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通達がアルセリアへ届いた日、アルベルトは宿にいなかった。大使館員が午前に一度、午後に一度訪ね、夕方には王立学院へまで探しに行った。当然そこにもいない。夜になって、翌日はヴァルナハト家が慈善昼餐会を開くと知った書記官が、嫌な予感を覚えた。
翌日、公爵邸の庭には三十人ほどの客が集まっていた。孤児院の冬支度のため寄付を募る催しで、金を集めるだけなら手紙を送れば済むのだが、公爵夫人は顔を合わせた方が長く付き合えるという考えの持ち主だった。
庭には丸卓を置き、料理は軽く、昼なので酒は少ない。朝から風が強く、卓布の端が何度もめくれるため、使用人が銀の果物皿を重し代わりに置いて回っている。
エレオノーラは母親と客の相手をしていた。長男コンラートもいる。昼近くには、王宮から若い男が一人戻ってきた。紺色の上着の袖へインクがついており、エレオノーラが着替えてくるよう言ったものの、少し食べたらまた仕事へ戻るからとそのまま庭へ入った。次男のルシアンなのだろう、とアルベルトも遠目には理解したが、特に興味は持たなかった。
少し後、王宮騎士の制服を着た女もやってきた。腰には剣があり、長居するつもりはないのか預けてもいない。女は庭の端でルシアンと何か話し、彼の肩に付いていた花弁を指で取った。周囲は誰も気にしていなかったので、アルベルトも親戚か古い知人なのだろうと思っただけである。
彼が探していたのはエレオノーラだった。自分が王族でなくなったことを、まだ知らない。
胸元にはグラーツェン王家の紋章を彫ったメダリオンをつけ、外国王子として招かれたときと同じ服を着ていた。公爵家側にも本国からの通達は届いておらず、門番も止めなかった。
アルベルトはエレオノーラを見つけると、人のいるところで話した方がいいと判断した。
周囲に証人がいれば、相手もひどく無礼な断り方はできない。エレオノーラの方は、こちらへ歩いてくる彼を見て、またかと思った。それでも老伯爵夫人との会話がちょうど終わったところだったので、逃げるほどでもないと判断した。
「エレオノーラ嬢、あなたの過去については聞いている。一度は他の男のものになり、その相手にも粗末に扱われたそうだな。普通なら傷モノを妻に迎えることには抵抗があるが、私はそこまで狭量ではない。あなたが望むなら、ヴァルナハト家ごと私が引き受けてもいい」
エレオノーラはしばらく返事をしなかった。近くにいた公爵夫人がこちらを見る。老伯爵夫人だけは耳が遠く、何が始まったのか分からないまま焼き菓子を食べ続けていた。
「申し訳ございませんが、最初から何のお話をなさっているのか分かりません。私はこれまで婚約したことはございますが、結婚したことは一度もございません。それに、我が家をあなたに引き受けていただく事情もありません」
「恥じる必要はないと言っている。公爵家の秘宝と呼ばれていたあなたが、婚礼の夜に騎士から姫を優先すると言われた話は知っているんだ。離縁したことまで責めようというのではない」
今度は公爵夫人も何も言わなかった。少し離れたところでコンラートが顔を上げ、先ほどの次男もこちらを見る。
エレオノーラはその弟をちらりと見てから、アルベルトへ視線を戻した。怒っているのは間違いない。ただ、それ以上に、目の前の男がどういう道を通ってこの結論へ辿り着いたのか理解できずにいる顔だった。
「私はしていない結婚を恥じてなどおりません。そもそも私が未婚でおりますのは、女神に仕える者として果たすべき役目を優先しているためです。
ですが、あなたが何を勘違いしておられるのかは、ようやく分かりました。ルシアン、少しこちらへ来てちょうだい」
呼ばれた若い男がやってきた。王宮騎士の女も自然に隣へ並ぶ。近くで見ると姉とはあまり似ていない。黒髪で、母方の血が濃いのだろう。顔立ちが若く、細身で、文官らしく剣も帯びていなかった。
