一ノ5 加速する不穏
秋っちゅうのは、猫の毛皮に一番早う来る。
朝の塀の上がひんやりし始めて、日向の相場が少し上がった。
俺が拾われた時期は、夏休みのちょうど終わり頃。
もう窓の外では、金木犀が匂い始めとる。
暦は、十月の半ばになった。
千尋ちゃんの転校が、九月の頭。
みんなでプール行った例の水着回が、九月の半ば。
あれから、ひと月。
東雲家の朝メシに、味噌汁の湯気が立つようになった。
俺の日課は変わらへん。
七時四十分、塀の上。
小雪が玄関を出て、右に三歩。隣のチャイムを、ピンポン、て一回。
「らっくん、あさ」
「……おう」
会話IQ、二。平常運転や。
俺はこの「おう」を、毎朝、塀の上で検品しとった。
吾輩は猫。猫は暇や。暇やから、ぼーっと観測しとる。
ほんで、観測しとったから、分かってもうた。
崩れっちゅうもんはな、いっつも、いつも通りの顔して始まるんや。
プールの日からのひと月、夜の報告に「千尋ちゃん」の混じる率は、じわじわ上がり続けとった。
それにつれて、報告するご主人の顔の明るさの目盛りが、じわじわ、下がっていっとった。
本人は気づいてへん。せやけど、毎晩この顔を検品しとる俺には分かんねん。
空模様で言うたら、晴れが曇りになったくらい。
まだ、傘のいる空やない。
……そう思うとった。
その夜のこと。
「……あのね、なおや。聞いて」
布団の上で膝を抱えて、小雪はいつもより、ワントーン低い声で言うた。
「文化祭の実行委員、決まったの」
「ほう。誰なん」
「…………らっくんと、千尋ちゃん」
言うてから、小雪は、へにゃ、て笑おうとした。
笑おうとして、半分で止まった。
小雪の表情とは裏腹に、ラブコメデータベースが回り始めた。
文化祭実行委員。
おいおいおい。大型イベント前の接点製造装置、ド定番のやつやんけ。
準備で放課後が潰れる。買い出しで二人になる。頑張っとる横顔をお互い見てしまう。
ラブコメにおける実行委員っちゅうのはな、恋の温室栽培や。
「……ちなみにご主人、文化祭て、いつなん」
「十一月の半ばだよ。ちょうどあと一ヶ月くらいかな」
一ヶ月。
温室栽培の栽培期間、まるまる一ヶ月。
放課後の教室、二人での見回り、買い出しの帰り道。接点イベントの苗床が、今日から毎日水やりされるっちゅうことや。
しかも、文化祭て。
俺は思い出しとった。いつかの夜、この部屋で小雪と観た、あのラブコメを。
あのアニメの幼馴染が負けたんも――文化祭やったな。
……いや、考えすぎや。
現実の文化祭なんちゅうもんは、ベニヤとペンキの匂いがするだけの労働や。アニメみたいな色気があってたまるかい。
「そっかあ、委員会かあ。大変やな、らっくんも」
「うん。……最近ね、らっくん、すごく楽しそうなんだ」
楽しそう、の言い方が、ちっとも楽しそうやなかった。
好きな男の頑張りはな、隣で見れるだけで報酬なんや。
それを見る席が、自分の特等席やと信じとれるうちはな。
この子はもう、その席の予約が効いとるんかどうか、疑い始めとる。
疑っとることにすら、気づかんふりしたままで。
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最初の欠便は、次の週の水曜やった。
七時前。玄関に向かう前の小雪のスマホが、ぽこん、て鳴った。
RINEや。
覗く気はなかったんやけどな、猫は肩に乗る生き物やねん。見えてまうもんはしゃあない。
『わり、今日先行くわ。委員会朝もあるから』
「……そっか。朝も、あるんだ」
小雪は、えらい時間かけて返事を打っとった。
打っては、消して。打っては、消して。
最終的に画面に残ったんは、「がんばってね!」の七文字と、猫が万歳しとるスタンプ一個やった。
三分かけて、七文字て。
七時四十分、小雪は玄関を出た。
右に三歩――は、行かんかった。
隣の門の前を、まっすぐ、素通りや。
チャイムは、鳴らへんかった。
押しに行く用事が、通知一個で消えたからな。
俺は塀の上から、その背中を見送った。
歩幅が、いつもより狭かった。
二人分の速度で歩く理由が、なくなったからやろな。
その週は、水曜だけやった。
次の週は、水曜と金曜になった。
その次の週は、数えるんをやめた。
言うとくけどな、小雪が日課をサボっとるんちゃうぞ。
あの子は毎朝、ちゃんと七時四十分に玄関を出とる。
ただ、出る前にスマホを見る癖が、ついてもうただけや。
ぽこん、が鳴った日は、隣の門を素通りする。
鳴らんかった日だけ、右に三歩で、ピンポンや。
十六年続いた日課がな、通知一個で鳴ったり鳴らんかったりする条件付きに格下げされたんや。
夜の報告も、変わった。
「今日はね……うん、ふつうだった」
購買のメロンパン十円値上げで五分しゃべった女やぞ。
その女の一日が、「ふつうだった」の六文字で締まるかい。
