外話 その裏では
ポタポタと流れ落ちる汗が床に広がる。
イギーは汗がつくとマズイなと、床に拡げた書類を飛沫がかからない様にずらした。
その光景を見た思惟は、溜息を吐きながら言う。
「書類を見るか身体鍛えるか、どっちか一方にしたら?」
「馬鹿言うな、身体を鍛える暇もない上に人手が足りないんだ。同時に出来るならそうしてるにすぎん」
「とは言ってもね。気になっちゃうわよ?」
思惟が言うのも無理はない。
体育館の二階・テラスの様に体育館を見渡せる場所で、上半身裸の男が片手で倒立した状態で腕立て伏せをしながら書類を読んでいるのだ。
悪い事ではないが、何か鬱陶しい。
「そもそも鍛錬ってのはイメージを持ちながらやるモノよ。そう思わない宗像君?」
「いやっ、はっ、それはっ、そうっ、何ですけどぉっ⁉」
かく言う思惟は宗像と軽い手合わせをしていた。
パンパンと小気味の良い音を立てながらお互いの攻撃をいなしている鍛錬だった筈が、いつの間にか宗像が押されていたりする。
「ちょっ思惟さんっ、詠春拳の組手じゃっ⁉」
「あ、ゴメン。蟷螂拳になってた」
詠春拳、かつての香港カンフースターのブルース・リーが幼少の時に使っていた拳法だ。
コンパクトかつ流れる様な手の動きが特徴の拳法で、カマキリの動きを模した蟷螂拳とは一線を画した拳法だ。
だからこそ宗像は思惟の動きが違う事に気付いたのだが、実際動きが違うとは言えいかんせん実力が違いすぎた。
「ちょっ、動きが早過ぎるっ‼」
「何言ってるのよ骨法使い、スピーディかつ正確な急所狙いがあんたらの売りでしょうが、こんなんで音を上げない」
「五年ぐらいしかやってない自分には高度過ぎますよっ⁉」
骨法とは古く日本から伝わる拳法ではある。
試合風景をみるとペチペチと叩き合う光景に、本当に武道かと見間違うが実際の所は思惟の言う事が正しい。(作中の話です)
裏の世界の文献によると、元々は身体鍛練術の一環であった技に投げ技や関節技に『徹し』と呼ばれる突き技を加えたインスタントな武術だったと言うが、流石に千年近く続くとシステマチックなキチンとした武術になっていた。
急所狙いの徹しや関節技・あびせ蹴りや摺り蹴りなどの蹴り技もある強力な武術である。
しかし、いかんせん相手と使い手の武術歴が違い過ぎた。
「あんた拳神とか言われてるんでしょーが‼ ちょっとは手加減プリーズ‼」
「何言ってるの? 骨法にも似たようなのあるでしょ、早くしなさい。ハリーハリー♪」
「手乞い苦手なんすよーっ!!!」
ペチペチと戦う打ち合いの中、相手の動きを相手の手で封じながら戦うのが手乞いだ。
古事記にも出てくる技で、元々は相撲の技である。
詠春拳の動きに似ているので練習をしている宗像に、少し手合わせしようと思惟が持ち掛けたのがこの事態の始まりだったりする。
いわゆる暇つぶしと言う奴で、イギーよろしくいい性格をしているとしか言わざるを得ない。
そんな暇つぶしで精神をガリガリと削られる戦いに引きずりこまれてはたまらないと、宗像は悲鳴をあげるが思惟の手は緩まないどころかスピードが上がっていく。
能力者といえども慣れない苦手な事は処理能力を超えるので、焦る宗像。
しかしその宗像にまさに救いの手がはいる。
言葉通りの手がスッと打ち合いに入って来て、思惟の手を弾く。
「先輩っ⁉」
「イギー、宗像君の鍛練を邪魔しない」
「思惟、お前は性急に運び過ぎた。鍛錬を暇つぶしにやるな」
その手はいつの間にか白いワイシャツを着ていたイギーの手だった。
「俺が付き合う。宗像、少し下がれ」
「はいっ」
思惟の手を捌きながら、宗像はイギーと身体の位置を交換する。
二・三合捌きあうとピタリと二人の動きが止った。
「個人的にあんたとはやり合いたいのはあるけど、あんた相手じゃ鍛練にならないんだけどね?」
「たまには付き合うって事だ」
「基礎的な鍛練なのよ、やりたいのは……いいわ、少し高度な戦闘ってのをやりましょ?」
「いいね、最近ご無沙汰なんだ」
「ふんっ、ちゃんとついて来なさいよ。宗像君もちゃんと見てる様にね」
「ウス」
二人のユックリとしながら深い呼吸。
それの途切れが合図かの様に、二人の動きが閃く。
「むっ」
それを見ていた宗像は思わず呻く。
拳速の早さは当然だが、まさに決められた演舞を見せられている様な打ち合いに息を止めて見入ってしまったのだ。
「宗像君、これが高度な戦闘って奴よ。人には攻撃出来る場所が幾つかある。拳・肘・肩・頭・膝・足・腰とか八箇所……あれ? 七つ?」
