ウェンカムイ演習場
(天空都市群グングニル最北島内陸部北側:プラト山村 プラト湖の凍結した水面上)
悪夢のような人体実験の後、俺は満身創痍で、ロッジを出た。
ロッジの外は、深々と雪が降っている。
寒村とした村と雪山の境界に、俺達のロッジはあるから、周辺には誰もいなかった。
村人の姿どころか、影も確認できない。
皆、冬ごもりの最中なのだろう。
零下の表に出るもの好きは、俺とマッド・ドクターだけのようだ。
「よし。場所はここでいいわね」
そういって、キーロが立ち止まったのは、凍った湖の岸辺だ。今は完全に凍りついていて、夏に揺れていた水面は、硬く沈黙している。
冬場は、凍結した湖面に穴をあけて、ワカサギ釣りができるらしいが、こんな極寒のなか、やりたがる釣り人はほとんどいないだろう。
現に、何処までも広がる茫洋とした氷の床には、誰もいない。
あるのは俺達二人の影と、湖面に積もる雪だけだ。
「……。おい、キーロ」
が、俺は我点がいかない。
俺達が向かうのは、午後の訓練をする演習場のはずだ。
静かに凍る巨大な湖じゃない。
「なによ? まだ整体のこと、根に持ってるの?」
「それもある。だが、別の話だ。演習場は何処にある? ここにあるのは凍った湖だけだぞ」
「ここよ」
「なに?」
「だから、こ・こ! この冬場に凍った湖が、演習場なのよ!」
俺は理解に苦しんだ。
確かに、凍った湖面は広大である。下手な大型コロッセウムより、床面積は広いに違いない。
だが。
「演習場って、壁も客席も、飛竜用のウェイトもないじゃないかよ! それに、阿保みたいな気温ときてる。こんな練習場所、正気の沙汰じゃないぜ」
「あら。でも、あなたみたいな巨竜が練習できるスペースは、この村にここだけよ」
「知らん! 確かに、気温は俺にとって問題じゃないかもしれない。俺は寒冷地の飛竜だからな。たいしたハードルじゃないさ。だが、ただの湖だっとは。演習場が聞いてあきれる。失望したぜ」
「ふうん。そう。帰るって言うのね?」
キーロが、紫の両目で俺を射る。
決意のある目だ。たとえ、与えられた状況が思い通りでなくとも、彼女はこのリハビリをやり遂げるだろう。
そう、確信させる眼差しだった。
「あー。ええ、別にそういうわけじゃ……」
俺だって、一度は決意した身である。
そう簡単に逃げ出すつもりはない。
ただ、湖そのものが演習場だったなんて。
少し、イメージとの落差に戸惑っているだけだ。
しかし、キーロはそれすら許さない。
「ふううん。そう。やらないっていうのね? なら、いいわよ」
「本当か! よかったじゃあ別のところを――」
「――その代わりに、午後はずっと整体よ。一千セットは打ち込めるかしら。たいへんだけれど、しかたないわね。あなたがそういうんだもの。ねえ? 整体好きのザザ選手?」
「――なんて素敵な演習場なんだ。広さも申し分ない。室内練習なんて、馬鹿のやることさ。ようし、張り切っていこう。『あるべき鏡の巨躯よ、我が真の姿となれ』!!」
キーロの危険な感情を察知して、俺はすぐにアニマ―ジュするため神経を集中した。
これでは、鞭を持つ猛獣使いと、鞭に怯える猛獣だ。
この関係は、面白くない。いつか、逆襲してやろう。
怪我を直したら、絶対何かしらのやり方で復讐してやる。
そう考えている間に、俺の全身を蛍のような光が包む。
そしてそれが弾け、霧散したときにいたのは、体長17メートルのブリザード・ワイバーンだった。
変身後の俺の姿だ。やはり、六枚あるうちの一組目、右の第一翼に、張りのような違和感がある。
だが、その違和感は以前より、ほんの微量だけ改善されている気がした。
もしかして、地獄の整体が功を奏したのだろうか。
うわ。うれしいけど、うれしくないな。だって、あれに効果があるということは、今後も地獄の激痛が続くことを意味するじゃないか。
キーロには、心の準備ができるまで、極力黙っておこうか。
心の準備ができるまでだ。整体から逃げるわけじゃない――。
「――あら。やっぱり、整体の効果があるわね。昼だけじゃなくて、就寝前もやることにするわ」
おそるおそる、キーロの方を振り返った。
彼女の両目が、暗闇にいる猫の目のように輝いている。
