くすしき手わざを猫は知る
テーブルの上に、伏せられた真鍮のカップが三つ。
「さあ、玉はどの中にあるでしょう」
俺が問うと、最前列に座っていた子どもの父親が指さした。
「真ん中だ」
「自信がおありのようですね」
軽く挑発してみる。
「たぶん、端のカップに入れたと見せて、隠し持ってたんじゃないかな。それからカップを入れ替えたときに、真ん中へ入れたんだ」
隣の男の子もうなずいている。後ろの観客たちも、それぞれに納得している様子だ。
公園の入り口はスーパーと住宅街が近く、休日は買い物帰りや散歩のついでに足を止める人が多い。
はじめは遠巻きに眺めていた連中も、消えた玉が別のカップの下から出てきたり、三つが一つのカップに集まったりするうちに、一歩、また一歩と前へ出てくる。
「よく見ておられましたね。では、開けてご覧に入れますよ。いいですか?」
俺は少しもったいぶってカップの縁をつまみ、持ち上げた。
赤い小さな玉が、ちょこんと一つ現れる。
「おお、正解でしたね。やっぱり大人の目はごまかせないな」
父親は息子と肘をつつき合い、得意そうに笑った。
この得意げな顔を見るのが、俺はいちばん好きだ。
タネを見破った気になった客は、その瞬間、手品師より一枚上手に立ったつもりになる。
「こりゃあ、もうちょっと練習してからの方がよかったかな」
そう言いながら、残りの二つのカップを同時に持ち上げた。
右のカップの下からは、飲み口いっぱいの黄色い玉。左の下からは、みかんが一つ転がり出た。
観客からどよめきが上がり、父親の口がぽかんと開く。子どもたちが声を上げて笑い、後ろの連中が拍手した。見破ったつもりの得意顔が、たちまち子どもみたいな笑顔に変わる。
この顔が見たかった。そのために、俺は部屋で何万回も同じ手つきを繰り返しているのだ。平日、倉庫で荷物の積み下ろしを終えたあとでも、練習だけは欠かしたことがない。
最後に長く一礼すると、改めて拍手が起き、人の輪が少しずつほどけていった。去りぎわに褒め言葉をくれる人もいる。それに応えながら、カップを重ねて布袋にしまい、マットの四隅を払い、机の脚をたたんだ。
風が少し出てきて、木々の葉が乾いた音を立てた。足元の落ち葉が、かさこそと転がっていった。それが誰かの靴先に当たって止まるのを見て、俺は、おや、と顔を上げた。
一人だけ、まだそこに立っている男の子がいた。
小学校の六年生か、中学に入ったばかりくらいだろうか。さっきまで人垣の後ろにいた子だ。特に目立つ顔立ちではなく、少し大きめのパーカーの袖口から、指先だけをのぞかせている。
「終わったよ。今日は観てくれてありがとうな」
声をかけると、少年は一歩だけ前へ出た。
「あの……俺に手品、教えてもらえませんか」
「教えてって、タネを?」
「はい」
少年はうなずいた。俺は首を横に振る。
「うーん、それは駄目だな」
「駄目ですか」
「ああ、そりゃ駄目だ。意地悪で言ってるんじゃないぞ。手品師ってのは、誰に対してもタネを秘密にするもんなんだ」
少年は俺の鞄と顔を交互に見た。すぐには引き下がらない目をしている。
「一つだけでも駄目ですか。誰にも言いません」
「誰にも言わなくてもさ、タネを聞いたって、明日から急にできるわけじゃない。なのに初心者は、まだうまくならないうちに人に見せたがるだろ。そうやってバレちゃうもんなんだよ」
少年は黙って靴先へ目を落とした。そのまま帰るかと思ったが、動かない。
「うまくなるまで練習します」
俺の芸を最後まで見て残った子だ。そうやって食い下がられるのは、案外悪い気がしなかった。
「今日、俺のはどうだった」
「すごかった」
素直ないい返事だ。見る目がある。
俺は鞄の留め金を閉めかけて、手を止めた。
「じゃあ、こうしよう。タネのないやつなら教えてやるよ」
少年がぱっと顔を上げた。
「そんなのがあるんですか」