「拳と掌が重複して八つだ」
「あっ、そだそだ。まあ、その八つを使って間断なく攻めるってのが高度な戦闘なのよ」
「えーっと、思惟さん。意味がわかりません」
「まあ、普通は解らないだろうな? 思惟、スタイルを変える」
「あいよっ」
イギーの宣言と同時に、彼は一歩引いて拳を引き、やや猫背ぎみになり爪先でリズムをとるように動き始める。
それは正しくボクサーの動き、それも機動力を売りとするアウトボクサーのそれだ。
「例えば、こんなアウトボクサーの場合はねっ」
大抵の人間が知っているであろうボクシングの技、ジャブ。
腰を使わずに力をあまり入れずに打つボクシングにおいて、もっとも多く多用される技だ。
力が入っていない技とは言え、それに反して拳速は格闘技中最速と言っても良い程のスピードである。
イギーが放っていたのはその基本のジャブだ。
コンパクトな構えからの高速のジャブは、本職のボクサーが見ても息を飲む程のスピードだったが、傍目で見ていた宗像は思惟に目を見張った。
「こんな感じかな? これが高度な戦闘の基本よ、見た感じ簡単なんだけどね」
通常は見られないような動きだった。
思惟はジャブのスピードに合わせてジャブの腕の外側に移動すると、腕が伸びきった瞬間に合わせて手首を掴んでいた。
それを振りほどこうとするイギーの肘に手の甲を当てると、関節を軽く極める。
「意外と難しいのよコレ。相手に張り付いて離れないようにして行う戦い方。アウトボクサーに対しては、こんな感じに相手の攻撃範囲から外れてから、張り付いたように戦うの」
タンっという床を蹴る音、イギーの体が極められた腕を中心に一回転して技を外す。
と同時に腕を中心にした回転の力を乗せるようにして、切るような足刀蹴りが思惟の頭を狙う。
「カポエイラのケシャーダの変形?」
「ジンガの変形だ、そらっ」
体を捻りながら上体を屈め、後ろ蹴りを放つのがカポエイラのジンガという技だ。
体を回転させながら上体を屈めているので、変形と言われても構わないだろう。
逆立ちになった状態でイギーは更に蹴りを放つ。
それを見ながら、思惟は宗像に声をかけながら行動を開始する。
「神道流や能力者に伝わる戦闘法には、絶対と言って良い程この技術があるわ。目的は簡単、能力者の励起法が原因なのよ。能力者の励起法は深度の差が絶望的な差になるからなのはわかるわね? ではどうやってその絶望的な差を覆すか、と言われたらこの戦闘法よ。八極拳で言うところの挨・膀・擠・靠、太極拳で言うところの沾・粘・連・随。これは相手の間合いに素早く入り相手の側面に入り密着」
思惟は言葉を続けながら手を動かしている。
蹴り足の動きを見切り前掃腿(しゃがみながらの足払い)を仕掛ける。
イギーは腕の力だけで飛びそれを躱すと再びボクシングのステップで後ろに下がるが、思惟はそうはさせまいと立ち上がる力をそのままに一気に間合いを詰め彼の懐へと入る。
「密着、要するに相手の体を制限するのよ、相手の攻撃範囲を絞りながら攻撃を封じその状態から相手をコントロールする。そしてもし攻撃をしてくるようであれば」
イギーの体を縮めるようにしてフックを繰り出す。
が、それよりも早く思惟の掌がイギーの体を押しだした。
「本来ならば腰や肩を使って何だけど。こうやって崩すのよ、相手の体勢をね」
体勢を崩すと言いながら、実際のそれは強烈な掌打でイギーは盛大に吹っ飛んでいく。
その状況を見ながら宗像は顔を引きつらせながら頷いた。
下手なツッコミはマズイのだ。
「イツツツ、頭ぶつけたじゃないか、全く」
「打撃を逃がすために自分で後ろに跳んだ奴がよく言うわ………まあ、これが高度な戦闘法ってやつよ、理解できた?」
「理解できたというかですね、これフツーの事なんじゃ?」
「普通よ? でもね、意外と実践できないものなのよ」
「そうだ、状況は刻一刻と進む。普通が普通に進まないものだ。それを上手く予想して技を繰り出し流れを引き寄せる」
イギーの言葉に宗像は成程と頷いた。
「戦研のミーティングでも似たことを言ってましたね。戦技は戦術で覆し、戦術は戦略で封じる」
「似たようなもんだ」
そこで一時話が途切れる。
宗像が眉間に皺をよせて押し黙ったからだ。
「どうしたの?」
「いえ、今自分が担当している奈緒美ちゃんですが、なんで先輩達が教えないのかなーと。今の説明や実演を見ていて、俺より確実に数段上のお二人が教えたほうが良いんではないかと思って」
「…少し理由があってな」