「こちらは弟のルシアンです。そしてアルベルト様、あなたが先ほどからおっしゃっている《ヴァルナハト公爵家の秘宝》とは、この弟のことです」
アルベルトは数秒、何も言えなかった。風が吹き、近くの卓布がめくれ、使用人が慌てて銀皿を置く。そんなどうでもいい音だけが妙にはっきり聞こえた。
「では、婚礼の夜にそう言った騎士というのは、その女なのか。まさかこの男の妻だと言うつもりではないだろうな」
ルシアンは少し眉を寄せたが、隣の女が先に口を開いた。名をマルグリットといい、アデライーデ王女の筆頭護衛騎士を務めているという。そして、婚姻したのは三年前、夫が十五歳、自分が二十一歳の頃だったと説明した。
アルベルトはそこでまた話を飲み込めなくなった。
アルセリアでは、成人した王女の私室まで随行する筆頭護衛は女性に限られ、さらに既婚者でなければならないという古い規定がある。
百年以上前、護衛を務めていた若い女性騎士が王女へ恋情を募らせた末、当の王女を襲おうとした事件があり、それ以来残っている決まりだった。
結婚していれば絶対に王女へ懸想しないという理屈でもないため、今ではずいぶん形骸化している。それでも王族に関わる古い規則というものは、それだけで残りやすかった。
アルセリアで育った貴族なら、だいたい知っている。外国王族向けの法制史でも扱う。
アルベルトはその講義を欠席していた。
アデライーデ王女が成人を迎える年、王女は自分の護衛としてマルグリットを望んだ。
当時二十一歳だった彼女は腕もよく、近衛騎士団での評判も悪くなかったものの、未婚だったためそのまま任命することができない。
王女が兄である王太子へ不満をこぼし、王太子が、それなら結婚相手を探せばいいと軽く言った。当時十五歳だったルシアンは王太子付きの小姓を終え、王璽院へ入るための準備をしていた。公爵家の次男なので、いずれ政略結婚をすることにはなるが、まだ相手は決まっていない。王太子は自分が気に入っている少年と、妹が気に入っている騎士を一度会わせてみればいいと考えた。
公爵夫妻は最初、ずいぶん嫌な顔をした。家柄の問題ではなく、二十一歳と十五歳という年齢差である。
マルグリット自身も気にしていたため、最初の顔合わせでは結婚を急ぐつもりはないと話した。ただし、王女の成人に合わせて護衛任命を受けるには婚姻を先に済ませる必要がある。結局、本人同士を何度か会わせ、それから決めることになった。
会わせてみると拍子抜けするほど問題がなかった。
ルシアンは自分より年上の女を嫌がらず、マルグリットも年下だからと子供扱いしない。二人とも朝が早く、舞踏会が苦手で、休日に遠出するより家にいる方が好きだった。
ルシアンは話している途中で考え込む癖があり、マルグリットは沈黙を埋めようとしない。逆にマルグリットが仕事の話を始めると長くなるが、ルシアンは途中で飽きない。
結婚するかどうかを決めるための二度目の面会では、王宮厨房で出される固いパンをどうにかできないかという話をして帰ってきたという。
婚姻はその年の秋に決まった。ただし夫婦生活については、マルグリットがルシアンの成人まで待つと決めた。十八歳までは寝室も分ける。ルシアン自身はそこまで気を遣わなくてもいいと一度だけ言ったらしいが、十五歳にその判断をさせるつもりはないと返され、それ以上は何も言わなかった。
したがって、王都で語られている《初夜》は、本当に夫婦になって最初に迎えた夜という意味しかない。
婚礼のあと、二人は公爵邸へ戻り、式の最中ほとんど食事ができなかったため、厨房に残してもらった鳥肉のスープや柔らかいパン、梨の焼き菓子を食べながら、この先の生活について話した。
マルグリットが王宮で泊まりになる場合の連絡、ルシアンが領地へ戻るときのこと、家計の扱い。婚姻前にもある程度決めていたのに、二人とも改めて確認したかったらしい。
その中で、マルグリットは自分の仕事について話した。