「ある。まあ、手品と呼べるかは分からないがな」
俺はポケットから五百円玉を一枚取り出した。
右手の親指でコインを押し上げ、人差し指の背へ乗せる。コインは中指から薬指、そして小指へと生き物のように転がり、小指の下へ消えた。かと思うと、手のひら側をくぐって、また親指の横からひょいと顔を出す。コイン・ロールという技だ。
少年の目が大きく見開かれ、俺の指先に釘づけになった。
「ほら。隠す場所も、仕掛けもない。ただ指の上を歩かせてるだけだ」
もう一周させてから、コインを少年の手のひらに落としてやった。
「やってみな」
少年は俺と同じように手の甲を向け、親指でコインを押し上げた。人差し指の背に乗ったところでコインが傾き、そのまま地面へ落ちる。チャリンと乾いた音がして、靴の横へ転がった。
「あれ」
「最初は誰でもそうなる。指を上げすぎないように」
拾い上げた少年の横で、俺は自分の手を開き、極端にゆっくり動かして見せた。少年も見よう見まねで指を動かしてみるが、中指が思うように上がらず、またコインがすべり落ちる。
三度目を拾い上げたとき、少年が少し眉を寄せた。
「もっと簡単なのはありませんか?」
音を上げるのが早い。俺は少し笑った。
「簡単なのをやって、あとで『なあんだ』って言われたいのか? それとも、『どうやったらそんなふうにできるの』って言われたいか。どっちがいい?」
「あとのほう」
「それなら練習しなきゃな」
少年は立ち上がり、また指の上へコインを乗せた。
俺は最初の指から隣へ渡す動きだけを、何度か繰り返して見せた。まずは、そこだけできればいい。
その横顔を見ていると、手品を覚えたてのころをふと思い出した。
小学生のころ、公民館の図書室でページの破れかけた手品の本を見つけたのだ。そこに載っていた輪ゴムやトランプのタネを覚えては、クラスの連中に見せびらかした。得意になって友達にタネを明かしたこともある。
だが教えてみると、誰もが俺と同じように演じられるわけではなかった。指がもたついたり、見せてはいけないところに自分から視線をやってしまったりする。あのとき俺は、初めて自分に得意なことがあるのだと知った。少しばかり鼻が高かったのも覚えている。
「あ、今うまく転がった」
少年の声に、手元へ目を戻した。
五百円玉が中指の背にちょんと乗っている。
「よし。その調子で続けるんだ」
少年は俺の五百円玉を返し、自分の百円玉を親指の付け根に乗せた。
「百円でもいいですか」
「いいよ、やりやすいのを使えばいい。ただ、百円だと少し小さいし、軽すぎるかもな。まあ最初は何でもいいさ。中指を少しだけ浮かせて、迎えにいく感じだ」
俺も百円玉を出し、もう一度ゆっくりやって見せた。少年は食い入るように俺の指先を見つめる。最後に指をパチンと弾いてコインを消してみせると、少年は「あっ」と声を上げた。
弾いた拍子に、コインを袖の中へ飛ばす。それだけのことだが、我ながら目にもとまらぬ早業である。実際、自分でも目で追っているわけではない。指先と袖口の感覚だけが頼りだ。
「二か月後の土曜日に、またここでやる。その前にも、向こうの商店街の空き地に出る日がある。少しでも回るようになったら、見せに来ていいぞ」
次に出る予定と連絡先を、小さなメモに書いて渡した。
「ありがとうございます」
少年はメモをポケットにしまい、歩き出した。歩きながら、もう右手の指を動かしている。
十歩もいかないうちにチャリンと音をさせ、慌ててしゃがみ込んでいた。
*
アパートの階段を上がると、扉の前に猫が座っていた。
灰色の縞模様に、白い口元。朝、見送ってくれたときと同じ顔だ。
「ただいま」
「おかえり。風が出てきたね」
鍵を開けると、猫が先にすっと中へ入った。