報告の中身も、聞いてりゃ千尋ちゃん経由ばっかりや。
曰く、千尋ちゃんの企画がすごくて、クラスの出し物が決まった。
曰く、らっくんと千尋ちゃんが二人でペンキの買い出しに行った。重かったんだって、て。
お前がその重さを知っとる経路、考えたら分かるやろ。伝聞やねん。お前の好きな男の一日が、もう伝聞でしか入ってこおへんのや。
ほんでな、俺の悪い癖や。
頭ん中の算盤が、また勝手に数を弾いとった。
プールの夜、報告に出てきた「千尋ちゃん」は十七回やった。
今夜は、報告そのものが三分で終わったのに、十二回や。
分母が縮んどるのに、分子が減らへん。
率で言うたら、上がっとる。
別の夜には、こんな報告もあった。
「あのね、うちの文化祭ってね、後夜祭にキャンプファイヤーがあるの。それでね、その火の前で告白すると、絶対うまくいくんだって」
「そんな古のラブコメジンクスまであるんか」
「うん。毎年、何組もできるんだって。すごいよね、火の力」
火の力て。
お前はほんまに天然や。
ええか、後夜祭のジンクスっちゅうのはな、ラブコメにおける処刑台でもあるんやぞ。
誰かが結ばれるっちゅうことは、誰かが結ばれへんっちゅうことやねん。
他人の幸せは誰かの不幸の上に成り立っとるんやから。
やめや、やめやめ。
様式と現実を混ぜたらあかん。ラブコメオタクの職業病や。
笑顔にもコストがある。
前は勝手に浮かんどった笑顔を、今は、よいしょ、て持ち上げとる。
その「よいしょ」の音が、日に日に、でかくなっていく。
十月が終わりに近づいて、朝の息が白うなった。
文化祭まで、あと二週間。
準備は佳境らしい。実行委員会は連日、遅うまで残っとるらしい。
教室の窓に貼る絵も、届いたベニヤの枚数も、全部「らしい」や。
俺の情報は、いつからか全部「らしい」になっとった。
猫は学校に行かれへん。
観測できひんもんは、止められもせん。
俺の中のアラートは、もう毎晩鳴っとった。
鳴っとったのに。
俺は毎晩、香箱を組んで、聞き役をやっとった。
……何でやろな。
たぶんな、見てもうたら、認めなあかんくなるからや。
伝聞のうちは様子見で済む。
この目で観測してもうたら、それはフラグになる。
せっかく書いてなろうにあげたラノベのアクセス数の低さを見てもうたら、モチベはなくなってしまう。
俺が大学休んでも誰も気にしてないとこを見てもうたら、行く意味なんて最初からなかったと思ってしまう。
督促状を見てもうたら、どんどん行政に追い詰められてるようで怖気づいてしまう。
俺はフラグが怖くて、様子見の席から動かんかったんや。
三十二年、ずっとそうやって生きてきた男の、染み付いた癖みたいなもんや。
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十一月に入って、最初の夜やった。
消灯後。
俺は布団の上の指定席で丸くなって、小雪の寝息を待っとった。
でも、なかなか、来んかった。
暗闇の中で、声がした。
「ねえ、なおや」
「どしたん」
「千尋ちゃんって、かわいいよね」
…………。
これは不安や。
「かわいいよね」の形しとるけど、中身は「わたし、大丈夫かな」や。
この子はな、恋敵を褒める形でしか、不安を口にでけへん。
自分の不安に名前つけてもうたら、この子の中で何かが確定してまうから。
俺は知っとった。
消灯後にこの型の台詞を言うた幼馴染が、そのあとの展開でどうなるか。
負ける理由なら論文一本書けるくらい、俺は知っとった。
今や。今しかないやろ、猫が動くんは。
ほんで俺は、その全部を知った上で、こう言うたんや。
「かわいいかもしれんけどな、ご主人。幼馴染には、積み上げた年月っちゅうもんがあるんや」
「……年月」
「せや。十六年や。ぽっと出の転校生が逆立ちしても越えられへんもんや。ドンと構えとったらええ」
暗闇で、布団がもぞ、て動いた。
小雪が、ちょっと笑うた気配がした。
「そっか。……うん、そうだよね」
「せやせや。ほら、もう寝。明日も学校やろ」
「うん。なおや、ありがと」
ほどなく、寝息が聞こえてきた。
いつもより、ちょっとだけ浅い寝息やった。
……なあ。
三万時間の俺に、聞くで。
積み上げた年月で勝った幼馴染が、何人おった?
数えるまでもないから、数えへんかった。
年月はな、掛け金にはなるけど、勝ち筋にはならへんのや。
俺はそれを、日本で一番よう知っとる男。
知っとって、言うたんや。
あの子が今夜眠るための気休めを、飼い猫が一番口にしたらあかん気休めを、俺は指定席の上から、ぬくぬくと言うたったんや。
猫は泣かれへん。構造的にな。
せやけどあの夜に関しては、泣く資格がなかっただけやと思うわ。
窓の外の金木犀は、いつの間にか、匂いを終えとった。
香りの季節っちゅうのは、短いもんや。
文化祭まで、あと十日。
ご主人が安らかに眠れることだけを願った。




