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第二十九話~朝倉攻め~


第二十九話~朝倉攻め~


 

 織田信長(おだのぶなが)に同伴して上洛した義頼であったが、翌月に入ると彼は一度近江国へと戻っている。 その理由は、織田信長に付き従って近江衆(元六角家臣)と共に戦場へ向かう為である。 通し矢が行われたのも、元を質(ただ)せばそこに行き当たるのだ。 

 そもそもの発端は、上洛前に織田信長が近隣の大名に宛てた書状にある。 彼らに対して上洛を促したその書状を、完全に無視したのが越前朝倉家であった。 しかしながら、それだけでは軍勢を率いて攻める理由としてはいささか弱い。 だが面子を潰された以上、何か動きを見せねば織田家が侮られてしまう。 そこで織田信長は、朝倉家と似た様な対応をした一人の男に目を付けた。

 その男は若狭国の国人であり、名を武藤友益(むとうともます)と言う。 織田信長は彼を攻める振りをして軍を起こし、出陣後に矛先を武藤友益から朝倉家へと変えるつもりなのである。 つまり、武藤友益を攻めると見せ掛けて実は朝倉攻めを行う腹積もりだったのだ。

 標的にされたかと思えば、実はただのはったりだったと言うのだから武藤友益にしてみればいい面の皮である。 だが織田信長からしてみれば、彼など所詮は若狭国の一国人でしか無い。 そんな武藤友益を慮(おもんばか)る理由など、全く存在しなかった。

 言わば当て馬とされてしまったかの如(ごと)くな武藤友益の状況は一先ず置いておくとして、近江国に戻った義頼は六角館に直接向わず、その途中にある永原城へ立ち寄っていた。

 何ゆえに従軍する兵を集める為に近江国へと戻った義頼が、永原城に立ち寄ったのか。 その理由は、京を出立する直前にあった。 京から出立する当日に、彼は織田信長の元へ赴き挨拶を行っている。 その事自体は問題ないのだが、その際に義頼は主からある事を通達されたのだ。

 さて義頼を驚かせた織田信長の言葉の内容だが、別に叱責などでは無い。 では何なのかと言うと、嘗て義頼が長光寺城主であった頃に与力として仕えていた馬淵家と永原家に関する事である。 何と織田信長は、両家を義頼の家臣にしろと言ってきたのだ。

 それは寝耳に水の言葉で、思わず目を丸くしている。 それだけでなく、義頼は思わず問い返している。 それぐらい織田信長からの言葉は、義頼にとって唐突だったのだ。 とは言え、主からの命である。 義頼は何とか驚きを取り繕うと、了承したのであった。

 その後、義頼は武家故実を拝命した六角承禎(ろっかくしょうてい)と、彼の護衛の為の甲賀衆を幾許かを京に残した上で出立する。 彼は織田信長の命で義頼や六角承禎と同様に上洛した吉田重高(よしだしげたか)や、彼の嫡子で義頼の小姓を務める吉田重綱(よしだしげつな)らと共に近江国へと戻ると前述の様に義頼は永原城へ入ったのだった。

 一応先触れを出してはあるが、当初の予定にはなかった訪問である。 永原家の当主である永原重虎(ながはらしげとら)にいささかの驚きはあったが、ただそれだけである。 彼は、義頼に突然の訪問に対する理由を尋ねた。

 その際のやり取りで義頼は、目の前の男が此度(こたび)の一件に付いて熟知している事を知る。 何せ永原重虎は、義頼へ挨拶する際に「殿」と言ったのだ。

 この尊称は、少なくとも織田直臣として同格である永原重虎が義頼に対して使う言葉では無い。 もし使うとするならば姓の後や官途名の後に、失礼とならない様に誰々「殿」と言った形で使用する言葉であった。 

 その尊称を義頼に対して呼び掛けたのだから、彼が織田信長の命を承知している証左である。 しかしそれは永原重虎が、織田家直臣から義頼の家臣、即ち陪臣になる事に他ならない。 だからこそ義頼は、永原重虎に対して本人の意思を確かめたのであった。