「私が殿下とあなたを同時に守れない状況になった場合、迷わず殿下を選ぶと申し上げました。私は殿下の護衛になるために婚姻するのですから、そこを曖昧にしたまま夫婦になる方が不誠実だと思ったのです。ルシアンが嫌なら、その時点で婚姻を取りやめても構わないとも伝えました」
「それでこいつは納得したというのか。伴侶から、危機の際には自分を置いて他人のところへ行くと言われて、それでも結婚したと? 俺には理解できん」
今度はルシアンが口を開いた。声は穏やかだったが、説明を面倒がっているのは少し分かった。
「妻には妻の仕事があります。私の身は私ができる限り自分で守りますし、妻が帰ってくる家は私が守る。
いずれ子供ができれば、その子も私たち二人で守ればいい。ですから妻には姫殿下をお願いします、と答えました。それだけの話ですよ」
マルグリットが少し笑い、「正確には、そのあと『一緒に国も良くしましょう』とまで言っていました。十五歳の新郎が婚礼の夜にする話としては、私も少々おかしいと思いましたが」と付け加えた。
ルシアンは露骨に嫌そうな顔をした。
「そこまで言わなくていいでしょう。三年前の話ですし、私も若かったんです」
庭のどこかから笑い声が漏れた。
その返答まで含めて、王都では有名な話だった。翌日に聞いたアデライーデ王女は大笑いし、兄の王太子は、夫婦になった夜まで仕事の相談をしたのかとさらに笑った。
そのあとマルグリットには正式な筆頭護衛騎士の任命状が出され、ルシアンには婚礼祝いとして、本人が前から欲しがっていた王宮古文書庫への特別閲覧許可が与えられた。王太子は、本当に婚礼祝いが古文書庫でいいのかと二度確認したという。
《公爵家の秘宝》という呼び名も、その場でようやくアルベルトへ説明された。
ルシアンは幼い頃から妙に物覚えがよく、一度読んだ書類の文面を何ヶ月も覚えていた。十一歳のとき、父親の執務机へ積まれた領地報告書を勝手に読み、二年前から同じ橋の修繕費が計上され続けていることへ気づいた。橋は一度しか直しておらず、役人が少額ずつ抜いていたのである。その件で王都まで報告が上がり、当時王太子だった現国王が公爵へ、銀山だけでも十分なのにまだ家に宝を隠していたのか、と手紙を書いた。
それ以前から、公爵夫人が顔立ちの整った末息子を冗談半分に宝物と呼んでいたこともあって、《公爵家の秘宝》という呼び名だけが残った。
エレオノーラではなかった。
捨てられた女でも、離縁して戻ってきた娘でもない。
最初から最後まで、まるで別人の話だった。
アルベルトの顔は赤くなった。恥ずかしかったのだと思う。ただ、彼は恥をかくと謝るより先に腹を立てる癖がある。
「それでも私が王子であることに変わりはない。秘宝の件は俺の勘違いだったとしても、エレオノーラ嬢へ求婚する資格までなくなるわけではないだろう。
むしろこの家にとっても、外国王家の血を迎えることには十分な利点がある。長男は領地を任せればよいし、次男も今の仕事を続けさせればいい。俺が家へ入ったところで、誰も困ることはないはずだ」
公爵夫人の顔が変わった。それまでは娘への侮辱に腹を立てつつも、外国王族である以上、表向きには穏便に帰すつもりだった。しかし《家へ入る》という言葉を聞き、酒場で流れていた噂と話がつながった。
「あなたは我が娘と婚姻したあと、ヴァルナハト家の家政や領地経営へ口を出すおつもりだったのですね。それも、当主である夫や跡継ぎの息子がいることを承知の上で。
先ほどからのお話を聞く限り、我が家の事情についてほとんど何もお調べになっていないようですが」
さすがのアルベルトも、それにはすぐ答えられなかった。
ちょうどそのとき、庭の入口で老家令が誰かと話していた。朝からアルベルトを探していたグラーツェン大使館の書記官だった。隣にはアルセリア外務院の役人もいる。二人とも場の空気がおかしいことに気づき、足を止めた。
アルベルトの方が先に書記官を見つけた。
