第十八章 その4 ふたりの近江商人
「大門屋さーん、聞こえますかー!」
夜の森や雪原を歩き回りながら、俺たちは必死に叫んでいた。雪に埋もれていた場合に備え、コスギという除雪用の木製のへらを一人一本ずつ持っている。
皆が皆、毛皮で覆ったわら靴の上からかんじきを履き、何重にも毛皮を着込んで防寒対策を万全にしている。それでも足の裏から昇ってくる雪氷の冷たさと肌を突き刺す鋭い寒気は塞ぎきれない。
幸運にも今のところ風は弱まっており、星明りでなんとか自分の居場所は確認できる。
ただ、もしものために一人切りには絶対にならないよう、ふたり一組で行動することを鉄則とした。
日牟禮会の手代たちはもちろん、アイヌの男たちもカゲさんこと佐藤信景さん、さらには藩士の水牧さんも加えた村を挙げての大捜索だった。
俺も棟弥さんと組んで雪積もる森の木々のわずかな隙間にも目を光らせる。
聞くところによると大門屋の店主は森に入ってアイヌの猟師たちが羆を追っている途中、背後から別の熊が近付いて来たらしい。
突如の熊の接近に驚いた和人たちは逃げ惑い、一行は散り散りになってしまった。アイヌの猟師たちが駆けつけて熊を撃ち殺したものの、気が付けば店主の姿が見えなくなっていたそうだ。
なんとも迷惑な話だろう。日牟禮会の一行は呆れ、俺も内心そら見たことかとさえ思ってしまった。
だが「私たちも手伝わせてください」と即答したのはイソリだった。
同族であるアイヌの人々をこき使ってきた大門屋の店主だ。憎むべき相手であるはずなのに、彼の顔には俺たちが抱いたような念は一切込められていない。
イソリの勇ましい姿を見て俺は自分の浅ましさを恥じ、日牟禮会の一行とともに捜索に加わることにした。
「この雪です、遠くまで歩くことはできません。まだ近くにいるはず」
目についた雪の盛り上がりをコスギで突きながら棟弥さんが言うので、俺は「ええ、探しましょう」と返した。
熊に襲われていなければいいのですが。怖くてそう言えなかったのは、きっと棟弥さんも同じだろう。店は違えど3年間同じように働いてきて、彼の考えていることはなんとなくわかるようになっていた。
必死で捜索を続けるも、いたずらに時間だけが過ぎていく。風も徐々に強まり、雪の欠片が舞い上がり砂嵐のように視界を遮り始める。
「このままでは私たちも村に帰れないかもしれない」
棟弥さんがぼそっと呟く。タイムリミットはもう近い。
何とかならぬものか。俺は必死で目を凝らして周囲を見回した。
と、少しばかり離れたなだらかな雪の斜面に、不自然に雪が盛り上がっている部分が目に入る。
あれは何だ?
目を細めて観察すると、なんと人の手のようなものが雪の中から覗いていた。
「あれだ!」
俺は叫んだ。かんじきを付けて走りにくい足を必死で動かし、全力を振り絞って駆けつけた。
棟弥さんと一緒に雪から飛び出した手をつかんで引っ張ると、すぐによく見知った大門屋の店主が雪にまみれて飛び出したのだった。
顔は真っ白で唇は紫に変色している。見れば足のかんじきが壊れている。雪深いここから動けなくなってしまったようだ。
「大門屋さん、わかりますか?」
俺は店主の顔をぺちぺちと叩く。
「うう……あう……」
唸り声が聞こえ、俺たちは安堵でほっと息を吐いた。
「良かった、でも体温が下がっている。急いで連れて帰りましょう」
「おおい、見つけたぞぉ!」
仲間を呼ぶために棟弥さんが叫ぶ。だがその声はいよいよ威力を増した風の音にかき消されていた。
「おおい、こっちだ、見つけたぞー!」
俺も腹の底から必死に叫んだ。だがごうごうと吹き荒れる風の音以外、何も返事は無い。
「まずいですね、吹雪で前もほとんど見えなくなってきたのに。このままでは……」
俺も棟弥さんもそれ以上先を口にするのが恐ろしく、言葉に詰まった。
この吹雪だ、俺たちもやがてこの大門屋の店主と同じように歩けなくなるのは時間の問題。かと言って視界も閉ざされた今、下手に動くのはもっと危険だ。
男二人とはいえ、吹雪の中店主を引っ張って連れて帰るのもソリが無いと難しい。生憎ソリを持っているのはイソリたちアイヌの者で、俺たちの装備は除雪用のコスギだけだ。
完全に手詰まりだ。
あまりの絶望に打ちひしがれ、俺は全身の血の気が引くのを感じた。まさかはるばる近江から蝦夷まで来たというのに、志半ばで死んでしまうのか?
