第1話
帝国の大都市イグマスにある牢獄塔は、市民から恐れられていた。
八階建ての堅固な石造りの牢獄で、凶悪な殺人犯、禁忌を犯した魔術師、統治者であるタタリオン家に対する謀反人などは、鉄の鎖につながれ、死霊術の実験材料にされるのだと噂されている。
この百年間、牢獄塔から脱獄を試みて、成功した者はいない。
それがある年の夏、牢獄塔の百人ちかい囚人が、一斉にいなくなるという事件が起きた。その後、ある者は再び捕らえられ、ある者は殺されたが、半数以上の囚人が無事に逃げおおせたと言われている。
この事件を裏で手を引いていたと、一躍有名になったのがイオアンだった。
彼は、タタリオン家の重鎮セウ家の嫡男で、当時二十三歳。だが事件の前は、伯爵家の長男でありながらきわめて影が薄く、巡察隊の総指揮官である弟のアルケタのほうが人気があるぐらいだった。
美しいエルフの一族でありながら肌が黒いイオアンは、呪われているのではと囁かれていた。子供の頃から病弱で、騎士として剣を振るうこともできず、自室のベッドで本を読んでは、窓の外を眺めるだけの毎日――。
そんな彼は、自分の殻に閉じこもるようになった。
歴史に残る脱走劇のきっかけは、このイオアンと不穏な二人組の密会だったと言われている。
※ ※ ※
八月の蒸し暑い夜――。
イオアンは、イグマスの高級娼館〈フリュネの誘惑〉の五階にいた。この晩のイオアンの相手は、ヴィヨルンドというドワーフである。
ヴィヨルンドは、ずっと洞窟で暮らしてきたような色白の肌、ぽっちゃりとした肉づきのよい体、腕のよい石工の娘だったという頭と性格の良さもあり、〈フリュネの誘惑〉では売れっ子の〈貴婦人〉だった。
彼女はいま全裸で縛られ、天井から吊らされている。
それを、学者のような視線で観察しているイオアンも裸である。彼は痩せて背が高く、髪は雪のような銀髪だった。
「イオアン様……」
とヴィヨルンドが声をかけ、縄の結び目を確かめていたイオアンが顔を上げた。
「どうした、苦しいのか?」
「苦しくありませんけど、変な気分になってしまいそう」
「変な気分?」
とイオアンが困った顔になった。
「抽象的な表現だな。もっと具体的に教えてくれないか」
「具体的にって……」
とヴィヨルンドは喘ぎながら答えた。
「あちこちが擦れて、なんだか気持ちよくなって……イオアン様、これは本当に尋問する方法ですの?」
「もちろんだ。牢獄塔の獄吏長が教えてくれたんだからな。女の囚人をこのように縛り上げると、なぜか勝手にペラペラと喋りだすそうだ。ただ、お前には済まないと思っている。このような実験に付き合わせて」
「私……嫌いじゃありませんわ」
「ならば良かった。屋敷の家臣にも頼んだのだが、なぜか、みんな断るんだ。男との効果の違いも確かめたかったんだが……」
イオアンが考え込んでいると、突然、若い女の叫び声が聞こえてきた。
「まあ、なんてこと!!」
振り返ると、部屋の扉の前に、地味なドレスの女が立っていた。蝶のような形をした目元を隠す仮面。ここ〈フリュネの誘惑〉では、まだ客を取れない〈侍女〉は、このような恰好をすることになっていた。
「なぜ、勝手に入ってきた!」
と実験を邪魔されたイオアンが詰問すると、
「何度もノックを致しましたが、まったく返事がなかったものですから……」
と〈侍女〉が言い返してきた。
確かにまったく記憶がない。ヴィヨルンドの観察に夢中になっていたせいか――とイオアンが反省していると、
「そんなことより、早く助けなくては!」
と〈侍女〉が叫んだ。
「助ける?」
「あんな恰好をさせるのは間違っています!」
だが、縛られているヴィヨルンドは、
「いいのよシア。これは私が望んだことなの。ああ……」
と〈侍女〉へ顔を向けると、また甘い呻き声をあげて、体をくねらせ始めた。
「ですが、ヴィヨルンド様……」
と〈侍女〉が足を踏み出すと、眉をひそめたイオアンが、彼女に近づいた。
「シアだと……? 聞かない名前だな」
シアは思わず立ち止まった。イオアンは彼女の顎の下に指をかけると、そっと持ち上げ、自分のほうへ向けさせた。
指先から、彼女の緊張が伝わってくる。
「……仮面を外せ」
シアが仮面の紐を解いた。
二十歳前のエルフの娘だった。すらりとした体つき、肩まである黒髪――。
しばしイオアンは見とれてしまった。
だが、高級娼館である〈フリュネの誘惑〉では、美しい娘などいくらでもいる。それよりも強い印象を受けたのは、彼女が自分に向ける眼差しだった。
――緊張しているが、怯えてはいない。
主人である自分が、逆に値踏みされているような気がした。なぜだか正体不明の胸騒ぎすら感じる。
「それで、ヴィヨルンドに何の用だ?」
「ヴィヨルンド様ではありません。イオアン様にお客様がいらしています」
「本当に私か? なぜ今夜の私の居場所を知っている」
とイオアンは眉をひそめた。
「では、屋敷の者か?」
「いえ……」
とシアが声を低くした。
「〈首なし騎士団〉の方のようです」
「〈首なし騎士団〉だと!」
「名前は教えて頂けませんでした。〈首なし騎士団〉の人間が来たと伝えれば、イオアン様なら必ず分かるはずだと……あと、もう一人いらっしゃいます。若い方です。何かに憑りつかれたような陰気な目をしていました」
「ふむ……では違うな。追い返してくれ」
「それが……」
とシアはさらに声をひそめた。
「イオアン様と会えるまでは帰らないと、待合室に居座っています」
「オークの用心棒はどうした。そのために雇っているんだろうが」
「ルマンディア様が止めました。まだ待合室には、お客様も〈侍女〉たちも残っていますので。それで私が……」
「……呼びに来たというわけか」
放置したら娼館の評判に傷がつくだけだろう。
「では、やむを得ない……私の部屋に案内してくれ」
「イオアン様のお部屋ですか? 〈フリュネの誘惑〉に、そのような部屋は……」
「お前は知らないのか?」
とイオアンは苛々とした表情で命じた。
「ルマンディアに訊け。あと飲み物も持ってきてくれ。私もすぐに行くから」
頭を下げたシアは、そそくさと部屋から出ていった。
イオアンはヴィヨルンドの縄を解いていった。
「あのシアという娘は、最近入ったのか?」
「いえ……」
とベッドのヴィヨルンドが思い出す顔になった。
「数か月前だったかしら?」
「どこの生まれだ?」
彼女の言葉には、イグマスではないアクセントがあった。
「帝都のほうだとか……」
「では、貴族の娘ということか?」
「そうかもしれませんが、私も詳しくは知らないのです。でも話してみたら、私なんかより、ずっと教養がありそうでした」
「ほう」と少し驚きながら、イオアンは自分の服を手にした。褪せた黄土色のよれよれのローブである。
シアに教養があるのも、貴族の娘なら合点がいった。帝都は長いあいだ内乱状態になっている。家族や財産を失い、娼婦に身をやつした貴族の娘は少なくない。おそらくシアもそういう娘なのだろう――。
まあ、ルマンディアに任せておけばいい。まずは二人組を片付けよう。ローブを着たイオアンは、ヴィヨルンドの部屋から出ていった。