「だが重虎……その方は、それで良いのか? この話を受けると言う事は、そなたは織田家直臣から織田家において陪臣となるのだぞ」


 前述した通り、この話を受ければ永原重虎の織田家内における身分は直臣から陪臣となってしまう。 だからこそ義頼は、しつこいぐらい念を押す様に確認しているのだ。

 陪臣でもよいのかと。

 だが、永原重虎からの回答は、追随でしか無かった。


「構いません。 それとも、御迷惑でしたか?」

「そんな事は無い! むしろありがたい話だ」


 織田家に降伏した事で元六角家臣の大抵の者は、織田家直臣となるか浅井家家臣となっている。 その為もあって、現在家臣は少ない。 その様な状況に陥っている義頼にとって、永原重虎と言う六角家の元有力家臣が臣下に入ると言う事実は有り難い以外の何物でもないのだ。

 こうして永原重虎から確固たる決意を確認した義頼からは、最早何も言う事はない。 彼は諸手を上げて永原重虎の……否、彼を筆頭とする永原一族の家臣入りを喜んだのであった。

その翌日、義頼は永原城を発つと今度は馬淵城へと向かう。 そこで、馬淵建綱(まぶちたてつな)と面会した。 彼が馬淵城を訪れた理由も、実は永原重虎と同様である。 義頼の家臣となれば陪臣となってしまう馬淵建綱に、真意を確認する為であった。

 その後、義頼は馬淵建綱と一対一で彼の考えを問う。 すると一拍置いてから、馬淵建綱は己の心を吐露したのだった。


「殿。 拙者は、元から考えていた事にございます。 ですが降伏のおりに領地を殆ど召し上げられた六角家……いえ違いますな。 殿に、馬淵の家を養う余裕などないのは明白でございました。 しかし此度、殿は但馬攻めが上首尾に終わった事で甲賀郡を賜りました。 それ故に、拙者も言い出す気になったのです」

「それで、重虎と同調してか」


 だが、馬淵建綱は首をゆっくりと左右に振る事で義頼の言葉を否定する。 と言うのも、この二家がほぼ同時に義頼の配下へと織田信長に具申したのは、本当にただの偶然だったからだ。 


「いえ。 それは、ただの偶然にございます。 それに、拙者にはもう一つ理由があります」

「理由だと?」

「はい。 拙者は、蒲生殿より後を託されております。 あの時より拙者は、殿の家臣のつもりでおりました。 何より金打ちまでした約定、破る訳には参りません」


 静かだが巌の様に揺るぎない意思が籠った言葉を聞きつつ、義頼はある戦を思い出していた。

 それは、まだ六角家が一個の大名として湖北を抑える浅井家との間で近江国の覇権を競い合っていた頃まで遡る。 それは、【宇曽川での戦い】であった。

 その戦の最中に、義頼の元傅役であり同時に彼の筆頭家臣である蒲生定秀(がもうさだひで)が馬淵建綱とある約定を交わしている。 それは既に高齢である蒲生定秀が、隠居後に己の役目を馬淵建綱に譲ると言う内容であった。

 実力的には六角家ともほぼ同等、いや下手をすれば凌ぎかねないとさえ言われていた蒲生家の先代である蒲生定秀。 その彼の力は、近江国人であれば良くも悪くも誰もが知っている。 その蒲生定秀から、己の後継にと見込まれ指名されたのが他ならぬ馬淵建綱であった。


「そうか……そう言えば、そうであったな……分かった。 ならば建綱、これからは確と頼むぞ」

「御意」


 馬淵建綱と永原重虎の両名に会って、二人の意思を確認した義頼は意気揚々と六角館に到着した。 すると間もなく、彼は近江衆の編成に入る。 近江衆を集めて出陣する事は知らせていた為、観音寺城周辺には鯰江城主の鯰江定春(なまずえさだはる)や垣見城主の永田栄俊(ながたひでとし)と言った近江国人の将兵が徐々にではあるが集って来ていたからだ。 