白石屋の店構えが、番頭に手代たちが、そして湖春ちゃんの姿が。長いこと見ていないのに、その姿が仔細に思い出されてしまう。何でこんな時に限って。余計に寂しくなって、心臓が本当に止まってしまいそうじゃないか。
だがその時だった。隣にいた棟弥さんがごくっと唾を飲み込むと、何を思ったのか自分の着ている毛皮の外套を一枚、脱ぎ始めたのだ。
「棟弥さん、どうしたのですか!?」
現実に引き戻され、俺は慌てて尋ねた。
「サブさん、大門屋さんの体をこれで包んでください、少しは温まるはずです。私はイソリさんたちを呼びに行ってきます」
棟弥さんは微笑んでいた。だがそれはイチかバチかの決死の覚悟を隠すためであるとは直感で理解できた。
「やめてください、この吹雪ではいくら何でも危険すぎます!」
俺は棟弥さんの腕をつかんで引っ張る。だが一見細身の身体のどこにこれだけの力があるのか、いくら力を込めても棟弥さんはピクリともしなかった。
「それも承知です。ですがこのままだと全員凍え死にます。それに――」
棟弥さんはいとも簡単に俺の手を振りほどくと、雪上に横たわる大門屋の店主の顔を見た。そして照れ臭そうに笑いながら言ったのだった。
「大門屋さんって、ちょっと私の父に似ていませんか?」
俺は何も言い返せなかった。
彼は今も行方知れずとなった父の面影を追いかけていたのだ。いくら悪どい方法で他者を蹴落としのし上がろうと、棟弥さんにとってはただ一人の父親だ。
彼の心中を察すると俯いて黙り込むしかない。が、俺は棟弥さんを引き留めるべく「ですが……」と続けた。
「ですが棟弥さん、あなたには川辺屋も奥さんも、小さな子供だっているでしょう。あなたには守るべきものがたくさんある。もしものことがあったら、残された人たちはどうなるのです?」
過去の情念にとらわれているだけではだめだ、棟弥さんには今を生きてもらわないと!
俺は必死に訴える。だが棟弥さんはまたもあの微笑みを俺に向けて言い放った。
「それはサブさんとて同じです。あなたには湖春ちゃんがいる。今私がいなくなっても、親戚や番頭が店を支えてくれるでしょう。寡婦となっても妻の川辺屋の女将としての立場は変わりませんので、新たに婿を迎え入れれば店として体面は保てます。ですが白石屋は違う。店の看板を守るのは湖春ちゃん、そしてサブさんでなければなりません」
そんなことはあるものか!
あなただって家族のことが名残惜しいはずだ。強がるのも大概にしてくれ!
俺は歯ぎしりを鳴らすが切羽詰まったこの状況、このままでは本当に棟弥さんは単身、吹雪の中イソリたちを呼びに行くことになる。どうにかしてこの人を止めなくては。
ええい、もうなるようになれ。俺は息を整え、口から出任せで言葉をつないだ。
「わかりました。ではひとつ提案です、全員で助かる可能性が最も高い方法がひとつだけあります」
「提案?」
かんじきを結び直していた棟弥さんが頭を上げた。
「助けが来るまで待つのです。ここでビバークします」
荒れ狂う吹雪の中、俺と棟弥さんは雪の壁をひたすら削っていた。除雪スコップ代わりのコスギを使い、積もった雪に器用に横穴を掘っていく。
ここは小高い丘の斜面なのだろう、一部が吹き溜まりになって背丈よりも高く雪が積もっていたのだった。
「本当にこれで寒さをしのげるのですか?」
疑い半分で尋ねる棟弥さんだが、コスギを動かす手を緩めることは無い。
俺は「ええ」と頷くと、得意げにしゃべる。
「冬の遭難で最も恐ろしいのは吹き付ける風です。雪の壁の中は風をしのげますし、外気と比べれば暖かいのですよ」
もっともらしく言っているが、実際はすべて以前テレビで見た登山家の記録番組の内容を思い出しているだけだ。
登山の最中、遭難などで思いがけず野営することをビバークと呼ぶ。冬山で遭難した時にはたとえテントが無くとも、雪に穴を掘ってそこで風を凌げば案外何とかなるとその番組では紹介されていた。
聞きかじりの知識とテレビで見た記憶を必死でつなぎ合わせ、ハッタリをかましながら雪に穴を掘る。だがそれを悟られれば、棟弥さんはすぐに一人で吹雪の中イソリを呼びに向かうだろう。本当にこれでいいのだろうか、そんな不安は顔には出さないよう自信満々に俺は振る舞っていた。
そこから俺たちはただひたすらに横穴を掘り続けていると、驚くほど早く雪洞は完成した。しゃがんで入る小さな穴の中には、大人3人でも丸まれば入れるような空間が広がっている。
急いで大門屋の店主を穴の中に引きずり込み、毛皮をカーテンのようにして出入り口を塞ぐ。
真っ暗になってしまったが、これで外からの風は遮断された。途端、棟弥さんの声から陰りが晴れた。
「本当だ、これなら一晩過ごせるかもしれない」
四方を雪に囲まれているこの空間の気温はほぼ0度であり、マイナス10度はあろう外と比べれば格段に居心地は良い。
大門屋の店主を壁際に寝かせ、暗闇の中俺と棟弥さんは肩を寄せ合って座り込んだ。
「サブさん、ありがとうございます。私だけでこの吹雪の中を歩いていたら、途中で……力尽きていたでしょう」
表情は見えない。だが所々声が詰まっているので、もしかしたら泣いているのかもしれない。
「いいえ、棟弥さんがいなければこれだけの穴は掘れませんでしたよ」
「……サブさんは本当に色々なことを知っておられるのですね。まるで別の時代から来られた人のようだ」
「まさか、オランダ人から聞いただけですよ」
俺は笑って誤魔化す。今までも何度か似たようなことは言われてきたが、その度にこうやって言い逃れしてきた。
だが今回は違った。棟弥さんの声の調子が変わり、問い詰めるように尋ねてきたのだった。
「サブさん、本当は違うのでしょう。あなたはこの時代の人間ではない。何十年後、いや、何百年後、少なくとも私の生きている時代の人ではないでしょう? いつとは言い切れませんが、そうではありませんか?」
推測というよりは断定に近い聞き方だった。
まさか、ばれてる?