「ちょうどいいところへ来た。こちらは俺が外国王子だということまで忘れたらしい。グラーツェン王家の人間へどういう礼を取るべきか、おまえから説明してやれ」
書記官はしばらく黙った。顔色が悪い。いつもなら殿下と呼ぶところで一度口を開きかけ、それから言い直した。
「アルベルト様、本国より昨日、正式な通達が届いております。陛下はあなたの王籍離脱を裁可されました。王位継承権、王族称号、王家の家名およびそれに伴う貴族身分、年金、王家財産の使用権はすべて失効しております。
本件については、すでにアルセリア王国へも通知済みです。昨日からお宿へ何度も伺っておりますが、お戻りにならなかったため、本日まで直接お伝えできませんでした」
アルベルトは聞こえなかったような顔をした。次いで胸元へ手をやり、王家の紋章を彫ったメダリオンを見せる。
「そんなものは聞いていない。父上が俺を王族から外すはずがないだろう。これを見ろ、王家から与えられたメダリオンだ。俺が何者かはこれで分かる」
書記官は痛ましいものを見るような顔をした。
「そのメダリオンも、王族身分に伴って貸与された品ですので返還対象となっております。今ここで無理にお取りするつもりはございませんが、本日中に大使館へお返しください。
また、本国政府からアルベルト様個人に対する外交特権を求める意思はないことも、アルセリア外務院へお伝えするよう命じられております」
それで、公爵家側の扱いが決まった。
外国王族ならば、多少の無礼も外交問題として処理しなければならない。外国の一私人なら話が違う。貴族家の催しで令嬢を公然と侮辱し、その家産へ介入する意図を口にし、主人から退去を求められてなお居座る男。それだけだった。
公爵家はアルベルトへ帰るよう告げた。
アルベルトは帰らなかった。
自分は王子だと言い張り、家令が近づけば腕を振り払った。そこまではまだよかったが、止めようとした従僕を突き飛ばした。相手は卓へぶつかり、銀皿が落ち、林檎が芝生を転がった。公爵家の犬がそれを追おうとし、エレオノーラから「食べてはいけません」と言われると、犬だけは素直に止まった。
コンラートが衛兵を呼んだ。
そのときになってアルベルトはようやく、自分が本当に捕まるらしいと気づいた。
衛兵に腕を取られても、しばらくは自分に触れるなと怒鳴った。それでも誰も手を離さない。王子だともう一度言ってみたが、返事もない。胸元のメダリオンだけは、屋敷を出る前に大使館書記官へ返すことになった。
アルベルトはその日の夕方までに王都治安局へ移された。
最初は公爵家での騒動だけが問題になるはずだった。ところが王籍を失ったという情報が広がると、別のものが出てきた。
宿屋から未払いの宿泊費。仕立屋から上着三着と礼装一式。靴屋、宝飾商、馬車屋。酒場が二軒。賭場は三軒。いずれも外国王子だからと信用して後払いを認めており、大使館へ請求すれば済むと思っていた店も多かった。
もっとも、大使館がそれらの支払いを保証した事実は一度もない。店側が外国王子なら最終的には王家が払うだろうと勝手に信用しただけだった。
宿へ置いていた私物は差し押さえられた。王家から貸与されていたものは大使館が回収し、それ以外で換金できる品は債権者へ回った。金糸の礼服は、まだ代金の半分しか支払われていなかったため仕立屋が持っていった。馬も一頭あったが、あれは最初から王家の所有だった。最後に残ったのは、古い旅行鞄と普段着が何枚かだけだった。
裁判まで一ヶ月かかった。王族資格を失ったあとも王子を名乗って店から信用を得ようとした件については、本人が通達を受け取っていなかったことが認められた。一方で、公爵令嬢への侮辱と従僕への暴行は残る。罰金も出た。
払えなかった。
父王へ金を求める手紙を書いた。一通目は返事がなく、二通目には大使館を通じて短い回答が届いた。成人した私人の刑罰および債務について、グラーツェン王家は関与しない。それだけだった。
母親へも書いた。こちらからは長い返事が来たが、金は入っていなかった。母自身の年金は王家から出ており、息子の罰金を肩代わりすれば今後の支給へ関わると王から告げられていた。