 義頼は彼らの編成が済み次第、頃を見計らって観音寺城を出陣する予定である。 向かう先は、織田信長の指示で和邇城(わにじょう)となる。 この城に駐屯しつつ、織田信長を待つ事になっていたのだ。 するとその時、誰かが近づいて来る気配を感じた義頼は視線をそちらに向ける。 そこには、本多正信(ほんだまさのぶ)の姿が見て取れる。 彼は義頼に近づくと、声を顰めて義頼に話し掛けて来た。

 始めその場で聞くつもりであったが、本多正信は場所を移して話がしたいらしいことを察した義頼は、「此処では駄目なのか?」と尋ねだが彼は首を振る。 そこで義頼はこの場を甥の大原義定(おおはらよしさだ)に任せると、本多正信の案内で六角館の一角にある部屋に向った。

 するとそこには、蒲生定秀や沼田祐光(ぬまたすけみつ)も居る。 そんな彼らの間を縫って義頼が上座に腰を下ろすと、本多正信は主にある報告書を差し出た。

 態々別室に呼んでまでの報告なのかと彼は訝しんだが、先ずは内容を把握しようと読み進める。 すると義頼の表情は、何とも言えない物へと変わっていた。

 と言うのも、そこに書かれていた内容が浅井家に関するものだったからである。 織田家に取り新参者である義頼は、少しでもうまく立ち回れる様にと甲賀衆による網を織田家重臣には被せている。 そしてそれは、織田家と同盟関係にある大名も同様であった。

 最も浅井家と六角家は、元から仲がいいとは言えない。 今は味方であるが、浅井家の老臣ほど六角家に対して忌避感を持っている。 その様な家に対して、情報を集める網を掛けないと言う選択肢を取る筈もなかった。

 それ故に浅井家の情報が入って来た訳だが、その情報によると浅井家内部に妙な動きがある。 しかもその動きを主導しているのは、隠居している浅井久政(あさいひさまさ)なのだ。 しかしながら彼とは裏腹に、浅井家当代となる浅井長政(あさいながまさ)には全くと言っていいほど動きが無い。 いや正確には、浅井久政の動きに対して全くと言っていいぐらいに関与していないのだ。

 しかも、浅井久政の動きは何を根拠としているのか見えてこない。 はっきり言って、不気味な蠢動であった。 だからこそ本多正信は、蒲生定秀や沼田祐光を呼んだ上で義頼へと報告したのである。 

 とは言え、これだけでは情報が少ない。 それを証明するかの様に蒲生定秀や沼田祐光も首を傾げていたが、それで答えが出て来る訳でもなかった。 そんな二人の様子に小さく溜息をついた本多正信は、一先ず話を打ち切ろうと義頼を見る。 だがしかし、彼には言葉を紡ぐ事は出来なかった。 その理由は、義頼の表情にある。 本多正信には、主が何か訝しんでいる様に見えたのだ。

 さて義頼が何ゆえに訝しんでいたかと言うと、無論浅井家の状況である。 現在の浅井家の状況に義頼は、どこか引っ掛かりの様な物を感じていたのだ。

 それは形を成している訳では無く、いわば勘と言える物でしか無い。 だが義頼は、どこかで似た様な事を経験をしている。 そんな感じが、どうにも払拭できなかったのだ。


「しかし……浅井家も、案外ですな。 一枚岩に纏まっているかと思っておりましたが、先代と当代が別々に動くとは」


 釈然と出来ないままに唸っている義頼を尻目に、沼田祐光が声を上げた。

 それは大した事ではない、何でも無い一言である。 しかしその言葉に義頼は激しく反応すると、次の瞬間には沼田祐光へ詰め寄っていた。


「祐光! 今何と言った!!」

「は? いえ、浅井も一枚岩ではないと」

「そこでは無い。 その後だ!」

「えーっと。 先代と当代が別に動くとは、と」


 襟首を掴むぐらいの勢いで沼田祐光へ詰め寄っていた義頼であったが、彼からの言葉を聞いた直後その場に胡坐をかくと考えに浸る。 義頼が考えた事、それは四年ほど前にこの近江国で起こった事であった。