俺は商売道具の折りたたみ机を壁際に立てかけ、洗面所で手を洗った。平日は倉庫で段ボールや木枠を扱っているから、指の腹はいつも少し硬くなりがちだ。ただ、手品に使う指先だけは荒らさないように、仕事中も手袋を外さないし、帰ればクリームも欠かさず塗る。
「今日、手品を教えろっていう子が残ってさ」
湯を沸かしながら言うと、食卓の椅子に飛び乗った猫がこちらを見た。
「公園にいた子だね」
「見てたのか」
「向こうのベンチの近くにいたよ」
猫は、どこにでもいる。
この部屋にいる身体も、公園のベンチの下にいた身体も、地球の反対側で誰かの膝に乗っている身体も、すべて同じ一つの意識でつながっている。
最初は気味が悪いと言う人間もいたが、俺はわりとすぐに慣れた。タネも仕掛けも全部お見通しの相手が部屋にいるというのは、手品師にとって案外悪くない。
俺は棚から練習用のハーフダラーを取り出し、椅子に座って指の上で転がした。昼間、少年に見せたのと同じ動きを、もう少し速く、滑らかにつなげる。指の間を水が流れるみたいに銀貨が渡り、小指の下へ消えては、親指の横から現れる。
「もう一回やって」
机の端から、猫が言った。
「さっき見ただろ」
「うん」
「公園でも見てたんだろ」
「もう一回」
猫は前脚をきれいにそろえて、俺の手元をじっと見ている。
俺は苦笑して、もう一度コインを親指の付け根に置いた。
こいつはタネを知っているどころか、俺が指の一本一本をどう動かし、どこで一拍置こうとしているかまで知っている。それでも、見たいと言う。そう言われると、俺のほうも、さっきよりもう少し綺麗に見せてやりたくなるから不思議だ。
今度は一周させたあと、手首をほんの少し返してからコインを消した。光が銀貨の縁をなぞり、消える直前にきらりと跳ねる。
「今の、いいね」
「わかるか」
「うん。消えたあとも、そこに光が残ってるみたいだった」
袖からコインを取り出し、また指へ乗せた。
「お前は全部わかってるのに、飽きないってのも妙だな」
「どうして?」
「手品ってのは、知らないから驚くもんだろ」
「驚きたいだけじゃないよ」
猫は少し首を傾げた。
「君だって、自分で何をやってるか知ってるじゃない」
「俺は演じてるほうだからな」
「でも、やりながら自分の手を見てるでしょう」
言われて、指を動かしたまま自分の手を見た。
何万回と繰り返した動きだ。どの指が何をしているか、言葉で説明はできる。だが、一つずつ説明していたらずいぶん長くなる。それが、やって見せればほんの一瞬で済んでしまう。
積み重ねてきた年月がふっと遠のいて、俺はどうしてこんなことができるんだろうと、他人事のように不思議に思った。
「たしかにな……俺もやりながら、見てるな」
「うん」
「言われてみれば、自分でも不思議に思うことはある」
「今日、最後にあの子の目の前でコインを消してみせたよね」
「ああ」
「あれ、自分でも消えたように見えてるでしょう」
袖の中にあると知りながら、自分の手がついている嘘に、自分の目まで少し騙される。それが面白くて、いつまでもコインをいじっている。
猫は顎を机の天板に乗せ、俺の手元を見つめていた。
「お前は、何でも知ってるからな」
「うん」
「やってるほうの面白さも知ってるわけか」
「知ってるよ」
俺は笑って、コインを手のひらへ落とした。
「俺の手を使って、お前もやってるような感じか」
「それにちょっと似てる。もう一回やって」
もう一度、親指の付け根に銀貨を置いた。
猫が顎を机から離したので、俺はほんの少しだけ、始めるのを待ってやった。
「その子の家、ときどきチャリンって音がしてる」
「だろうな」
俺はもう一度だけコインを転がして、小箱にしまった。
*
三週間ほど経った土曜日の午後、俺は商店街の空き地に来ていた。
メモに書いておいた日だ。昼過ぎにひと通り演技を終え、空き地の隅にある木製のベンチで道具を片づけていると、遠くから駆けてくる足音がした。
