第三十話~浅井の内訌~
第三十話~浅井の内訌~
織田信長からの命を受けた義頼の手による疋檀城の破却が終了した日の夕刻頃、浅井家の居城である小谷城から西に程良く離れた岡山と言う地に集められた一団が居た。
なおそのすぐ近くには、丁野山城と言う城が存在する。 その城は、浅井長政の祖父に当たる浅井亮政によって建てられた城であった。
また丁野と言う地は、一説には浅井家発祥の地とも言われている。 その様な浅井家にとって重要な土地のすぐ近くに、件の集団が居るのだ。 その上、彼らは武装までしている。 その様な事態が起きているにも拘らず、彼らは不審がられていない。 それはある意味、異常と言って良かった。
件の武装した一団であるが、彼らは夕餉を取っている。 故に、意識が食事へと集中してしまっていた。 そんな彼らの隙をついて、一団から数人ほどが離れて行く。 彼らは、件の一団よりやや離れた場所にまで到達すると、その地に隠れていた者達と接触した。
「間違いないのか」
「はい。 恐らく、明日中には出立すると思われます」
「行き先はどこだ」
「北。 疋檀城かと」
「……疋壇城か……あい分かった。 その方達は戻り、怪しまれない様にせよ」
「はっ」
彼らを戻る様に命じた者は、夕刻の空を見上げる。 そこには綺麗な夕日が、辺りを染めていた。
数人に対して一団へ戻る様に命じた男、それは甲賀衆の山中俊好である。 旗下の甲賀衆数人へ再度潜り込む様にと命じた彼は、戻っていく彼らが消えるまでじっと見続ける。 程なくして彼らが視界から消えると、山中俊好はこの場に残っている甲賀衆へと視線を向けた。
それから伴長信に命じて、本多正信へいま正に手に入れたばかりの情報を伝える様に指示する。 命を受けた伴長信はと言うと、彼に一つ頭を下げると幾人かの甲賀衆と共に六角館に向けてひた走った。
そしてこの場に残った山中俊好以下の甲賀衆だが、座している訳ではない。 彼らもまた、疋檀城に向ったのであった。
こうして疋檀城に向った山中俊好の一行だが、その日の夜には同城へと到着する。 彼はそのまま、破脚された城内で義頼との面会を取り次いだ。
浅井家に潜らせていた山中俊好が現れたと聞いた義頼は、即座に会う事を了承する。 間もなく面会が叶うと、彼は大まかに纏めた報告書を提出する。 そしてそこに記された内容は、決して看過出来る物ではなかった。
何と報告書には、浅井が動き織田家に反旗を翻すと記されているのである。 報告書に記された内容へ衝撃を受けながらも最後まで目を通した義頼は、視線を山中俊好へ向ける。 それからこの動きが、浅井家挙げてのものかと問い質した。
すると彼は、ゆっくりと首を左右に振る。 それから、報告書を補足する様に言葉を紡ぐのであった。
「どうやら、違うと思われます。 兵を率いる大将は、浅井惟安であります。 また、他の将も浅井久政の影響が大きい者達ばかりです。 それに引き換え、浅井長政殿の直臣といえる者は皆無です」
「つまりこれまでの一連の動きは浅井久政独断のものであり、息子の長政及び近侍の者はそれに巻き込まれたという事か」
「ほぼ間違いなく」
山中俊好の報告を聞いた義頼は、少し寂しげな笑みを浮かべた。
だが、それも無理はない。 今の浅井長政の立場は、嘗て義頼が体験した境遇とほぼ同じだからである。 しかし今更言っても詮無き事であるし、そもそも言ったからと言ってどうにかなる物でもない。 全ては、過去の事なのだ。
それに時が戻る訳でもなく、当時まで戻れる訳でもない。 その様な事より義頼としては、他に気にする事があった。
それはこの情報が、本多正信にまで伝わったかどうかである。 問われた山中俊好は、確りと頷く事で返答としたのであった。
何ゆえに義頼が本多正信への情報伝達を気にしたのかと言うと、六角館に残した彼にある命を与えていたからである。 その命とは、蒲生定秀を朽木元綱の元に送り出した後に出した物であった。
蒲生定秀や本多正信、そして沼田祐光を集めて行われたあの会議の日の翌日、沼田祐光が義頼にある進言を行っている。 それは、六角水軍に関する事であった。
彼は、此度の越前侵攻に当たって最悪の事態となった際の手当として、六角水軍を何時でも動かせる様に出来ないかと進言したのである。 万が一の事態を考えた物であり、あまり公に出来ない。 正に最終手段と言える物であり、用意だけで済めばそれに越した事はない動きである。 だが僅かでも可能性がある以上は、放っておくと言う訳にもいかなかったのだ。