手紙には身体を大事にしろ、酒を控えろ、人が話している途中で口を挟むな、子供の頃からあなたは腹が立つと先に口が動く、と書かれていた。最後の方には、昔から靴下を片方ずつなくしていたけれど今もそうなのか、とまであった。
アルベルトは途中まで読んで破いた。
その日の夜、破いた紙を拾って繋げ、母親が靴下の次に何を書いたのかだけ確認した。
結局、数ヶ月を王都郊外の労役所で過ごすことになった。重罪人が行く場所ではなく、罰金を支払えない者や短期の刑を受けた者が働く施設だった。
道路用の石を運び、倉庫の荷を積み、冬には河川敷の土嚢を作る。王族だったから特別につらい仕事を与えられるわけでもなく、軽くもされない。それがアルベルトには一番耐え難かった。
誰も彼を憎んでいない。監督官は朝になれば番号で呼び、返事が遅ければもう一度呼ぶ。食事は全員同じ。元王子だと話せば最初の数日は面白がられたが、やがて飽きられた。
ただし、ここでもアルベルトは妙な具合に馴染んだ。
石を運ぶ作業で隣になった男から、「王子なら俺の分も一個持て」とからかわれたときは本気で腹を立てた。それでも三日後には、その男と昼食の豆を交換している。昔なら平民からそんな口を利かれれば怒ったかもしれないが、相手が最初から自分を元王子としか見ていないため、アルベルトの中では問題にならないらしかった。
差し押さえた私物の換価と労役中の報酬の配分が終わり、残債についても債権者との処理がまとまったところで、国外退去となった。
グラーツェンまで送る馬車は王家から出ない。アルセリア政府が手配した護送用の乗合馬車で国境まで行き、そこから先は自分で帰るよう言われた。大使館の書記官が最後に渡した金は、本国が旅費として認めた最低限の額だった。
グラーツェンへ入国したあと、アルベルトは当然のように王都へ戻ろうとした。しかし入城許可が下りていない。王族ではない者が王宮へ入るには招待か許可が必要で、彼にはどちらもなかった。
父王が用意していたのは、南部の小さな町での戸籍と、それに一年分の最低限の生活費だった。以後は自分で働くこと。王家の名を使って借財した場合、今度は自国の法で詐欺として扱う。その旨が通知に明記されていた。
王籍を外したからといって、元王子をそのまま街道へ放り出し、浮浪者になるに任せるほど父王も無責任ではなかった。何だかんだ言って、息子たちの中ではアルベルトが一番自分に顔立ちが似ていたということもある。自分によく似た顔で次から次へとろくでもないことをやらかすので、本当にこいつをどうしてくれようと胃が悲鳴を上げる日々ではあったが、それでも、放り出して勝手に野垂れ死ぬのを待つ、という選択まではできなかった。
アルベルトは王宮へ手紙を送った。一通目も二通目も返事はなく、三通目は受取そのものを断られた。
父王はその頃、息子のことをほとんど話さなくなっていた。一度だけ末の王子が食卓で兄の名を出したときも、肉を切る手を止めず、アルベルトはもう王族ではないから宮中で名を呼ぶな、と注意しただけである。
アルセリアでは、例の騒ぎからしばらく《公爵家の秘宝》の話が以前よりよく語られた。
外国の王子が秘宝をエレオノーラだと思い込み求婚したところまでは事実だが、一年もすると、アルベルトは彼女へ跪いて泣きながら結婚を迫ったことになった。その翌年には公爵邸へ剣を持って押し入った話まで加わった。実際には跪いてもいないし、剣も持っていない。王都の噂というものは昔からそういうところがある。
ルシアンは一時期それを嫌がった。王璽院で顔を合わせるたび、同僚から「秘宝殿、今日は奥方に見捨てられませんでしたか」とからかわれたためである。三週間ほど我慢し、その後、書類の誤字を普段より細かく差し戻すようになったところで、からかう者は減った。マルグリットはさほど気にせず、むしろ王女が面白がって何度も昔の話を蒸し返す方に困っていた。
