第二十八話~通し矢と武家故実~
第二十八話~通し矢と武家故実~
少数の供を連れて六角館を出た義頼は、街道を進んでいた。
彼の目的地は、浅井家の居城である小谷城である。 義頼が小谷城へと向った理由は、上覧相撲の一件とそれにかこつけた遅めながら新年の挨拶である。 やがて一行は、清水谷へと到着した。
清水谷は小谷城下にある谷合であり、此処には浅井家の居館や浅井家臣達の屋敷が構えられている。 そんな浅井家臣屋敷の間を抜けて、義頼は浅井家の居館に到着した。
居館に通されて待つ事暫く、義頼は浅井長政と面会する。 上座に浅井家当主たる浅井長政が座り、部屋の両側には浅井家家臣がずらりと揃っていた。 その面会の場にても、相変わらず一部の浅井家臣より非好意的な視線を向けられる。 しかし義頼には、以前より非好意的な視線が減っている様に感じていた。
己に向けられる視線に込められる嫌な感情が以前よりも幾らかは減っているので、義頼としても少し気分が軽くなる。 しかし下手に浮かれて浅井家臣達の感情を不快にする必要もないと考えて、彼は表面上は普通にしている。 要するに、あくまで挨拶に訪れたと言う態度を崩さなかったのだ。
因みに義頼の感じた通り、六角家が織田家に降伏した当初より非好意的な視線は減っている。 そこには、義理とはいえ織田家を通じて兄弟となったと言う事実が物を言っていた。 六角家に嫁いだお犬の方と浅井家に嫁いだお市の方は、織田信長の同腹妹である。 故に、此処で下手な感情に任せて行動などすれば、浅井家ばかりか織田家の面子も潰しかねない事態があり得てしまう。 その様な事態は避けるべきと言う思いが、徐々にではあるが浅井家中に広がっていたのだ。
しかしながら、全員が全員、その様に思った訳ではない。 特に浅井家先代当主の浅井久政に近い者ほど義頼、ひいては六角家に嫌悪感を表していた。 その様に様々な感情が渦巻く面会の場だが、流石に表情以上の動きを示す者はいない。 しかし浅井長政も敢えてその事には触れず、義頼へ清水谷まで訪問して来た理由を尋ねた。
「さて……何用かな、六角左衛門佐殿」
「先ずは、新年の挨拶にございます浅井備前守殿」
「そうか。 それは祝着至極」
未だに一部の浅井家重臣の六角家に対する嫌悪感や過去の遺恨もあるので、相婿でありながらどこか空々しい他人行儀な会話に終始する事となってしまう二人である。 だが両者とも、相手を嫌っている訳ではない。 むしろ幾度か干戈を交えたせいか、どこかお互いを認めている節があった。
「それと今一つ」
「まだ何かあるのか?」
「はい。 実は此度、信長公が上洛するに当たり常楽寺にて相撲を行うとの事。 その差配を任されました故、そちらの挨拶もと思いまして」
義頼の言葉を聞いた浅井長政は、先ほどまでと違い少し興味深げになる。 それは、全てではないが浅井家臣達も同様であった。 形の上では同盟者である織田家と浅井家だが、実力を考えれば織田家の方が上である。 無論口に出して言う事などしないが、その認識を間違えるととんでもない事になるのは明白なのだ。
具体的には、最悪攻め滅ばされるかもしれない。 その様な未来を回避する上でも、織田信長が主宰すると言う催しに積極的に参加する意味はあるのだ。
「ほう。 してその相撲に参加する者は、あちこちから集めるのか?」
「いえ。 取りあえず、近江国内で集めるつもりです」
「なれば、義弟の家としては我が領内からも出さねばなんな」
浅井家の方から言って来ると思わなかった義頼は、内心驚く。 今日の訪問には、浅井家の協力を得るという目的もあったからだ。 決していい感情を持たれているとはまだまだ言えない義頼が言うよりも、浅井家当主となる浅井長政が言い出した方が険が立たない。 そこに長政の意図があったかどうかは分からないが、彼からの申し出はありがたかった。
義頼は一つ頭を下げると、部屋から辞そうとする。 その時、浅井一門衆で老臣の浅井井演が、義頼へ聞こえる様に呟いた。
「六角の者がほいほいと訪れるとはな」
唾棄する様な物言いだったが、それも仕方がない。 彼は、浅井長政の祖父に当たる浅井亮政の兄弟に当たる。 過去の縁からか父親の浅井久政と同じく親朝倉という立場にあり、六角家に対してはいい感情を持ち合わせてはいない。 その事が分かり切っているからか、浅井長政は敢えて注意などはしなかった。
そして言われた方の義頼だが、彼も何も言わない。 それは立場の違いもあるが、それ以上に浅井井演の言葉が義頼の父親からの影響が大きい事を知っていたからだった。 浅井家は義頼と六角承禎の父親である六角定頼によって、幾度か苦境に立たされている。 そして浅井井演は、実際にその苦境を経験しているのだ。