故に義頼は、六角水軍を動かしたのである。 その采配を命じたのが、本多正信であったのだ。
山中俊好の報告から本多正信にまで報せが届いている事を確認した義頼は、小姓の吉田重綱に命じて近江衆と家臣を集めさせる。 夜も大分遅い時間であったので集るのが遅いかとの予想とは裏腹に、義頼の考えたよりも早く彼らは集まったのであった。
主だった近江衆と義頼の家臣が集まると、彼らを代表する形で馬淵建綱が義頼に尋ねる。 すると義頼は、気を落ち着かせる為か一つ息を吸ってからゆっくりと吐く。 そして視線を見据えると、彼らに現状起こっている浅井家の織田家離反に付いて簡潔に伝えたのであった。
まさかの事態に、誰からも言葉が出ない。 しかし時が経つにつれて彼らに言葉が沁み渡ると、あちこちから喧騒が起こる。 しかしそこで、義頼が一喝した。
「静まれ! 万が一を考えて針畑峠の道は確保してあるし、別の手も考えてある。 だが、長びけば街道も別の手も使えなくなるかも知れん。 そこで、殿……信長公には先に撤退をして貰う。 我らは、迫り来る浅井勢に対して一当てしてからの撤退となろう。 それと建綱!」
「はっ」
「その方に兵を任せる。 俺は義定らを引き連れて妙顕寺に向かい、殿に知らせる」
佐々木流馬術免許皆伝の義頼であるから、馬術の腕に間違いは無い。 時間が惜しい義頼は直ぐにでも発とうとしたが、そこを沼田祐光に呼び止められた。
ややいらつく様な表情を見せながらも、義頼は立ち止まる。 そして、先を促す様に言い放った。 その言を受けて沼田祐光は、義頼へ策を進言する。 それは、高島郡内における情報の遮断であった。
ここで飛び出た情報の遮断と言う言葉に、義頼は訝しげな顔をする。 そんな主に、沼田祐光は頓着せず言葉を続けた。
「今は動く気配を見せていない高島郡内より兵を動かされると、いささか厄介となります。 密かに甲賀衆を向かわせて、高島郡と浅井久政との情報を遮断します」
「……そう言う事か」
確かに、沼田祐光の言う通りの事が出来ればそれに越した事は無かった。
それにまだ決定した訳ではないが、もしかしたら船で撤退する事になるかもしれない。 そうなれば六角水軍の船が海津湊まで、高島郡内を強引に突っ切る事になるのだ。
そこまで考えた義頼は、山中俊好に目を向ける。 すると彼は、黙って頷いた。
「俊好、そなたに任せる。 見事、情報を遮断してみせよ。 だが、無理はするな」
「御意」
その後、義頼は甥の大原義定や沼田清延、それから沼田清延と沼田祐光の弟となる沼田光友。 他にも一部の馬廻り衆を伴って、疋檀城から出る。 そのまま一路、織田信長が本陣を置く妙顕寺に向かった。
やがて妙顕寺に到着した義頼の一行は、主へ面会を求める。 しかし早朝の時刻ではあった為、取り次ぎの者が難色を示す。 だがそれでも何とか相手を説き伏せると、どうにか義頼は織田信長との面会にこぎつけていた。
しかし早朝の為か、少々不機嫌な様子である。 そんな織田信長に対して義頼は、意識した訳ではないがそれでもやや焦り気味に情報を伝えた。
「殿。 浅井家が、敵となりました」
義頼が信長に浅井家の情報を伝えた頃とほぼ同時刻、浅井久政の命を受けた浅井惟安が疋壇城に向けて進軍を開始していた。
それから少し前、藤林保豊からの情報で浅井家の内偵を進めていた霧隠弾正左衛門がこの者達の動きを察知する。 すると彼は直ぐに、上司である遠藤直経に報告した。
この寝耳に水と言っていい情報を霧隠弾正左衛門から齎された遠藤直経は、思わず絶句してしまう。 だがすぐに気を取り直すと、霧隠弾正左衛門が報告と共に提出した書状に急いで目を通したのであった。
そこに書かれていたのは、兵を動かしたのが隠居の浅井久政である事。 そればかりかその兵の目的が、今は越前に侵攻している織田勢を後方から攻める為のものであるとなっていたのだ。
そんなただ事では無い内容が書かれた報告書に目を通した遠藤直経は、取る物も取りあえず部屋を出る。 そしてそのまま、浅井長政の元へと走った。
程なくして部屋に到達すると、朝早い時間にもかかわらず部屋の外から大きな声で呼びかける。 目覚めてから間もない浅井長政は、生あくびをしながら遠藤直経に尋ね返していた。
「……ったく。 何だ、この様な時刻から」
「殿! お父上が兵を動かしておりますぞ」
「はあっ!?」