顔を上げると、あの少年が息を切らして立っていた。手にはもう五百円玉を握りしめている。
「できるようになったところ、見せに来ました」
「おお、来たな」
ベンチの端に座っていた猫が「こんにちは」と声をかけると、少年は「あ、猫だ」と小さく言って、律儀に頭を下げた。
少年は俺の前に立つと、深く息を吸って、右手を前に出した。
五百円玉が親指から人差し指へ乗り、中指の背へ渡る。まだぎこちないし、薬指へ移るところで少し引っかかるが、落ちない。小指の端まで行ったコインを手のひら側へ回し、親指の付け根へ戻してみせた。
「おっ」
思わず声が出た。
だが、そのまま二周目に入ろうとしたところで力が入った。五百円玉が地面に落ち、ころころと転がって折りたたみ机の脚に当たって止まる。
「もう一周したかったのに」
「でも、ちゃんと一周はできたじゃないか。指がコインの重さに馴染んできてる。なかなか大したものだ」
ただ言われた通りに練習しただけじゃない。テレビを見ているときも、宿題に飽きたときも、指が勝手にコインを探していた人間の手つきだった。
少年はコインを拾い上げながら、少し照れたように笑った。
「ずっとやってます。……ただ、家でやってると、すぐどっか行っちゃって。もう三枚なくしちゃった」
「コインを消すのは上手くなったんだな」
「出せないけど」
「それは猫に聞け」
猫が顔を上げて、白い口元を動かした。
「二枚は冷蔵庫の下。もう一枚は、玄関の黒い靴の中だよ」
「えっ……あ、靴か。そういえば、出かける前に玄関でやってたんだ」
商店街の猫が自分の家の玄関を知っていることにも、少年はたいして驚かない。真顔で納得してから、自分の右手を鼻先へ持っていった。
「ずっと触ってると、手がお金の匂いになるんですね」
「ああ」
俺も、自分の右手を鼻へ近づけた。
かすかに鉄っぽい金属の匂いがする。毎日触りすぎて、何年も気にしなくなっていた匂いだ。
「俺もだな」
「洗ったばっかりなのに、またする」
少年は自分の指を見て、嬉しそうに笑った。
「小指から戻すとき、手のひらを少し丸めると、もっと隠れて見えるぞ。こうだ」
俺は五百円玉を受け取ってやって見せた。少年が「ほんとだ」と目を丸くする。
そうなると、俺のほうもそれだけでは止まらなくなる。
「あと、これはまだちょっと早いけどな。四枚使うとこうなる」
鞄のポケットからハーフダラーを取り出し、握った手を開きざま、五本の指のあいだに四枚の銀貨を広げてみせた。ロール・ダウンという技だ。コイン同士がこすれ合い、チャッと小気味よい音を立てて、銀色の花が咲いたようになる。
「うわあ、それ、どうやるんですか」
「これはまた今度だ。まずはその一枚を、目をつぶってても回せるようにしろ」
少年の目がきらきらと輝くのを見て、俺は内心で少し胸を張った。いい弟子を持った師匠の気分だった。
ベンチの反対側を空けて座らせると、少年は膝の上で五百円玉をいじりながら、しばらく迷うようにしていたが、ぽつりと言った。
「実は、学校で一回だけ、見せたんです」
「へえ、友達にか」
「……好きな子に」
来たな、と思った。初日にあんなに食い下がった理由が、やっと出た。
「どんな子だ」
「同じクラスの子。普通に、しゃべるんだけど」
「うん」
「一回だけ、一緒に帰ったことがあって」
少年は、硬貨の縁を爪でカリカリとなぞった。
「帰るとき、たまたま昇降口で一緒になって。『いっしょに帰る?』って、向こうから」
「へえ」
「それで、帰った」
「よかったじゃないか」
「でも、それっきりなんだ」
「喧嘩でもしたのか」
「ううん。普通にしゃべる」
「じゃあ、また誘えばいい」
「そうなんだけど」
五百円玉が、爪の下で何度かくるくると回った。
「それで、手品をきっかけにしようと思ったのか」
「うん」
「なんで手品なんだ」