二人の暮らしは、それまでとほとんど変わらない。勤務が同じ時刻に終われば一緒に帰る。マルグリットが夜勤ならルシアンは先に寝るし、ルシアンが王宮へ泊まり込む日は妻も迎えには行かない。
結婚して何年も経てば、毎回見送ったり迎えたりする方が面倒だった。休みが重なれば昼まで寝ることもあり、家で夕食を取る日は同じ卓につく。ルシアンは魚の骨を取るのが下手で、マルグリットは果物の皮を厚く剥きすぎる。どちらが先に気づいても特に指摘せず、相手の皿へ手を伸ばした。
ある冬の夜、マルグリットが王宮から戻ると、ルシアンは居間で兄から回ってきた領地の書類を読んでいた。暖炉の前では、姉のところから一時預かりしたはずがそのまま居ついた猟犬が腹を出して寝ている。マルグリットが外套を脱ぐ音にも片耳を動かしただけだった。
「今日、殿下がまた三年前の話を外国の使節へなさっていました。あなたが私に、我が身は自分で守るから、妻は姫殿下を守ってほしいと告げた話です。先方がずいぶん気に入ったらしく、今度はどこまで広がるのか少し心配になってきました」
ルシアンは書類から顔を上げ、しばらく考えた。
「殿下、少しだけ覚え違いをなさっていますね。私はあなたの帰る家を守るとは言いましたけど、何があっても守るなんて立派なことは言っていません。そんな約束、できませんから。私の方が先に死ぬかもしれませんし」
マルグリットは少し笑った。
「それを訂正したら、殿下はきっと面白がって次の方にもお話しになりますよ。ですから黙っておきましょう。それで……今ならどう答えますか。三年前と同じことを私が言ったら」
「たぶん、同じです。私は私にできることをしますから、あなたもあなたにできることをしてください。ただ、十五の頃よりは少しくらい、あなたが帰ってきやすい家にできているといいんですが」
「それなら十分です。ちゃんと帰ってきていますから。……ところで、その帰る家の主人は夕食を食べましたか?」
マルグリットが立ち上がると、犬も当然のようにその後を追った。ルシアンも一緒に行こうかと思ったが、せめて手元の一枚だけは片づけてしまおうと書類へ目を戻す。ところがしばらくして厨房から、どうやら犬が肉を一切れ盗み食いしたらしい妻の声が聞こえてきたため、結局そちらへ様子を見に行くことになった。少し遅くなった夫婦と犬の夕食は、どうやら静かには済みそうになかった。
その頃、グラーツェン南部の街道沿いにある小さな宿では、アルベルトが宿帳を前にしていた。
冬の日暮れは早く、外ではもう雪が降り始めていた。王都から遠く離れたこの辺りでは、彼が昔どんな服を着て、どの夜会へ出入りし、誰を殴って父王の頭を悩ませたのかなど知る者はいない。
宿の主人も、目の前の男が一年前まで王族だったと聞いたところで、そういうこともあるのだろうという顔をしただけだった。元軍人も泊まれば、商売に失敗して身一つで流れてくる者もいる宿である。昨日まで何者だったかより、今夜の宿代を払えるかどうかの方が、主人にとってはよほど確かな話だった。
アルベルトは氏名欄へ、長年そうしてきた癖のまま、アルベルト・フォン・グラーツェンと書いた。
主人がそれを見て、横へ置かれた通行証を確かめる。
「失礼ですが、こちらの書類とはお名前が違っています。通行証にはアルベルト・グラーツェンとありますので、役所へ提出する宿帳も同じ表記でお願いできますか。貴族名を使える事情がおありなら、身分証の方を先に直していただく必要があります」
アルベルトは、私は王子として生まれたのだからフォンを名乗る権利がある、と言い返しかけた。しかし主人が反論する様子もなく、ただ仕事として待っているのを見て、しばらく黙った。
やがて名前へ乱暴に線を引く。
紙の上から、フォンが消えた。
その下には職業を書く欄がある。
筆が止まった。