「いやいや、本当にオランダ人から――」
俺は慌てて言い返そうとするも、すかさず棟弥さんは「サブさん、無駄ですよ」と追い打ちをかけるのだった。
「ビバークという言葉、オランダ人から聞いたと仰っておられましたが、出島で直接オランダ人と出会えるのはサブさんではなくて長崎商人の高砂屋さんでしょう? 私とて商人の端くれ、長崎貿易の事情はなんとなく理解しています」
「……いつから気付いていたのですか?」
これ以上隠すのは無理だ、この人は俺の正体に完全に気付いている。俺は観念した。
「いつでしょう、初めは頭の回る人だなという風に思っていたのですが、商売に絡むとまるで最初から結果を全て見越していたかのように成功しておられたので」
ふふっと笑い混じりに棟弥さんは言う。
途端、胸が痛くなった。この時代に俺が不用心に介入してしまったせいで本来の歴史をどれほど捻じ曲げてしまったのだろう。
「はい、私はおよそ300年後の時代から傾いた白石屋を立て直すためにやってきました。私のいた時代の正しい歴史では、白石屋は3年前の沈没騒動の後、結局潰れてしまったのです。当初の目的はその事態を回避することで、それはなんとか達成できました。が……そこから先は完全に私の独断です」
俺は頭を抱えた。
「後の時代で何が必要とされ商売に役立つのか、この時代の内情をなんとなく知っていたので私は有利に商売を進めることができ、白石屋を大きくすることができました。でもそれは結局のところ結果のわかっている博打に乗っかったもので、この時代の皆さんひっかき回してしまっただけでした」
店が大きくなるのが嬉しくて、ついこの時代に長居してしまったが、本来俺はこの時代にいてはならない存在のはず。
俺がこの時代で新しい商品を作ったり流通網を広げたことで、発展の過程を飛ばした異質な進歩を促してしまったのは紛れもない事実だ。
なぜあの時、元の時代に戻らなかったのだろう。店主が亡くなった後すぐに俺がいなくなっていれば、正史もそう大きくは変わらなかっただろうに。俺は歴史歪曲という取り返しのつかない問題を起こしてしまったのではないか?
なんだか胸が苦しくなってきた。息も切れ切れだ。
今まで頭の片隅にもしかしたらと思いながらも極力考えず無視し続けてきた問題が際限なく肥大し、押しつぶされそうな気分だった。
だがそんな俺に優しい言葉をかけてくれたのは棟弥さんだった。
「そんなことはありません。サブさんのおかげでどれだけの人が救われたと思っているのですか?」
彼は俺の肩にそっと手を載せると、慈しむように俺に語った。
「湖春ちゃんをはじめ白石屋の皆さんも、江戸の煎餅屋さんも、それに私も。あなたは関わった全ての人に幸せをもたらしています。もしサブさんのいない歴史では、川辺屋も江戸支店の騒動で滅茶苦茶になっていたはずです。この時代にあなたが来たことは紛れもない奇跡であり、この日本という国にとっても大きな前進なのです。それを私はどう否定できましょうか?」
棟弥さんの言葉を聞いた途端、俺の胸のざわめきは収まり、代わりに目から止めどなく熱い涙が流れ始める。
そうか、俺は皆からそう思われていたのか。しっかりとこの時代の役に立って、感謝されているのか。
そう分かっただけでも救われた気分だった。俺が今までしてきたことには意味があり、多くの人々にプラスだったのだと。
「棟弥さん、ありがとうございます」
ずずっと鼻水をすすりながら俺は答えた。真っ暗な雪の中で本当に良かったと思う。
翌朝、ぐっすりとは眠れないまでも一晩を明かした俺たちは、イソリたちが俺たちの名を呼んでいるのを耳にした。
「こっちだ、こっちだよ!」
雪洞から飛び出した俺たちを見るなりイソリたちは仰天したが、大門屋の店主と俺たちの3人をソリに乗せ、すぐさま村へと帰ったのだった。