「できるかなって」
「思ったより難しいもんだろ」
「うん」
少年は少し笑った。
「俺、足とかも速くないし。勉強も普通だし。何か一つ、できるやつがあればいいなって。でも、ここでやって見せてもらって、ほんとにかっこいいと思ったんだ」
俺は、そうだろうと言いかけて、口をつぐんだ。
「その子には、どこで見せたんだ」
「廊下で。何か話したくて、コインできるようになったって」
「落とさなかったか」
「落とさなかった。一回やったらうまくいって」
「よかったな」
「だけど、もう一回やってって言われたときは、失敗するかもしれないと思って、また今度ねって」
俺は少し感心した。できるようになったばかりのころは、つい調子に乗って見せびらかし、墓穴を掘るものだ。こいつは、相手が楽しめる一回で止める慎重さを持っている。「ええ恰好しい」とも言えるが、それはいい手品師の条件でもある。
「なんて言われた?」
「上手だねって言われた」
「よかったな」
「うん。……『わ、上手だね』って」
少年は、最初の「わ」のところが大事だとばかりに言い直した。
俺は吹き出しそうになるのをこらえて、鞄から手帳を取り出した。ページをめくり、来月の印がついた日を指でトントンと叩く。
「最初に言った来月の土曜日、やっぱりあの公園の入り口でやる。よかったら、その子を誘っておいでよ」
「えっ。俺、誘えるかなあ」
「コインがうまくなったら、話すきっかけになるかもしれないだろ。手品の先生が出るからって言えば、誘いやすいじゃないか」
少年がまだ迷っている顔をしているので、俺は少し身を乗り出した。
せっかくここまで練習したんだ。俺がひと肌脱いで、二人をいい感じにしてやろうじゃないか。
「そうだ。今度、俺が演技の中で花を出してやるから、それを受け取って、その子に渡せよ」
「俺が?」
「そりゃ、お前が連れてくる子だろ。俺が渡してどうする。想像してみろよ。手品師から花を受け取って、隣の女の子にすっと渡す。格好つくぞ」
少年は耳まで赤くして、五百円玉をぎゅっと握り直した。
「誘ってみます」
それからしばらく、少年の練習に付き合ってやった。
帰る前、少年は猫のそばにしゃがみこんだ。
「あの、ちょっといいですか」
猫が「なあに」と返し、しばらく小さな声で何やら話し込んでいる。
おおかた、好きな子の気持ちでも聞いているんだろう。だが猫は、他人の秘密を勝手にしゃべったりはしない。俺は帰り支度をしながら、二人のひそひそとしたやり取りを背中で聞いていた。内容は分からなかったが、最後に「ありがとうございました!」と弾むような声がした。
少年が人混みへ駆けていったあと、俺は机を持ち上げながら思い出した。
「あ、あいつに一つ、言いそびれたな」
足元に戻ってきた猫へ言った。
「決まったあと、すぐ手を下ろすなって。できたところを、ちゃんと相手に見せろって伝えといてくれるか」
「うん。帰り道で言っておくよ」
「頼む」
三日後の夜、部屋の椅子にいた猫がふと言った。
「あの子、手をすぐ下ろすなって教えてくれてありがとうございましたって」
「ああ、直ったか?」
「うん。さっき家の前でやって見せてくれたよ」
*
それから一か月あまりが過ぎ、約束の土曜日が来た。
十月の終わりで、公園の木々は先月よりずいぶん色づいている。俺はいつもより少し念入りにアイロンをかけたシャツに袖を通し、折りたたみ机を広げた。ポケットの奥には、今日のために用意した手品用の小さな赤い造花が入っている。
開始時刻の少し前、雑踏の向こうから少年が歩いてくるのが見えた。
隣に、女の子がいる。
数日前、猫が少年の言づけを伝えてくれた。ステージの話をしたら「それ一緒に行こうってこと?」って聞かれたので、誘えたらしい。本当は、どっちが誘っているのやら。
女の子は少年よりほんの少し背が低く、白いカーディガンを着て、少年の半歩ほど内側を歩いていた。少年が何か言い、彼女が笑ってうなずく。