 将軍である足利義昭(あしかがよしあき)がまだ足利義秋(あしかがよしあき)と名乗っていた頃、六角家は足利義昭を匿っている。 しかしその際に【観音寺騒動】を起因として隠居していた六角義治(ろっかくよしはる)が、あろうことか足利義昭と敵対してい三好家と独自に約定を結んだのだ。

 しかもこの約定は、六角義治が秘密裏に行ったのである。 言わば密約であり、当時六角家の当主であった大原義定や兄の六角承禎すら結ばれた当初は把握していなかった。 六角義治のすぐ近くに居た当時は六角高定と名乗り六角家当主であった大原義定や彼らの父親である六角承禎がその状態であったのだから、当時長光寺城主として観音寺城下にある六角館にいなかった義頼が知る筈もない。 何せ彼がその密約を知ったのは、事態がさらに進んで殆ど切羽詰まった状況になってからであった。


「当時の俺の立場を長政に当て嵌め、義治の立場を久政に当てれば……いやまて、それではまだ足りない。 仮に密約があったとして、それを証明できるものが…………あっ!」


 そこで義頼は、浅井久政の行動を正当化できる存在に思い至る。 それは義頼や大原義定、更に六角承禎にも届いた足利義昭からの書状、即ち御内書であった。

 六角家に来ていたぐらいだから、浅井家に来ていても何ら不思議はない。 お市の方を正室としている浅井長政が受けるとは到底思えないが、父親の浅井久政ならばその限りでは無かった。 それでなくても浅井久政には、織田家と言うか織田信長嫌いという噂がある。 そんな噂が立つ事を考慮すれば、浅井久政が行動を起こさないとは断言しづらかった。

 その一方で何かを呟きながら考えに浸っているかと思うと、いきなり声を上げた義頼に対して蒲生定秀と本多正信と沼田祐光の三人は窺う様に見る。 すると突然、義頼は顔を上げた。


「定秀、正信、祐光。 ここは、最悪の可能性を考えて行動する。 正信は引き続き、いや特に綿密に浅井を探ってくれ」

「承知致しました」

「定秀は、朽木元綱(くつきもとつな)のところに行け。 想定される最悪の事態となった場合、元綱の協力と朽木領に繋がる街道は確保しておきたい」

「どういう意味ですか?」

「浅井が、いや浅井家先代当主の久政が朝倉と行動を共にする可能性が僅かだが出て来たという事だ」


 義頼の言葉に蒲生定秀と本多正信、主の懸念している事を漸く察した。

 二人とも、三好長逸(みよしながやす)の侵攻後に義頼から義昭が動座した経緯をあらましながら聞き及んでいたからである。 つまり義頼は、越前討伐を始めた後に浅井家が織田家の後方を遮断する可能性を考えているのだと。

 その事を蒲生定秀が指摘すると、義頼は少し悩んでから首を振る。 彼が懸念しているのは浅井家そのものではなく、浅井久政と彼に同調するであろう一部の浅井家臣に付いてである。 故(ゆえ)に義頼から浅井久政の名前が出た途端、蒲生定秀も腑に落ちてしまっていた。

 彼は義頼の父親である六角定頼(ろっかくさだより)の股肱の臣として、幾度か浅井家との抗争に当たっている。 六角定頼は、後に大名としての六角家最盛期を作り上げたと言われるぐらいの存在であった。 それは日の出の勢いと言っても差し支えないぐらいであり、その力に押され浅井家は一時六角家の臣下とならねばならないぐらいにまで追い込まれている。 そんな浅井家にとって苦渋の決断をしたのが、浅井久政であった。

 そんな浅井久政が動いているからこそ、義頼の懸念に対して蒲生定秀は同意したのである。 当時を、己の体験で知る彼だからこそであると言えた。

 因みに義頼は、当事について六角承禎と蒲生定秀から話を聞いているだけに過ぎないと明記しておく。

 何であれ義頼の懸念に対して腑に落ちた蒲生定秀は、明日にでも朽木家の居城である朽木城へ赴き、朽木元綱に合う事を伝える。 彼に頷いた義頼は、その後、視線を沼田祐光へと向けた。

