4.愁の過去〈愁視点〉①
——十四年程前。
俺は初めて会った知らない人と一緒だというのに、生まれて初めての遠出でかなり浮かれていた。
電車やバスを何本も乗り継いで辿り着いた場所はどこかの山の麓で、さらに山の奥へ奥へと分け入って進んで行った。
途中、休憩をとりながら随分と歩くと、一気に視界が開けた場所に出た。
視界いっぱいに広がったのは、実った稲穂が風に波打ち眩いばかりの黄金色に輝く、この世のものとは思えないほどの美しい田園風景だった。
――今でもあの風景を思い出す。それほどに美しく、楽しい思い出とともに瞼に焼き付いている。そして、その反対の酷く悲しい光景も瞼から消えることはない。
「愁、ここが私たちの故郷だ。美しいだろう?」
「うん!」
父の叔父は、忠久さんといった。優しくて、博識で、とても尊敬できる人だった。
彼は俺の目を見て真剣な顔で言った。
「この美しい集落は、餓鬼の郷と呼ばれている隠し里だ。この里に敵意のある者は辿り着くことが出来ない、秘密の場所だ。心から信用できる者以外には、決して教えてはいけないよ」
俺は神妙に頷いた。
「ところで、愁は一般的な餓鬼のことを知っているか?」
「えーっと、生意気な子供のこと?」
「ふっ、あはは。そうだな、そいつも餓鬼と言うな。仏教では、生前に欲の深かった者がその罪によって死後に行くという餓鬼道、飢えや渇きの苦しみに満ちた世界のことだが、そこに落ち、絶えず飢えと渇きに苦しめられている亡者のことを餓鬼という」
「?」
俺は首を傾げた。
「ちょっと難しかったか? ざっくり言うと、悪いことをした人が死んで、地獄の閻魔大王様にどれだけ食べても飢えて満たされない、あるいは食べることさえ出来ずに飢えや渇きに苦しむという罰をあたえられた奴らのことを餓鬼と呼ぶ」
「じゃあここは、その悪いことをした人の里ってこと?」
俺の問いかけに、彼は横に首を振った。
「いいや。私達の祖がいつ生まれどういうものだったのか、この里をいつ誰が作ったのかは分からない。まあ、亡者の里っていうのはあながち間違ってないが、今ここで暮らす里の人たちは決して悪人じゃない。ただ、普通の人間とは違うというだけだ」
「普通の人間とは違う?」
「ああ。愁はまだ大丈夫みたいだが、古くからこの里で生まれた一族の者は、人間の肉、人肉を食べなければ生きていけない。食べなければそれこそ、餓鬼のように酷い飢えに苦しみ、渇き、そして……死ぬ。お前の父親がそうだ。最後に会った時、ガリガリに痩せ細って苦しそうにしていた。私は、お前のためにも食べるように言ったんだ。だが、あいつはお前の母親を口にした後、他の者は食べたくないと。初子さんを取り込んで、愛する人と一つになった身体に他の者を入れたくはないと言って拒んだ。そして、私にお前を託した。……言い訳だな。もっと強く言えば助けられたかもしれないのに……」
彼は申し訳なさそうな顔をして、俺を見た。
「いいえ、おじさんは悪くないです。父さんは僕より母さんの方が大事だったということでしょう」
「そう言うな。あいつはあいつなりにお前のことを大事に思っていたさ。迎えに行くのが遅くなって悪かった」
彼はそう言って、俺の頭を撫でた。
彼は最後に父に会ったあと、父のことが気になりながらも、研究のために海外へ行っていて、戻って来た時には父は亡くなっており、俺も施設にいたということだった。
「ねえ、どうして人肉を食べないと生きていけないの?」
「そうだな、私もずっと不思議に思っていた。私以外の里の者は、生まれた時から食べているのが当たり前だったからか、そこまで気にしていないようだ。私は人肉を食べずにすむ方法はないかと、学生の頃からずっと研究しているが、今わかっているのは人肉に含まれる成分のどれかが私たちの生命を握っているということだけだ。どの成分か分かり生成することが出来れば、飢えることも怯えて暮らすこともなくなって、もっと気軽に里の外に出ることも出来るようになるのに……」
「本当? そしたらおじさんも里の人も助かるんだね!……でも、今はまだ人肉を食べないといけないんでしょう? その人肉をどうやって手にいれてるの?……まさか……」
頭に過ぎった恐ろしい思考のために、一瞬で鳥肌が立った。
「昔から、この山は姥捨山って呼ばれててな、大昔には口減らしに人が捨てられたりしていたんだ。今では自殺の名所と呼ばれ、この山で自殺する者が何人もいる。そういう人は失踪者扱いになっているみたいだから、騒ぎになることはない。里の者達は、そういった人間の死体を食べている。決して殺したりはしていない。まあ、現代では死体損壊等罪っていう刑に処される犯罪だがな」
そう言って彼は片をすくめた。
「そんな! 罪を犯して大丈夫なの?」
「罪……、罪か。もちろん罪を犯すのは、悪いことだ。許されることではない。だが、罪を犯してでも背負ってでも生きていくことを選んだ。……そもそも、これは罪なのだろうか? ただ生きるためのこの行為は……」
思考の迷宮に入り込もうとしていた彼は、不安そうな俺に気付いて、「心配するな。この里に仲間を売る者はいない」と言って、笑顔を作った。
それからは里にある彼の家に住み、分校に通って平穏な日々を送っていた。
じつは里には、死ぬために山に入り死に損なった普通の人間もいた。
そういう人たちは、元の世界に未練がない為、世捨て人のように暮らしていたり、里の人と結婚して家族となって生活していた。
前に、「亡者の里と言うのはあながち間違ってない」と彼が言ったのは、外の世界では死んだことになっているであろう、その人達のことを指していたようだ。
それでも、その人達を入れて里全体で百人程しかいなかったため、皆苦楽を共にする仲間として絆は強く、団結していた。
「忠久さん、ありがとう。僕、この里に来ることが出来て本当に良かったです。皆親切で良い人ばかりで……」
「そう言ってくれると嬉しいね。外の世界では、私達は鬼と呼ばれ忌み嫌われている。ただ人肉を食べるというだけで。後はどこも変わらないのに。私達だって好き好んで食べてるわけでもないのによ」
そう言って彼は顔を歪めた。
「前に少し話したが、私は人肉を食べなくても生きていけるようにずっと研究を続けている。だが、思うようには進んでいない。お前の父親も外に出ていろいろと協力してくれていたのだが……」
「……父さんが……」
俺の口から漏れた言葉を聞いて、彼が俺の頭を優しく撫でてくれた。
「私の母親も、あいつの母親も普通の人間だったから、他の奴らに比べたら俺たちは飢える頻度が少ない。そのお陰で研究の為に外に出ることが出来た。お前はさらに普通の人間の血が濃い。このまま飢えることがなければ良いが……」
だが、そんな期待は儚く消えた―—――。
お読み下さり、有難うございます。
ちなみに、この話の「普通の人間」とは、人肉を食べなくても生きていける人間を指しています。
精神的、哲学的な意味ではないので、そう思って読んで下さい。
次も過去話です。