18話
8月29日
今日は病室に楓子はいなかったが、ノックをした時点で「どなたですか」と言われる。
「音桐です」と言うと「帰ってください」と言われたので渋々帰ることにした。
8月30日
今日も病室に入れてはもらえなかった。
帰り際に「私は三顧の礼で絆されるほど安い女じゃありませんから」と言われた。いずれは彼女も折れてくれるんじゃないかと心のどこかで思っていたことを見透かされたような気がして肝が冷えた。
休学前の『音桐壮二』にさえほとんど使わなかった敬語で綴られる桜子の思いの丈の一つ一つは、音桐の身体に、心に痛いほど突き刺さった。
8月31日
台風が近隣を通過しているらしく、その日は朝から大雨洪水警報が発令されていた。台風が少し弱まってから出かけることも考えたが、どうやら夜までひどい雨と風が続くらしいので気にせず昼前に家を出た。横殴りの雨と風に傘はほとんど役に立たず、病院につくころにはびしょぬれになっていた。
このまま病院に入るのはどうかと思ったので、併設されているコンビニでタオルを買って申し訳程度の応急処置をした。
病室の白い扉をノックする。以前までは容易く開いていたその扉は、今はまるで壁のように思えた。
「どなたですか?」といつものように返事が返ってくる。
「音桐です」とだけ答えた。少し間が空く。
「こんな日も来たんですか。全くあきれますね。――いいですよ。入ってください」
思わぬ返事にびっくりしながらも音桐はドアをスライドさせて中へ入室した。
「卑怯者」
入室した瞬間、恐ろしく低いトーンで一言だけそう呟かれた。
「こんな日に来られて話しも聞いてあげなかったら、私が悪者になるじゃないですか。ホント卑怯」
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど。このぐらいで来なくなったら、やっぱりその程度の気持ちだったんだなって思われそうで」
「だから。そもそも毎日行けば許してもらえるっていう発想が卑怯で……」
「ごめん」
「そうやってすぐ謝るのも卑怯だよね」
そう言われると音桐は言葉に窮すほかなかった。
「結局さ、音桐君はなんで嘘を吐いていたの」
「言った通りだよ。ずっと自分と星合さんじゃ釣り合わないと思ってた」
「馬鹿だなあ。そんなこと気にしないのに」
「そうかもしれない、とは思えるようになったよ。これは楓子さんのおかげかな。姉さんはそんなこと気にしないって言われた。でも君が気にしなくても、やっぱり僕にとってはそれじゃあ根本的な解決にはならないんだよ。僕のほうが気にしてるんだ。星合さんの友達や創作仲間として自分が相応しくないんじゃないかって」
「釣り合ってないってのは、海で言ってた。容姿がどうとか、そういうこと」
「それもあるよ。加えて君は今注目の高校生作家で、時の人だし」
「ああいうのは回転が速いから。全国規模では星合桜子なんて誰も覚えていないよ。この町では地元が生んだ二代続けての作家の片割れとして少しばかり他所よりありがたがられてるだけ」
だがそれも本当の理由とは言いがたい。音桐は海で柳子にしたように桜子がまだ学校に来ているときに起こった2つのできごとを口に出して、それ以来自分が彼女に負い目を感じていることを吐露した。彼女も文芸部での出来事のほうはよく覚えているようだった。
「まあショックじゃなかったといえば嘘になるかな」
桜子は当時の感情を思い出してみるかのように、目を細めながら言った。
「あ、別に音桐君が相槌打ってたことが特別ショックだったとかそういうわけじゃなく。皆からそう思われたんだなってのが、ね。
でもさ、音桐くんはそのときのことを負い目に感じてるから私に付き合ってくれてるんでしょ。それともそれとこれとは関係ないのかな。なんにしても音桐くんも他人のために行動できる人なんだと思うけどな」
「いやそんなのは他人のためでも何でもないよ。そもそも僕作家星合桜子のファンだからね。それと星合さんに一緒にいるのを義務みたいに感じる男子もいないと思うよ。あくまで一般論としてだけど」
音桐は最後の一文をあわてて取り繕うように付け加えた。
「そんなこと言い始めたら純粋な善意からの行動なんて世の中にどれぐらいあるのか」
桜子は消え入りそうな声でそう言った。彼女の耳を見るとほんのりと赤味が注しているのがわかった。
「意外だな。星合さんはこんな台詞言われなれてると思った」
「慣れるほどは言われてないよ。そういう音桐くんこそ、結構さらりと言ったじゃん。案外言い慣れてたりして」
「君が僕の表情を見ることができなくてよかったと思っているよ」
「むぅ、悔しいなあ」
桜子は自らの表情を隠すように布団を被った。
「――別に負け惜しみでいうわけじゃないけど、あなたが同じクラスの『音桐壮二』君なんじゃないかってことは、少しだけ感じてた。いやそれは言い過ぎだな。どこかで聞いたような声だと思ったぐらい」
やはりそうだったのか。桜子が本当は『皆川俊』の正体に気付いているんじゃないかという懸念は、音桐のなかにも少しだけあった。
彼女は以前に声だけで面会者が『皆川俊』だということを当てたし、楓子や瑛とのやり取りのなかで声だけで相手を識別しているシーンは何度も目撃している。
「まさか本当に嘘を吐いているとは思わなかったけど。でも覚悟はしていたつもり。数回しか会ってない。顔も見てない人に心を許すほど安い人間のつもりはないから。それなのに、あのとき私の心は想像以上にショックを受けた。
音桐君が嘘を吐いていたのもそりゃあショックだったけど。私は私がショックを受けてることが一番ショックだった。だから今まで通りでいいよ」
「ありがたいんだけどさ。僕はそれじゃあ納得がいかないんだ」
「この状況で音桐くんに拒否権があると思うの?」
桜子は笑顔で不穏当なことを言った。その温度の低い笑みに、音桐はまた自分の背筋が冷たくなるのを感じた。
「大体さ。だったらどうしたいの? わたしはてっきり許して欲しいからここに来てるんだと思ったんだけど」
「許して欲しいよ。でも簡単には許されたくないんだ」
「面倒臭」
「わかってるよ。嘘以前に、僕が桜子さんの友達や創作仲間でいられるのは偶然によるものだ。僕はたまたまこの病院で桜子さんにあって、たまたま桜子さんの作品を読んでいた。それだけなんだ。僕は文芸部だけど小説家なんて夢にも思えない程度の筆力しかないし、世の中には僕なんかよりずっと君の作品を読みこんでいるファンがいるはずだ。だから――」
「だから?」
「だから僕は少しでも君に近付けるよう努力し続けるよ」
「そんな風に気負う必要はないって言っても無駄なんだろうね」
桜子はそう言い終えると呆れたように微笑した。窓の外では木々の先にある少し色づいた葉が強風に揺らされていた。
感想などいただければ幸いに存じます。




