「鰹のタタキを殺そう」
素材の味を活かす、という言葉がある。
食材が持っている本来の味を、料理することで引き出す。例えば魚に塩を振ってから、しばらく置いてから調理する手法。風味の強すぎる香辛料なんてものを使うことなく、魚の生臭みを取り除く。そうすることで魚本来が持つ、良い味のみを抜き出すことができる。
新鮮な食材が手に入りやすい日本ならではの言葉だと思う。
しかし、昨今の日本人は『素材の味』という言葉に踊らされているマリオネットに成り果てていないか。
シンプルな味付けこそが正義であり、重厚な味付けは悪という風潮。いかがなものだろうか。
特に何にでも塩で、と言う輩。確かに塩で食べるのも良い。素材の味を十分に堪能できる。
だけれども、それを強制するのはどうなのか。世の中には様々なソースがある。マデラ、オランデーズ、バルサミコ……。ハニ―マスタード、マヨネーズなど数えだしたらキリがない。醤油もソイソースであり、またそこから濃い口、薄口、タレなどと分かれていく。
これらは当たり前のごとく、人間が生み出したもの。人間が、必要だと感じたから作ったのだ。それを無視して、せっかくの食材をただの塩化ナトリウムで食すというのは料理への冒涜ではなかろうかと私は思う。
場末の居酒屋の焼き鳥を、何とも形容出来ぬ自信に満ちた顔で「塩で!」という人間のなんと憐れなことか。そんな地鶏でも何でもない、格安の鶏肉を使っているであろう焼き鳥を塩で食べてどうする。調理人も修業を積んだ職人でもない、バイト君なのに。塩も別に良いものではない。普通のヤツだぞ、君。タレで食べている人を見下した目で見ているようだが、店側からすれば原材料費を安く抑えてくれるカモは君なのだよ。鶏食ってるのに、カモなのだよ。だから最初に頼むときに「全部塩で」とか言うんじゃない!
何を言いたいのかというと、素材の味を活かすべき場面もある。だが時には素材の味を殺す味付けも必要なのだ。
その最たる例が、この鰹のタタキだ。
普通のスーパーでグラム120円ほどで売られている、極めて安価な鰹のタタキ。恐らく一般的にサクで売られている刺身の中で安定して最も安い。探せばグラム98円で売っているところもあるだろう。生魚を手軽に食べたいならこれを見逃さない手はない。
けれど、これを馬鹿正直に刺身で食べると、作ってくれた人には悪いがあまり美味しくない。いや、はっきり言う。不味い。本来の鰹の叩きは表面の香ばし味が食欲をそそり、口に含めば赤みの濃厚な味が肉にも負けない強い旨みを残す。そんな素晴らしい料理。
しかし、この安い鰹の叩きは表面は炙りすぎてパサパサでありながら、血合いの生臭みが強く際立つ。薬味無しでは到底食べれぬほど。そんな悲しい料理。
この素材の味を活かしてどうする。むしろこの素材の味は殺さなければならない。けれど鰹のタタキというのは中々に強い味。焼き過ぎた皮の焦げによる苦味。鮮度落ちにより沸き上がった生臭み。濃い九州醤油をかけたところで、到底消せるものではない。
故に歩むのだ、邪道を。本来生魚にしてはいけないことを、やってみよう。
切った鰹のタタキにポン酢を回しかける。ポン酢というのは生臭みに対抗できうる調味料。柑橘のさわやかな風味が食欲を増してくれる。けれども、いくらポン酢とはいえこの鰹のタタキには弱い。
そこでキムチ。真っ赤なキムチ。漬物界の中でも強烈な個性を放つキムチである。唐辛子とニンニクの力強い味。これを食べやすくザクザクと切って、先ほどの鰹のタタキと混ぜる。
さらにマヨネーズ。御存じの通り、何にでも合うと言われている調味料。これもそれなりの量を入れて混ぜる。
ポン酢、キムチ、マヨネーズ。これら全てにより鰹のタタキの嫌な風味を綺麗さっぱり消し去る。
しかし、これは同時に素材の味も消している。というよりも、生魚に対してこの仕打ち。寿司職人からグーで殴られそうだ。料亭の人間は泣いちゃうことだろう。
けれど、どうだろうか。この和え物を熱々のご飯にのっけてバクバク食べると実に気持ちいい。
キムチマヨポンの重厚でチープな味の中、時々主張する鰹君。もしこのソースが無ければ「おらぁ! 先公、鰹だけどもよぉ!」と怒鳴り込んできていた。釘バットを担いで、バイクに乗ってくるレベルで。しかしながら、今や「あ、先生こんにちは。鰹です」くらいの落ち着きを取り戻している。
生魚を使っていてもチープな料理で良いと思う。生魚を使っていても素材を殺す味付けで良いと思う。
使う魚が悪くても美味しく食べれるなら、それで良いと思う。値段も味の内だと思う。
料理は自由なのだから。