汗をかく。理由は分からないが、大聖堂の中でしか聖術は使えないらしかった。つまり、大聖堂から出られなかったら――私は、このまま永遠に囚われたままだったのだろう。
諦めるな。ディカルドの声が、頭に響く。
そう、諦めない。諦めたくない。だけど。
逃げるなら、もう、今このタイミングしかない。
私はその恐ろしいまでの事実に、ひっそりと身震いした。
どうしよう、手が、震える――
俯いたまま、自分の手を見下ろす。
冷たくなった白い指。そこには、大好きな赤銅色のルビーが、朝の日差しを浴びて意思のある輝きを放っていた。
最後に指輪に口づけられた、優しい温もりを思い出す。
「アニエス様、着きましたよ」
差し出されたユリウス様の手に、ぼんやりと手を重ねる。
「ほら、こちらですよ」
ユリウス様を見ると、その顔には白い薄布が掛かっていた。見れば、大司教も――あとに続く聖職者達も、皆そうだった。違和感を覚えつつ、そのまま先へ進む。恐らく、神や聖女の御前だからとかいう理由は表向きで――表情を読まれないようにつけているのだろう。
様子をうかがいながら、ゆっくりと先へと進む。
何度も登場した王宮の廊下。
窓の外に見える、薬草園やディカルドの訓練場。
空には流れる雲と、嬉しそうに私に手を振る精霊達。石畳にも、花瓶の中にも、揺れる風にも。
そう、私は、精霊達の中で生きてきた。それは、これからも変わらない。
謁見の間。
美しいローブで身なりを整えた聖女のような私は、強い意志を持って大きな扉の前で立ち止まった。
――聖女?いいえ、違うわ。私は、アニエス=オーギュスティン。精霊の愛し子。そして、次期オーギュスティン家当主ディカルドの妻。
誰にも搾取されない。誰の言いなりにもならない。私が生きる道は、私が決めるわ。
重厚な扉が開く。
謁見の間には国の重鎮たちが並び、中央の玉座には国王陛下がゆったりと座っている。玉座の脇には、第二王子アレクシス殿下。そしてそのもう少し横には、私の夫、ディカルド。
絶対に、負けない。私はそう決意を秘めて、ぼんやりとした顔を保ったまま、人々が集まる謁見の間に一歩踏み出した。
読んでいただいてありがとうございました!
あ、危なかった……恐るべし教会……
「アニエス気を確かに(汗)!!!」とハラハラしてくださった優しい読者様も、
「ディカルド死守!!ほんとに死守!!!」とヤバ過ぎる教会からなんとかしてアニエスを逃がしたいあなたも、
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