第十八章 その3 吹雪の夜
冬。蝦夷は一面の銀世界となる。
特に厚岸周辺は平坦な湿地が広がっているため、まるで巨大なスケートリンクが地平線の彼方まで続いているかのようだ。
だが吹き付ける強風に積もった雪が舞い上がると、その美しさからは想像もできないほど、鋭い針のように肌を突き刺す。
そんな吐息でさえ凍り付いてしまいそうな寒さの中、毛皮を着込んだ俺たちは凍り付いた川のほとりで集まって歳不相応に騒いでいた。
「あいよ、30匹目!」
「負けるか、こっちは35匹だ!」
凍り付いた川の水面を槌やつるはしで砕き、そこに網を放り投げたり釣り糸を垂らしているのは日牟禮会の男たち。
俺たちの目的はただひとつ、冬の味覚、ワカサギだ。
氷に穴を開けてワカサギ釣りをする光景はテレビで見た人も多いだろう。水質汚濁、塩水、冷水、あらゆる環境に適応できる小魚だが、クセの無い味で骨も柔らかいので、唐揚げや佃煮だけでなく姿焼きや煮豆など幅広い料理に使われている。
冬は畑仕事もできないので、俺たちは女たちのアットゥシ織作りのサポートに勤しんでおり、今日も彼女たちのために食材を集めて料理を作るのだ。
蝦夷では海で育ったワカサギが産卵のために冬から春にかけて川を遡上する。ワカサギは本土でも獲れるので交易品としては扱われず、もっぱら地元の人々の食糧として消費されていた。
しかし氷を割った途端泉のように噴き出す銀白色の魚たちに、俺たちはすっかり興奮して子供のようにはしゃいでいた。
イソリの用意した大型のソリに獲れたてピチピチのワカサギを満載にし、かんじきを履いた男たちがそりを押したり紐で引っ張って雪の上を進む。今日は大漁、村の全員が満腹になっても余るだろう。
そんな雪原の真ん中、俺たちは目に飛び込んだ見慣れぬ光景に皆足を止めた。
向こうの方で、かなりの人数の人々がまっすぐに森に向かって列を作っている。
さらにじっと目を凝らすと、どうやら銃や弓を抱えたアイヌの人々がほとんどだが、その中の幾人かは和人のようだ。
「ねえ、あれって大門屋の店主さんじゃ?」
「本当ですね。何をされているのでしょう?」
俺が気が付くとイソリも首を傾げる。
列の先頭にいたのはあの大門屋の店主だった。鹿の毛皮を着込んでダルマのような見た目になっているが、のっそのっそと特徴的な歩き方を見てすぐにわかった。
そこに後方から笠をかぶりかんじきを履いた男が雪の上を慌てて追いかけてくると、店主のすぐ前に立ち塞がる。
「大門屋さん、本当に危ないからやめた方がいいって!」
追いかけてきたのは水牧さんだった。店主一行は足を止めるも、すかさず反論する。
「この者たちは私が雇ったのです。雇ったアイヌを自由に使ってもいいと仰ったのは松前藩の皆様ではありませんか?」
「ああ、そうなんだけども……でもこの季節の森は危険すぎる。迷ったら最期、どっちが来た道かもわからなくなる上に寒さで意識も無くなっていく。雪に慣れたアイヌならともかく、あんたみたいな和人じゃきつすぎる」
「だからこそ行くのですよ、アイヌだけに任せてはすぐに怠けてしまいます。ですが雇い主である私が傍で見ていれば、そんなことはありますまい。何としても冬眠する前に羆の毛皮があと20枚、必要なのです」
結局店主は強引に足を進め森へと向かっていった。水牧さんは深く笠をかぶりながら何度も頭を振っている。
「またあんなことして」
過ぎ去って行く店主一行の姿を見ながら俺たちが再び足を進め始めると、下を向いていた水牧さんもこちらに気が付いたようで苦笑いしながら俺たちに手を振ったのだった。
「いやいや、見られちまったか……ははは」
「もう羆はほとんど冬眠しているはずですよ。あの人数で探しても、見つかるとは思えません」
イソリが珍しく口をとがらせている。
アイヌにとって獲物は神からの贈り物、時には神の化身であり、余すところなく利用するのが美徳とされている。必要以上の乱獲は神と人間、持ちつ持たれつの関係を否定する受け入れがたい行為だ。
「あの親父が他人の言うこと聞くわけないよ。どっかの大名から急に注文が入って、保管していた羆皮だけでは足りなくなったらしい。前払いで相場よりかなり高い代金ももらっているみたいで、人海戦術で羆を探すんだとさ」
大門屋にとってみれば顧客の要望に応えるという信用問題なので気持ちはわからなくもない。だが無理なものは無理と断って崩れるものを信用と呼ぶのなら、俺はそんな信用はいらないな。
村に戻った俺たちは、雪の降る前に男たちが急いで完成させた新しい建物に入る。そこはアットゥシ工房、村中の機織り機が集められ、来る日も来る日も女たちが伝統工芸品の製作に精を出していた。
「そうそう、こうやってまっすぐになるように」
手先の器用なチニタは年長者の女性と一緒に指導役に回っていた。
ここに集められた機織り機は腰機という比較的原始的な構造で、細長い机状の織機の一端からピンと張った何十本もの経糸を自分の腰に付けた棒に固定し、その間に棒状の装置を挟み込んで緯糸を織り込んでいく。
彼女らの作業効率が少しでも上がるよう、この季節の家事や料理は専ら男たちが担っていた。これまでのライフスタイルとは大きく異なるが、男同士ふざけ合いながら共同で作業を行うのもなかなかに楽しいものだった。
そんな時、どこからともなく火縄銃を撃つ音が聞こえ、男も女も皆作業の手を止めた。
「眠っているのを無理矢理起こしたのでしょうか?」
イソリがぼそっと言い放つと、人々は一様にため息を吐いてすぐに作業に戻った。
その後も女は作業を続け、日没間近で男たちの料理が完成すると本日の仕事は終わった。一本の串に5尾以上のワカサギを豪快に突き刺して焼いただけの簡単な料理だが、うま味ののった冬の味覚に日牟禮会の面々も村の人々も次から次へとワカサギを腹の中にかき込んでいく。
食事も終盤に差し掛かり、満腹になった人たちが筵の上でごろんと寝転がり始めた時のことだった。
「おおい、開けてくれ!」
突如の来訪者が乱暴に戸を叩いたのだ。外は風が強く地吹雪も吹き荒れている。こんな所をわざわざ訪ねてくるなど正気ではない。
「こんな時間にどうしました?」
イソリが少しだけ戸を引くと、暖まった室内にもたちまち外の冷気がどっと流れ込み、囲炉裏の火が急激に萎んでしまった。
「ここに大門屋の店主はいませんか?」
訪ねてきたのは別の村のアイヌの若い男だった。背中に銃を背負っていることから、羆狩りに駆り出された者の一人だろう。
「いえ、来ていませんけど」
答えると男は「そんな……」と項垂れる。一縷の望みさえも断たれたような絶望。これはただ事ではない。
「どうされました? 店主さんに何かあったのですか?」
俺はイソリの背中から覗き込む形で尋ねた。
顔を上げた男の顔は、今にも泣き出しそうだった。
「ええ、羆狩りの最中、はぐれてしまったのです!」