その事を鑑みれば、浅井長政が彼の言葉を見逃したのも仕方がないと言える。 だが言われた方の義頼からすれば、そうではない。 だからこそ彼は文句こそ言わなかったが、その表情に一瞬だけだが苦みを滲ませた。
しかしそれは一瞬の事であり、直ぐにその生まれた表情を消すとそのまま部屋から出て行った。
やがて小谷城から観音寺城に戻った義頼は、上覧相撲の開催に邁進する。 何と言っても遺漏無く催す事が出来れば、織田家では新参者になる六角家や近江衆にとっていい方に働くからだ。
なお上覧相撲の参加者についてであるが、浅井長政へ告げた通り近江国内で集めるつもりであったのは間違いない。 しかし上覧相撲の話を聞き付けた近江国以外の周辺国からも参加する者が若干名あり、義頼は少し考えた後でその者達の参加も認めている。 その為、参加者については当初の予定を越える人数が集まったのであった。
その様な経緯もあって、義頼は特に治安に力を入れている。 何せ当日には織田信長自身が居るのだから、家臣として力を入れないなどあり得ない。 ましてや当日に近づけば近づくほど力自慢が集うのだから、当然の仕儀であった。
こうして準備を整えた義頼は、織田信長へ書状を認める。 それから暫く後、織田信長は岐阜城を出立する。 出立当日は赤坂で宿泊し、その翌日には会場がある常楽寺へと到着していた。
明けて翌日、織田信長は相撲を行う会場を検分する。 薄く笑みすら浮かべている様子から、決して悪い印象ではない事が窺い知れる。 その事に義頼は安堵して、ほっと胸を撫で下ろしたのであった。
その様な織田信長直々の検分が行われてから数日後、いよいよ上覧相撲が執り行われる。 参加した者達は百済寺の鹿や小鹿、たいとうや長光と言った面々。 他に河原寺の鯰江又一郎や青地与右衛門と言った者達を筆頭に錚々たる者達であり、彼らは皆、実際に開催を運営する義頼達の目に叶った相当な腕自慢、力自慢達であった。
「その方ら、良く集まった。 そなたらの力、我の目の前で思う存分振るうが良い」
『はっ!』
上覧相撲の開催に当たり、織田信長から一言賜る。 それが済むと、いよいよ上覧相撲は始まった。 参加した者の相撲は、時に白熱した取り組みが催される。 また、時には拍子抜けというか肩すかしな取り組みなどもあった。
様々な取り組みがある中、織田信長を含めた相撲を見ている者達は一喜一憂する。 その様な中、最終的に勝ち残ったのは鯰江又一郎と青地与右衛門の両名であった。
残るは、二人による直接対決だけである。 取り組みが始まるに当たって、主催者である織田信長から両名に言葉が掛けられたのであった。
「双方、よくぞ勝ち残った。 その方ら、今までに恥じぬ取り組みを見せよ」
『はっ』
「では始めよ」
織田信長のその言葉を切欠として、ついには両名の取り組みが始まる。 この取り組みの行司は、木瀬蔵春庵が務めていた。
ここまで勝ち残った二人の取り組みは、正に息を飲むという言葉がしっくりと来る物である。 二人の行う見事な戦いに、織田信長を含めてその場に居る者達は勝負に引き込まれていく。 その証左であろうか、皆思い思いに声援を二人に対して掛けたのであった。
中々に実力が伯仲している二人である為にそう簡単に決着がつかないかと思われた矢先、僅かな隙をついて青地与右衛門が鯰江又一郎を破る。 その際、信長の口から「見事!」という言葉が出たとか出ないとか言われたが定かではない。 何であれ二人の取り組みは、青地与右衛門の勝利で幕を閉じたのであった。
それから半時ほどした後、織田信長は決勝戦を演じた二人を召し出す。 進み出た二人が平伏すると、彼らに声を掛けたのだった。
「両名とも、見事な取り組みであった」
『はっ』
「その取り組みを評し、褒美を与える」
その言葉を切っ掛けに、小姓が熨斗付の大刀と脇差を織田信長の前に二組差し出す。 すると自ら手に取り、それぞれに与えた。 手渡された二人は感動のあまり、震える手でそれらの褒美を受け取る。 その直後、信長は彼らに対して相撲奉行に任じる旨を伝えた。
手ずから褒美を貰ったばかりか、信長自ら家臣に取り立てると言う言葉に二人は更なる震えに襲われる。 それでも何とか言葉を返し、彼らは相撲奉行として織田家へ召し抱えられたのであった。
また、この二人とは別に敗れはしたものの見事な相撲であったとして、深尾又次郎へ褒美を与えている。 織田信長は深尾又次郎に、自ら羽織っていた着物を与えていた。