二人を見ていると、思わず頬がゆるむ。彼女が少年を見る目を見れば、まんざらでもないどころか、今日をずいぶん楽しみにしてきたことは一目で分かる。
少年は俺と目が合うと、少し背筋を伸ばして会釈した。俺もあごと首だけで「よく連れてきたぞ」と返してやる。
机のすぐ横の植え込みの前には、いつのまにか猫が座っていた。いつもの白い口元で、客の足元からこちらを見上げている。
人が集まり始め、俺は演技に入った。
ロープが結び目を変え、トランプが思いがけないところから飛び出す。
女の子はよく見ていた。消えたものを探して、俺の袖口やテーブルの下へ目をやる。出てきた場所を見て声を上げ、そのたびに隣の少年の顔を見た。少年も、彼女が驚くたびに嬉しそうに笑う。
俺もそれを見ていた。
楽しそうにしてもらえると、こっちも、もう一つやりたくなる。
予定になかったコインの演技を、短く足した。少年が俺へ顔を戻す。
そうだ。よく見ておくんだぞ。
最後に、赤いハンカチを取り出した。
両手に何もないところを見せ、布を指のまわりへひと巻きする。ほどくと、小さな赤い花がぱっと開いた。薄い紙の花びらが、短い緑の軸の先でかすかに揺れる。
「さあ、そこの君。これを受け取って」
少し芝居がかった声で言い、少年に花を差し出した。
「隣の子に渡してあげるといいよ」
周りの大人たちが、微笑ましそうに二人を見る。
よし、これで俺の仕事は完璧だ。少年の背中を押してやった師匠として、俺は満足げにうなずいた。
少年は両手で花を受け取った。
——俺の予定は、そこまでだった。
少年は花を持ったまま、女の子へ向き直った。
だが、すぐには差し出さない。
右手に持った赤い花を、左手でそっと包み込むようにして握る。
おや、右に残したな。
左手で受け取ったように見せかけて、花を右の掌へたくみに畳み込んでいた。左手の指は、まだそこに丸い花があるかのような形を保っている。
少年は隠した右手を見なかった。自分の左手を見つめ、それから女の子を見た。
俺も少年の右手から目を離し、彼女の顔を見る。
ほう。なかなかの演技じゃないか。
少年が、ゆっくりと左手を開く。
花がない。
「えっ」
女の子が小さく声を上げた。周りの客からも、おっ、とどよめきが起きる。
少年は空の掌を見せたまま、女の子がのぞき込むのをひと呼吸待った。
それから右手をすっと上げ、彼女の首の後ろへ伸ばす。揺れる髪の向こうで、指先が小さく動いた。
何もない空気の中から、赤い花がふわりと咲いて出てきた。
「……どうぞ」
少し赤い顔で、少年が花を差し出した。
女の子は花を見て、少年を見た。それから、自分の首の後ろへそっと手をやった。
俺は拍手をした。周りの客もつられて手を叩いた。さっきの俺のときより、ずっと温かい拍手になった。
「うわぁ、ありがとう」
両手で花を受け取り、胸の前で大事そうに抱える。女の子はいたずらっぽく笑った。
「ふたりのマジシャンからもらった花だね」
俺はもう一度客へ一礼し、演技を終えた。
あいつめ、俺が花を出すと言ったときから、この続きを仕込んでいたのか。
自分の手に花が渡るその瞬間まで、俺にも黙っていたのだ。
*
客が散っていくあいだ、二人は少し離れたベンチに並んで座っていた。
女の子が手の中の花を眺め、それから少年を見る。
「さっきの渡し方は、ちょっと、ずるすぎるかな」
照れ隠しみたいに首を傾げる。
「ずるいって?」
「ねえ。手品を習ってたの、私に見せるため?」
少年は、膝の上で両手を重ねた。
「……最初は」
「やっぱり」
少年が顔を上げた。
「わかってた?」
「なんとなくね」
女の子は花へ目を戻した。薄い紙の花びらに、指先でそっと触れる。
少年は何か言いかけたが、先に彼女が訊いた。
「これ、ほかの人にもやったことある?」