正に想定外の言葉に、浅井長政の眠気など一遍残らず吹き飛ぶ。 彼は部屋と廊下を仕切る襖を開けると、片膝をついている遠藤直経に問い質した。 そこで彼は、霧隠弾正左衛門より提出された報告書を提示する。 慌てて奪う様に書状を受け取ると、必死な表情で読み進めた。
やがて最後まで読んだ浅井長政は、蒼ざめた顔を直経に向ける。 その直後、彼は主へと問い掛けていた。
「殿。 如何なさいますか?」
「……俺は父上に問う。 直経は、引き続き情報を集め「殿!」よ?」
少し間を開けてから直経に言葉を返したその時、浅井長政に声を掛けて来た者が居た。
誰かと思い、主従は揃って視線をそちらに向ける。 そこに居たのは、浅井家で軍奉行を務める海北綱親であった。
彼は三十代半ばでありながら、重臣の一角として浅井家に貢献している。 そしてその役職が示す通り、彼は浅井家の軍事に関与する事が非常に多かった。
そんな綱親が何故に今この場に居るのかと言うと、原因は浅井久政が岡山の地に集めさせた軍勢にある。 彼が集めさせた軍勢は、その性質上軍奉行である海北綱親には全く知らされていなかった。
しかし今現在、彼が全く関与していない軍勢が動いている。 その事に今朝になって気付いた海北綱親は、こうして朝早いにも拘らず浅井長政の元を訪れたのだ。
それは勿論、勝手に兵を動かしていると思われる浅井長政に一言物申す為である。 憤懣やるかたないと言った様子を隠そうもせずに長政へ詰め寄った海北綱親であったが、思わずと言った感じで呆気に取られている主を見て流石に何かおかしいと感じる。 そこで彼はこの場に居るもう一人、遠藤直経にどういう事か尋ねた。
だが、内容が内容である。 己の独断で綱親に話していいかと、躊躇してしまう。 しかしその時、浅井長政が我に返った。
「直経、話して構わん。 俺は父上の元に行く」
『御意』
二人にそれだけ伝えると、浅井長政は部屋に戻る。 そして彼は、急いで着物を着換えた。 やがて着換えが終わると、静かに部屋から出る。 するとそこには、平伏している遠藤直経と海北綱親が居た。
その様子から事情は聞き及んだと彼は察する。 その後、遠藤直経と海北綱親に後の事を任せると、浅井長政は父親である浅井久政の寝所へと向かった。
程なくして父親の寝所に着くと、彼は一言声を掛けてから部屋の主の返事も待たずに分け入る。 既に目を覚まし着換えていた浅井久政であったが、そんな礼を失した息子の行動を咎めていた。
例え親子と言えども、守るべき礼義はある。 浅井久政は、そう言って息子を嗜める。 だがそんな様子の浅井久政の言葉に耳を貸すつもりのない浅井長政は、全く言葉を返さない。 そしてそのまま黙って浅井久政に近づき座っている父親を見降ろすと、彼は語気荒く父親に独断で兵を動かした理由を尋ねた。
そんな息子の様子に浅井久政は、大きく溜息を一つつく。 それからゆっくりと立ち上がると、部屋の棚に置いてあった文箱から書状を一つ出した。 そのままその書状を、黙って浅井長政に手渡す。 その書状の正体は、足利義昭が浅井久政宛てに出した御内書である。 しかしその御内書に、浅井長政は強い違和感を覚えていた。
実は足利義昭の出した御内書だが、義頼に出したのと同様に浅井長政の元へと届いている。 しかして彼は遠藤直経などの浅井家重臣と諮った上で、最終的には御内書を黙殺したのだ。
その理由は二つある。 一つは、御内書の内容が義兄である織田信長を討てと言うものであった事。 そしてもう一つは、御内書自体である。 と言うのも、足利義昭は殿中御掟によって御内書を独断で出す事を信長から禁じられていたからであった。
最も、足利義昭自身に殿中御掟を守る意思など元からない。 形の上でしか守るつもりが無かったので、義昭は御内書を各地に送り策動を続けていたのだった。
「ですが、御内書は受けないと決めたのではないですか。 それでなくとも、我が浅井家と織田家は同盟関係なのですぞ」
「いいか長政。 この御内書がある事で、大義名分は此方にあるのだ。 更にあの後から、朝倉だけでは無く三好も味方につけたとの知らせもつい先日だが来た。 これならば、十分に勝機はある」
一度決まった事を蒸し返す父親に対して激昂している浅井長政へ、浅井久政は諭す様に言う。 だが浅井長政は、更に言い募り反論した。
「父上! 例えそうであったとしても同盟、いや義兄上に対して騙し打ちの様な真似など言語道断ではないですかっ!」