観察眼を強化する天空術、『サーチ』だ。しかもキーロのは現役の天空獣医師のそれより正確で精度が高い。レントゲンどころか、集中すれば血液検査や体脂肪率測定もできる。
変身後の身体の状態も、手に取るように分かるだろう。
「いいわね? 寝る前に二十セットよ。あ、やっぱり三十セット」
「増えてるぞ! なんであんな拷問が、日に二度も繰り返されるんだ! おかしい。断固抗議する!」
「いいじゃない。夜はぐっすり眠れるわよ?」
「『寝る』んじゃない。『死にかけて気絶して朝まで目が覚めない』って状態だろ!」
「つべこべ言うんじゃないわよ。ドクターは私。あなたは私に従って、リハビリをこなせばいいのよ。私は考える側。あなたは実行する側。初めから、そうだったはずよね?」
キーロが呆れたように、高圧的な言葉を俺にぶつける。
本性を現したな、あの魔女め。最初は無垢な苦学生を装っておいて、逃げられない状況に俺を追いこみ、徹底的にサディズムの犠牲者にするつもりだったんだ。悪辣主治医め。
このリハビリを乗り越えたら、覚えてろ。絶対、このままでは終わらせない。
だが、何事にも順予がある。リハビリが先、報復は後だ。
ここは、臥薪嘗胆し、奴のいいなりになってやる。
無論、このリハビリは、なにより体のためになる。その部分では、俺はキーロを疑っていない。
「わかった。わかった。お前に従おう、ドクター。俺は、何をすればいい?」
「ふん。それで、いいわ」
「くそっ。いや、なんでもない……話してくれ」
「この前、話したと思うけれど。あなたの『第一右翼支柱筋剥離』は、再発の可能性が高い、厄介な怪我よ。一度剥離すると癖になって、また剥離してしまう。そういう難しい怪我なの」
「だから、第一右翼支柱筋周辺の筋肉を鍛え、それらで鎧のように保護する。たしか、こういうことだったよな」
「それでは、半分ね。無論、そのトレーニングも過酷だけれど、本当に大変なのは、その後よ。第一右翼を意図的に鍛えるということは、あなたがこれまで保ってきた筋肉全身の調和を崩すことになるの」
「アニマ―ガスだから、知ってるさ。飛ぶという行為は、繊細なバランスの融合にって、可能になってる。少しでも崩れれば、墜落だ。一度完成した体の筋肉比率を意図的に変更するのは、かなりリスキーな行為だぜ」
「そうね。でも、あなたが再び飛ぶためには、これしかないの。鍛え直した第一右翼に合わせて、残り五枚の翼と体の筋肉を配分し直さないといけない。ここに期間は、一カ月。たったそれだけの期間でそこまで達成するのは、至難のわざだわ」
「でも、勝算はあるんだろう? 訓練メニューも、すでにできてる」
「そうね。後は実行するだけよ、ザザ。あなたにかかってるわ」
「まかせとけ。お前の頑張り、無駄にしないぜ」
俺は、日ごろの感謝を込める意味合いで、明朗な笑顔で応えた。
その後、キーロは俺から視線をそらす。
そして、小さな声で、返事をする。
「……そういうとこだけ、アスリートっぽいんだから……」
どことなく、彼女はぼんやりしていた。放心状態?
大丈夫か、あいつ? 寒過ぎて体調不良になったんじゃ……。
「どういう意味だ? 俺は常に、アスリートの気慨くらい持ってるぜ?」
俺が心配して声をかけると、キーロが我に帰る。
「ちょ、聞いてたの?」
「ああ、うん。普通に」
「聞かなくて、い・い・の・よ! こう言うとき世間では、聞いてないふり、するの!」
なんだそれ。
論理的なキーロにしては、やや無理のある主張だった。
「知らん。俺は、固定観念に縛られないプレーヤーだ。変身後の聴力は人間以上だしな」
「訊いてないわよ!」
「ああ、そうでも、なんで――」
「――もう、この話はお終い! さっさと移るわよ! 訓練に。訓練にね!」
「おい、キーロ? なに熱くなってる?」
「うるさい。さっさとストレッチ! 入念にしなさいよ、入念に。アメーバみたくなるまでやりなさい!」
一方的にキーロは怒って、矢継ぎ早に俺に指示を出した。
でも、アメーバは無理だろ。ワイバーンは脊椎動物だぜ、キーロ。
こうして、午後のリハビリが幕を開けた。
――まだまだ、道のりは長そうだ。