王子、と書こうとして、さすがに手が動かなかった。父の名を書いても仕事にはならない。役所から紹介された仕事にはまだ一度も就いていない。アルセリアで道路の石を運んだ半年を職歴だと思ったこともなかった。土地もない。軍籍もない。学院は修了していない。何かを商ったことも、誰かへ正式に雇われたこともない。
主人は急かさず待っていた。
「書くものがない」
「でしたら、現在は無職ということでよろしいでしょうか。別に珍しいことでもありませんので、それでしたらそのようにお願いします。こちらとしては宿帳と通行証の内容が合っていれば十分です」
アルベルトは主人を睨んだが、田舎で宿屋を二十年やっている男は怯まなかった。金を持っていない元王子より、酔って椅子を壊す木こりの方がよほど面倒である。
しばらくして、アルベルトは自分で書いた。
無職。
主人は宿帳を確認し、一泊分を先に頼むと手を出した。
財布の中には銅貨しかない。一枚ずつ数えて主人の掌へ置いた。王子だった頃なら一度の酒にも足りなかった額を、主人はきちんと数えてから部屋の鍵を渡した。
翌朝、宿を出ようとしたところで、入口に三人の男が待っていた。
アルベルトがこの町へ移されてから顔を合わせるようになった連中だった。一人は石工、一人は馬具職人、最後の一人については何の仕事をしているのかアルベルトもよく知らない。本人へ聞いたことはあるが、「金になることをだいたい何でも」としか答えなかったので、そのままになっている。三人とも、彼が本当に元王子だったと知る前から酒場で顔を合わせていた。
男がいきなり肩を叩いた。かなり強く、アルベルトが顔をしかめる。
「おまえ、本当に王子じゃなくなったんだってな。噂を聞いたぞ。ずいぶん前の話らしいが、この辺まで届くのには時間がかかった。
まあ何だ、身内と縁が切れるのは気分のいいものじゃないだろうし、今日は俺たちが一杯くらい奢ってやる。朝から飲むのが嫌なら昼まで待つから、その間うちの現場でも見ていろ」
馬具職人も背中をばんばん叩く。
「俺は前から、殿下なんて呼ぶの面倒だったから別に変わらないけどな。
おまえもいちいち『俺は王子だ』って言わなくて済むようになったんだから、少し静かになってちょうどいいだろ。ただ金がなくなったなら働け。うちじゃ無理だぞ、革を切らせたら絶対曲げる顔をしてる」
石工も雑に肩へ腕を回してきた。
「石運びならやったことあるって前に言ってたじゃないか。刑罰でだろうが何だろうが、運んだ石は石だ。手が二本あって腰がまだ動くなら、親方へ聞いてやるよ。
元王子だから日当を増やせなんて言ったらその場で帰されるだろうけど、おまえなら言いそうだから先に言っておく」
アルベルトは三人を順に見た。王族ではなくなり、金もなく、父親には会うことさえ許されない。家も領地もなく、昨夜には宿帳の職業欄へ自分の手で無職と書いたばかりだった。それでも目の前の男たちは、そんな事情をアルベルト本人が思っていたほど大層なものとは考えていないらしい。
「……石なら運べる。半年やったと言っただろう。おまえらより速いかもしれん。ただし昼飯は出るのか。アルセリアの労役所では豆ばかりだったから、しばらく豆は食いたくない」
石工は笑いながら、そんな注文をする無職があるか、ともう一度背中を叩いた。アルベルトも腹を立ててその肩を押し返し、四人はそのまま街道を歩いていく。
生まれたときから当たり前のようについていた名前が紙の上から消えても、本人まで一緒になくなるわけではないらしい。
父王がこの光景を見れば、おそらくまた頭を抱えただろう。あれだけ手を焼かせ、王籍を失い、外国で牢へ入り、借金を作り、とうとう宿帳へ無職と書くところまで来たというのに、当人はその辺の職人と口喧嘩をし、酒を飲み、どうやら仕事まで見つけようとしている。
悲劇の王子になるには図太すぎるし、心を入れ替えた放蕩息子と呼ぶには、たぶん今後も何かしらやらかす。父王が昔から持て余していた通り、アルベルトは息子というより、妙に生命力のある何かだった。
小さめの厄災は、王子でなくなった程度ではどうにもならなかった。




