ヘンリー-ジョージの鏡(2)
大日本帝国におけるジョージズムの台頭の原因は1993年にまで遡る。その年には元号が和恒に代わって5年がたっていたが、新元号に込められたいつまでも平和が続くようにというその願いをあざ笑うかのように冷夏による大凶作によって国民生活は追い詰められていた。国民の中にはお七火事で有名な天和と出典を同じくすることから、そうした災害が起きるのだというものもいたが、そんなことを言ってみても解決するものではなかった
当時は農商務省の肝いりでイディオプラズム編集(イディオプラズムは生物の持つ遺伝情報の全体をさす言葉であり、当初はドイツの植物学者ハンス-ヴィンクラーの造語である"ゲノム"が使われることが多かったが、ヴィンクラーがルーデンドルフによるクーデター後に忠誠宣誓を行なっていたことやアレクサンドル-ボグダノフの下で悪名高い輸血医療の研究に従事していたことが戦後判明したため、代わって進化を決定づけるのは外的要因ではなく内部にある特殊な原形質であるとしたスイスの植物学者カール-ヴィルヘルム-フォン-ネーゲリが提唱したイディオプラズムに置き換えられていた)が実用化が進められていたが、普及にはまだ時間が必要であり、またその目標も80年代末からアジア、アフリカの工業化の進展から問題視されつつあった地球温暖化に合わせて熱波に対する耐性を主眼にしていたため、冷夏には対応できなかったことが仇になった。
そのため本来ならば政治が対処すべき問題だったが、政権を担う立憲革新党政権もまた追い詰められており、長年の同盟国である大清帝国に対して援助を要請するも拒絶された。大日本帝国による北アジア共和国承認に対する反発故の行動だったが、それは長年、政権を担ってきた立憲革新党政権への不満を爆発させるには十分だった。火星における国際共同入植計画が開始されていたとか、それによって帝国が世界に認められたと自賛しても、結局のところ日々のコメすら食卓に出すことのできない政権に国民は否定的だった。東京をはじめとする諸都市ではすぐにデモが始まり、それは程なくして暴動に変化した。鎮圧に迫られた立憲革新党政権は警視隊の出動によって鎮圧したが、その暴力的な措置に対して動き出した者たちがいた。
一つは内閣審議会だった。1944年の改革によって枢密院から輔弼機関としての権能を引き継いだ内閣審議会はその後、ほぼ同時期に結党された立憲革新党とともにあり、体制の番人と呼ばれるほどだったがここにきて独自の動きを見せ始めた。そしてもう一つが帝国陸海軍だった。陸海軍の大臣が相次いで参内し、内閣に対してもその鎮圧方法に文書で不満を表明するなどしたが、それは戦時中の帝都不祥事件によって先帝である昭和天皇の不興を買ったことによりそれ以降は常に新民本主義運動の後継者である立憲革新党の下で疑似的な文民統制という雌伏の時を過ごしていた時代とは違ったこと意味していた。
この、内閣審議会の反抗と陸海軍の動きは立憲革新党政権の凋落と昭和という一つの時代が過去になったことを明確に示すものだった。
翌、1994年には豊作となり米価は回復したものの、その年に行われた選挙では立憲革新党は大敗し、代わって台頭したのが、ジョージズムを掲げる大日本地公党だった。大日本地公党は本流のジョージズムを志向しており、経済的レントと地価税の他の税の廃止や自由貿易の推進を掲げており、極めてアメリカ的ともとらえられかねない政党だった。
実際、特に帝国陸海軍では大日本地公党が政権を獲得した場合に備えてクーデター計画まで練られていたほどだった。だが、そうした急進的すぎる行動が再び陸海軍の地位を低下させかねないと考える反対派もおり、混乱した状況が続いていた最中に"事件"は起きてしまった。カタガルガン共和国の首都であるマニラ府昭南市(マニラの北東に位置する昭南市は第二次世界大戦後に移住してきた日本人によって形成された新市街であり、その政治の中心でもあった)で1995年1月15日に起きたテロ事件において、日清両国の政府首脳を含む、参列者たちがテロ攻撃を受けたのだった。
大協商の主力として旧米領フィリピン北部を占領していた日本軍は占領期にキリスト教を利用した現地住民の懐柔のために西暦49年のエルサレム会議の精神の継続を主張していた賀川豊彦を中心とした神の國運動を利用して、カタガルガン独自のカタガルガン合同教会を設立していた。その影響は協同組合の設立などによる農村地域の復興など経済面にもおよび1945年に独立するころには協同組合を中心とした賀川の言うところの友愛の経済によって国家経済が運営されるようになっていた。
そのため、カタガルガンは元々が日本による傀儡国家という歴史から東亜協同体の原加盟国であったが、ほかの加盟国とは全く異質なキリスト教を中心とする国家であり続けていた。
このテロ攻撃においてまず、疑惑の目が向けられたのはアメリカ合衆国、南アジア連邦などの敵対国家群であったが、実際のところはカタガルガンの南の大マラヤ連邦に潜伏していた日清両国のオマーン-イマーム国への支援に反対するハドラマウト人抵抗組織だった。
この事件を受けた帝国陸海軍は直ちに清国軍とともに報復攻撃を開始したものの、民間人の犠牲をも厭わないその姿勢は両国の国内では断固とした決意の表れとして受け止められたが国際社会、とくに、自国領土に対していきなり攻撃を加えられた大マラヤ連邦やその友好国である南アジア連邦、それに遠巻きに事態を見守っていた欧州各国からは非難されることになり、同年の関西地方を襲った地震に対する対処もあり、早期の壊滅という目標は失敗することになる。
まるでかつての満蒙戦争の再来のような有様だったが、大きく違う点があった。第二次世界大戦以来の宿敵であり、満蒙戦争では敵国であったアメリカが協調の姿勢を見せていたからだった。
和恒は昭和末期の、次の元号は和光だという噂話が元ネタです。たまには正化、修文、平成以外のでもいいかと思ったので