 それは彼に、越前攻めの際は同行して貰うからである。 その件を伝えると、沼田祐光は即座に了承する。 元々そのつもりであった彼にとって、今更だからであった。 


「ところで、殿。 この浅井家内部の動きですが、大殿(織田信長)には報告なさいますか?」

「……いや祐光。 やめておこう。 正直言って、根拠が薄い。 最悪、讒言(ざんげん)と取られる可能性がある。 だから俺達だけで、最悪に対処しておこう。 無駄となれば、それに越した事は無い」

「ですが、浅井家に対応して貰うのが一番だと思うのですが」

「む……」


 確かに沼田祐光の言う通りである。

 浅井家で対応して貰えば、義頼が懸念した最悪の事態は回避できる。 しかし、別家の者から身内の行動に付いて指摘されてしまえば逆に意固地になりかねなかった。

 いや浅井長政だけならばそうはならないだろうと何故(なぜ)か確信を持っている義頼だが、周りが必ずしもそうだとは言い切れない。 穏便に知らせる事が出来るのであれば最善なのだが、その方法は流石に思い付かなかったのだ。

 するとその時、本多正信がある提案をする。 それは浅井家の中枢である浅井長政や周りの重臣に伝えるのではなく、別口から情報を流すと言うものであった。 そんな事が可能なのかと問い掛けると、彼は確りと頷く。 その態度に義頼は、本多正信へ下駄を預けることした。

 この決定を持って話を終えると、彼らは部屋から出る。 義頼と沼田祐光は従軍の準備の為に、蒲生定秀は朽木城へ出立する為に。

 そして本多正信であるが、彼は甲賀衆筆頭の望月吉棟(もちづきよしむね)を呼び出す。 それから、浅井家の伊賀忍び衆を束ねる遠藤直経(えんどうなおつね)配下の霧穏弾正左衛門(きりがくれだんじょうざえもん)へ情報を流す様に取り計らった。

 実は甲賀郡を本拠とする甲賀衆と伊賀国に本拠を置く伊賀衆は、隣接する事もあって繋がりがある。 その繋がりを利用して、浅井家に情報を流すのである。 あくまで甲賀衆と伊賀衆の繋がりを利用してであるので、そこに六角家の影が現れる事はないのだ。

 本多正信から命を受けた望月吉棟は、伊賀三人衆と呼ばれる伊賀衆の内で特に力を持つ三家の一家、藤林家に接触する。 彼の家は領地のすぐ隣が甲賀郡と言う事もあり、三家の中でも特に甲賀衆とは繋がりを持つ為であった。

 望月吉棟から依頼された藤林家当主の藤林保豊(ふじばやしやすとよ)は、即座に実行する。 藤林保豊の使いの者から「あくまで推測の域を出ないが」という前提のもとで話を聞いた浅井家の忍び衆を束ねる霧隠弾正左衛門は、眉を顰めた。

 報せの内容が内容だけに、それも致し方が無いだろう。 しかし、だからと言って放置できるような類の物でも無かった。 そこで霧隠弾正左衛門は、先ず独自に調べる事にする。 その結果次第では、遠藤直経に報告すると決めたのであった。

 その数日後に本多正信から手は打った事を聞かされた義頼は、彼に労(ねぎら)いの言葉を掛ける。 しかし同時に、彼の胸の内には表しようのない何かが残っていた。

 その一方で朽木元綱の元に向った蒲生定秀だが、朽木城にて面会を果たしている。 元々朽木家は、高島七頭の一角を務める家であるが、他の六家よりも足利家との縁が深い。 その様な理由もあって、足利義昭が近江国に居た頃から義頼との間に何かと縁があった。

 特に義頼と朽木元綱の年齢が近い事もあり、両者の関係は友人と言って差し支えない間柄である。 そんな義頼からの書状と共に現れた蒲生定秀の願いと言う事もあり、朽木元綱は快諾したのであった。

 何はともあれ打てる手は打った義頼の元に、近江衆も揃い出陣の準備が整った事が伝えられる。 すると義頼は、粛々と観音寺城を出兵する。 だがそれは、内心に一抹の不安を抱えながらの出陣であった。