「ふん。 それを言うなら、先に反故にしたのは信長ではないか。 朝倉を攻める際は、こちらに知らせるとの約定を果たしておらん」
「それはっ……」
浅井久政に痛いところを突かれた浅井長政は、二の句が継げなくなった。
確かに浅井家と織田両家で婚儀を行う際に密約に近い形ではあったが、織田家と浅井家はある約定を交わしている。 それはもし、今後万が一にも織田家が朝家倉を攻める事となった場合には、浅井家に一報を入れると言う物である。 そしてこれは、朝倉家にある程度は配慮したいと考えていた浅井久政の横槍で結んだ物であった。
「長政、最早後戻りなど出来ないのだ。 分かったら、戦支度をせいっ!」
息子にそう言い放つと、彼は部屋から出ていこうとする。 しかし浅井長政は、父親の着物を掴んで阻害した。 そんな息子の態度に、浅井久政は表情を歪める。 それから「仕方ない」という顔つきとなると、手を二つ程叩いた。
その直後、隣室に控えていた武士が乱入して来る。 浅井長政自身弱い訳ではないが、十人近くの兵に囲まれては手を出し様が無かった。 それでもこの場より脱出しようとしたが、その願いは叶わない。 浅井長政は、床に押し付けられる様に捕えられてしまったのであった。
「いいざまよの、新九郎殿。 朝倉家を蔑にするから、その様な目にあうのだ」
すると少し皮肉が籠った様な声で、長政に声を掛けて来る者が居る。 父親とは違うその声に視線を巡らすと、そこには見知った顔が二つあった。
そこに居たのは、横山城代を務める浅井井演である。 そして浅井井演の隣には、彼の息子である浅井井伴が立っていた。
「そなたらも、父上に賛同するのか!」
「無論だ!」
浅井長政の問い掛けに、迷いなく浅井井演は答えた。
しかし、彼の隣に立つ息子の浅井井伴は迷いの様な表情が見受けられる。 だがそれも一瞬の事であり、浅井井伴も父親に追随して頷いた。 そんな二人を浅井長政は、憎々しげに見つめる。 すると僅かにだが憐憫を帯びた目を息子に向けながら浅井久政は、閉じ込めておく様に命じた。
彼としても、息子の浅井長政を討つ事などできうるならばしたくはないし、息子は自分と違い戦が上手い。 その意味でも、討ちたくなどないのだ。
しかも、このまま織田家との関係が決定的に拗れれば、考えを変える可能性がある。 その事が判明するまで、命を奪う気はなかったのだ。
「井演。 長政を連れて行け。 暫くは土牢にでも、放りこんでおくのだ」
「承知」
浅井久政の命を受けて、浅井井演と息子の浅井井伴が長政を連れていく。 そんな二人と、兵に引っ立てられていく息子を見送る。 やがて視界から消えると、浅井久政は己の部屋から出て行った。
その一方で小谷城の一角にある土牢へと連れて来られた浅井長政は、丁寧に入る様促される。 連れてきた兵も、流石に現当主を、乱暴に扱う気はなかった様であった。
とは言う物も、悔しさがない訳ではない その証拠に、浅井長政は悔しさに顔を歪めている。 それでも彼は、浅井井演の言葉に従って土牢へと入った。 その直後、扉には確りと南京錠が掛けられる。 浅井長政は、着物が汚れるのも構わずに彼らに背を向けたまま座る。 それは背中で、無言の抗議を行っているかの様であった。
浅井井演は少し面白くなさそうに、そして浅井井伴はばつが悪そうな表情を浮かべる。 だが、それ以上の反応を見せない浅井長政に何か言うでもなく、彼らは見張りの兵を残して土牢の前を離れて行った。
浅井井演たちが消えてからも暫く、浅井長政は無言で座っていたがやがて拳で床を殴りつけた。
「……父上。 希望と妄想は違いますぞ? まして、織田には義頼が同行している。 何か言ってきた様子はないが、此度の事に気付いている可能性……いや、恐らく気付いている。 その場合、如何なされるおつもりなのか」
【観音寺騒動】以来、幾度となく干戈を交えた二人である。 だからこそ、お互いを良く分かっていると言えた。 そして己が六角家に対して探りを入れ続けた様に、必ず義頼も浅井家に対して探りを入れている筈。 であるならば、きっと気付いているだろうと浅井長政は考えたのだ。
そして気付いていれば、絶対手を打っている。 そうなれば、父親の考えが頓挫するだろう事を考えるまでもなかった。
そこまで考えた浅井長政は、再度床を殴りつける。 するとその手からは、彼の心を代弁するかの様に一筋の血が流れ出たのであった。
浅井家で………。
ご一読いただき、ありがとうございました。