「そんなの、ないよ」
「じゃあ、私が初めて?」
「猫には見せた」
植え込みの猫が、何食わぬ顔で毛づくろいをした。
「猫以外では?」
「……初めてだよ」
女の子は花をそっと持ち直した。
「ありがとう。ちょっと、かっこよかったよ」
さっきより小さな声だった。
少年は、うん、と言って、自分の膝を見た。
女の子もしばらく花を見つめていた。もう声をかけてもよさそうな頃合いだったのに、俺は鞄の中のハンカチをもう一度畳み直した。
道具を片づけていると、少年がこちらへやって来た。
「勝手にあんなことして、すみません」
「いや、いい演技だったぞ」
少年はほっとしたように口の端を上げた。
「ほんと?」
「ああ、ちゃんと見せたな。よくやった」
少年は、今度はうつむかずに笑った。
女の子が少年の袖をちょんと引いた。
「ねえ、この前のコインのも、もう一回見せて」
少年はポケットから五百円玉を取り出した。
空き地で俺の前に立ったときより、ずいぶん滑らかに指が動いた。コインが人差し指から中指、薬指へと渡っていく。小指の下をくぐり、掌の方へ消えては、また親指の横から現れる。
「すごい。私にもちょっと貸して」
女の子が受け取り、手の甲に乗せた。少年は横からのぞき込み、自分の指をゆっくり動かして見せる。
「ここで中指を少し浮かせて、挟むんだよ」
「こう?」
指を動かすと、硬貨はすぐに傾いた。少年の差し出した掌へ、ころりと落ちる。
「見ると簡単そうなのに」
「けっこう練習したから」
女の子は、少年の掌にある五百円玉を指さした。
「もう一回やって」
「ゆっくりがいい?」
「ううん。さっきみたいに」
少年は少し笑って、コインを人差し指へ乗せた。
すっと一周して、戻ってくる。女の子は、今度は自分の指を動かさずに見入っていた。
鞄を閉めるころ、二人がそろって挨拶に来た。
「ありがとうございました」
女の子が赤い花を少し持ち上げて見せる。
「こちらこそ」
俺も笑って返した。
少年は少し迷うようにしてから、俺のそばへ一歩寄った。
「また、見てもらってもいい?」
「いつでもおいで」
「うん」
女の子が、少し離れたところでしゃがみこんだ。
「ほら。もらったよ」
足元の猫に、赤い花を見せている。
「うん。よかったね」
俺は自分の足元を見た。
こちらにも猫がいた。いつもの白い口元を上へ向け、俺を見上げている。
並んで歩き出した二人の背中を見送った。
女の子は花を持った手で、自分の首の後ろをもう一度触った。少年が何か言い、彼女が笑う。
その先は、俺には聞こえなかった。
折りたたみ机を鞄の横に立てかけると、足元の猫が寄ってきた。
「お前、あっちにもいたのか」
「うん」
「ずっと?」
「あの子たちが来る前から」
「どっちがよかった」
「こっちからは、君の顔がよく見えたよ」
俺は猫を見下ろした。
女の子が驚くところは、よく見ていた。少年がほっとした顔も覚えている。けれど、そのとき自分がどんな顔をしていたかは知らなかった。
「あの子が、内緒にしてくれって言ったのか?」
「うん。先生のことも、びっくりさせたいって」
「そうか」
しゃがみこみ、猫の顔をのぞきこんだ。
「おまえ、あの子と共謀して俺を客にしやがったな」
猫は白い口元を上げて、こちらを見た。
「楽しかった?」
「ああ。よかったよ」
悔しいくらいにな。
あごの下を指で掻いてやると、ごろごろと心地よさそうに喉が鳴った。
いいところを見せてやるつもりで来たのに、ずいぶんいい席をもらってしまった。
立ち上がり、ポケットからハーフダラーを一枚取り出した。
夕方の涼しい風の中で、親指から人差し指へ、銀貨をすべらせる。中指、薬指。小指の下をくぐり、親指から、また最初へ戻ってきた。
西日を受けて、銀の縁がきらりと光った。
猫がそれを見ていた。
俺も、自分の手を見ていた。