 観音寺城を出た義頼は、途中の栗太郡や野洲郡の国人達と合流した。

 この辺りの国人達は、義頼が長光寺城主であった頃に与力と言う形ではあるが殆ど家臣と言ってもいい関係にあった者達である。 それ故に、彼らは積極的に参集に応じていた。

 そんな彼ら近江衆を率いる義頼は、程なく和邇城に到着する。 そこで織田信長を待っていると、半月も経たないうちに、主が率いる織田家本隊と彼の要請を受けて徳川家康(とくがわいえやす)が率いる援軍とが合流した。

 その後、軍を再編してから織田信長は和邇城を出る。 高島郡にある田中城にて一泊してから若狭国に入り、熊川城に到着するとそこで宿泊した。

 現在の熊川城は、松宮清長(まつみやきよなが)の嫡子である松宮左馬亮(まつみやさまのすけ)が城主となっている。 その熊川城を、複雑な思いで沼田清延(ぬまたきよのぶ)と沼田祐光(ぬまたすけみつ)と沼田光友(ぬまたみつとも)の三兄弟が見ていた。

 元々この熊川城は沼田家の居城であったのだが、同じ若狭武田家の家臣であった松宮清長が攻め寄せた事により落城している。 その際、三兄弟の父親である沼田光兼(ぬまたみつかね)は、一族を逃がす為に兵と共に城に残り文字通り最後の一兵になるまで戦い討ち死にしている。 その様な経緯もあって松宮家は若狭沼田一族に取っての仇敵なのだが、今は味方の為に敵討ともいかないのだ。

 しかし理性では納得していても、感情は納得していない。 だからこそ三人は、兄弟の間で愚痴をこぼす事で憂さを晴らしていた。

 そんな三兄弟に対して、侘びの声を掛けて来た者が居る。 誰かと思えば、それは大原義定であった。


「すまぬな。 お主達に、辛い思いをさせて。 本来なら叔父の義頼が行っているのだろうが、今は大殿(織田信長)の近くに居るからな。 せめて、俺が変わりに謝ろう」

「大原様……お気づかい感謝致します」

「我ら兄弟、短慮な行動は致しませぬ」

「その通りにございます」


 その詫びに対して沼田清延と沼田祐光、そして沼田光友の順で答えた。

 沼田三兄弟の言葉に大原義定は一言「感謝する」と残してから、踵を返して陣内へと戻っていく。 沼田三兄弟はそんな彼を見送ったが、やがて大原義定が陣幕の中に消えると長兄の沼田清延が口を開いた。


「殿といい、大原殿といい。 六角家に仕官した事、間違いでは無かったな」

『おう』


 沼田清延の言葉に、沼田祐光と沼田光友は、声を揃えて同意したのであった。

 明けて翌日、熊川城を発った織田信長率いる軍勢は、御題目としていた武藤友益の居城がある石山城には向かわず本来の予定通りに東進を開始する。 そして、若狭国人の粟屋勝久(あわやかつひさ)の居城である国吉城に到着するとそこでも一泊した。 

 因みにこの日、年号が永禄から元亀に改元されている。 その理由は、将軍である足利義昭が改元を朝廷に申請した為であった。 その改元の報告を聞いた信長は、とても不満そうな表情を見せる。 それと言うのも信長は、義昭が言い出した改元には反対の立場を取っていたからだ。

 しかし詔(みことのり)が出てしまった以上、不満が有ろうとも従う他はない。 織田信長は苦虫を噛み潰したかの様な表情を浮かべつつも、改元を了承したのだ。

 何はともあれ国吉城で不本意ながら二日ほど過ごしてから、越前と若狭の国境である関峠を越えて敦賀へと入る。 そして、本陣を妙顕寺に置いた。

 そこで早速軍議を開き、織田信長は金ヶ崎城攻めを通達する。 金ヶ崎城は、敦賀の町の北東にある小高い山の上に建築された城である。 敦賀湾を一望できる金ヶ崎城は、敦賀を抑える為にはどうしても排除する必要がある城であった。 この城には、敦賀郡司を務める朝倉景恒(あさくらかげつね)が入っている。 初戦と言う事もあり、今後の勢いを付ける為にも勝利は必須であった。

 しかしその金ヶ崎城を攻める為には、支城となっている天筒山(手筒山)城が邪魔である。 そこで織田信長は、先ずはこの天筒山城を攻める事にした。

 攻め手の大将には、丹羽長秀(にわながひで)を指名する。 彼は柴田勝家(しばたかついえ)や森可成(もりよしなり)と言った、織田家生え抜きの諸将を率いて天筒山城攻めと言う晴れの舞台を前にして武者震いをしていた。 

 そして義頼であるが、彼には別動隊としての任務が命じられている。 近江衆と言う一軍に匹敵する将兵を率いている以上、その命も当然と言えた。

 義頼が信長から命じられたのは、疋檀城である。 この城は疋檀氏の居城であると同時に、浅井領と接する朝倉領最南端の防衛拠点でもあった。

 また、交通の要衝でもある。 かつては畿内を守る三関の一つ愛発関(あらちのせき)があった、とも言われる場所である。 その命を受けた義頼は、即座に兵を纏めると疋檀城に向けて出陣したのであった。

 翌日、長秀を総大将に織田勢が力押しに天筒山城を攻めたてる。 この戦はかなりの激戦となり、織田勢に少なくはない被害が出てしまう。 しかし朝倉勢にも相応の被害があり、約千五百とも数千ともされた城兵はほぼ全滅してしまう。 金ヶ崎城以上の要害と考えられていた天筒山城は、僅か一日で陥落したのであった。

 その頃、疋檀城はと言うと実に静かな物である。 天筒山城にて行われた攻防とは裏腹に、義頼は疋檀城を取り囲んでいるだけだからだ。 つまり篭城戦であるのだが、始めからそのつもりであった訳ではない。 義頼が篭城戦を選択させた理由は、沼田祐光が進言したからであった。

 彼曰く、金ヶ崎城が落ちれば疋壇城に籠る将兵も降伏すると言うのである。 義頼としても無駄に兵を損傷したい訳ではないので、戦をしないで済むならばそれに越した事はないと沼田祐光の策を採用したのであった。

 しかし、小競り合いなどはやはり起こってしまう。 他にも相手を挑発して攻めさせ様と言った手合の物は起きたが、それぐらいでしかない。 特に両軍勢の間で被害らしい被害も無いうちに、戦場は夜を迎える。 殆ど可能性はないが夜襲が無いとは言い切れないので、義頼は警戒を密にする様に徹底させていた。

 しかし幸いも取り越し苦労に終わり、何も問題なく翌日を迎える。 すると義頼達の元に、天筒山城での戦結果が齎される。 味方の被害が少し大きい事は気になるが、予想通りの戦勝に義頼は少し安心した。

 その翌日となると、不利を悟った朝倉景恒が金ヶ崎城の開城を条件に降伏を織田信長に通達して来る。 すると織田信長はこれを了承し、朝倉景恒率いる朝倉勢は金ヶ崎城を退去すると木の芽峠に防衛線を構築している朝倉勢と合流した。

 この金ヶ崎落城の報せは、その日のうちに義頼の元にも届けられる。 戦の詳細を知ると、彼は疋壇城へ使者を送り降伏勧告を行った。


「金ヶ崎城は落ち申した。 中務大輔(朝倉景恒)殿は、木の芽峠まで移動しております。 最早幾ら待とうとも、援軍などは来ない。 早々に開城し降られよ」


 軍使を務める永原重虎の口上と、金ヶ崎城開城の情報が届いていた城主の疋壇六郎三郎(ひきたろくろうさぶろう)は悔しさに顔を歪めつつも降伏を受け入れた。

 なお籠城中の疋壇城へ情報が届いていた理由だが、それは義頼がわざと情報を流したからである。

 何はともあれ、こうして降伏した疋壇城の兵は、景恒同様に木の芽峠に向けて落ちのびていった。 その後、疋壇城に入った義頼は織田信長に報告を届ける。 すると翌日には、主からの書状を持った使者が再度現れる。 その書状には疋壇城の取り壊しが命じられており、義頼はそれから二日掛けて疋檀城を破却したのであった。


朝倉攻めが始まりました。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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