因みに深尾又次郎だが、義頼の勧誘を受けて六角家の相撲奉行となったのであった。
何はともあれ、無事に上覧相撲を終えた義頼。 すると織田信長は、その様な彼を評して褒めの言葉を与えている。 首尾よく面目を果たした義頼はその後、兄の六角承禎と吉田重高と共に織田信長の上洛に加わっていた。
やがて京に入った一行は、朝廷の廷臣である公家衆や京の町衆に出迎えられる。 そのまま織田信長は、朝廷医師でもある半井驢庵の屋敷に宿泊する。 そして義頼達はと言うと、以前の上洛時と同様に角倉了以の屋敷を宿泊所としていた。
それから数日後、織田信長は御所に参内し帝に進物を献上する。 その際、義頼も同行していた。
それと言うのも、義頼は朝廷より正式に従五位下の位を賜っているばかりか、昇殿の許しも得ている。 現在の織田家中に置いて、織田信長以外では唯一昇殿が可能な人物なのだ。
その上、義頼は日置流免許皆伝であり、同行者としても護衛としても申し分なかったのである。
なお織田信長は、この参内のおりに正四位下弾正大弼の官位を賜ったのであった。
程なく朝廷から辞すると、半井驢庵の屋敷に戻る。 そこで義頼は、織田信長へ昇進の祝いを述べたのであった。
「殿。 おめでとうございます」
「官位などあまり興味は無いがな。 それはそれとして、二日後には公方(足利義昭)の元へ挨拶に窺う。 その方と承禎、あと重高だったか日置流当代も同行せい」
「畏まりました」
その後、半井驢庵の屋敷を出た義頼は、角倉了以の屋敷に戻ると六角承禎と吉田重高に信長の言葉を伝える。 当然二人からの否など無く、両名は即座に了承していた。
それから二日後、義頼は前述の二人を伴い半井驢庵の屋敷を訪れる。 そこで織田信長と合流すると、彼らは足利義昭の元を訪れていた。 しかして面会した二人だったが、どこか足利義昭の様子がぎこちない。 これは、凡そ二か月ほど前に認めさせられた新たな殿中御掟の事が影響していた。
そんな足利義昭の様子など全く意に介さず、織田信長は訪問の挨拶を行う。 鉄面皮と言うか、中々にふてぶてしいと言える態度であった。
「ところで、公方様。 実は翌週にも、蓮華王院の本堂(通称三十三間堂)にて通し矢を行おうと思っております。 つきましては、公方様にもご参加いただきたいと思いまして」
義頼と吉田重高は少し驚き、一方で六角承禎はやはりという顔をしている。 そしてこれこそが、織田信長が義頼の他に六角承禎や吉田重高達を同行させた理由だった。
実のところ、これも一つの景気づけに過ぎない。 今回の上洛に当たって、織田信長は書状を畿内及び近隣の諸勢力に上洛を促す書状を出した事は前述した。 しかし、幾つかの者から返事もそして代理の者も送って来ていない家がある。 その中で京に近く、そして侮れない勢力を持っている家がある。 それは、越前朝倉家であった。
しかもこの朝倉家は、織田家とも過去の因縁をもっている。 と言っても、織田と朝倉両家に諍いがあったと言う訳ではない。 朝倉家が問題視したのは、織田信長の家格だった。
織田家も朝倉家も、元は守護代の家柄である。 嘗ては有力大名であった斯波氏、その斯波氏の重臣として織田家は尾張国の、朝倉家は越前国の守護代を務めていた。
越前国の朝倉家は、応仁の乱を契機に事実上越前国を乗っ取り斯波氏に代わって越前国の守護となる。 そして織田家だが、こちらは内訌が発生していた。
朝倉家と同じく応仁の乱を契機としている。 その織田家の内訌だが、その末に織田家は伊勢守家と大和守家に分裂してしまう。 両家は尾張国の上四郡を伊勢守家が、下四郡を大和守家が領地とする事で最終的に内訌の決着を見た。
さて此処で問題となるのが、織田信長の弾正忠家である。 弾正忠家は、織田家の分家である大和守家の家臣の家なのだ。 同僚であった織田宗家ならばまだしも、分裂した織田家の更に家臣である弾正忠家出身となる織田信長の書状である。 朝倉家としては、一顧だにする気すら起きなかったのだ。
それ故、朝倉家当代の朝倉義景と朝倉一門衆は、織田信長の書状を無視する。 当然だが、返事も出さなかった。 この対応によって織田信長は、面子を潰されたと言っていい。 しかし朝倉家は、織田家に対しては兎も角、足利義昭に対しては表立って対立はしていない。 その為、織田信長に朝倉家を討つ大義名分が無かったのだ。
そこで別の理由を用意し、その過程で朝倉家を討伐するという考えを持っていたのである。 この通し矢は、その別の理由の為の景気づけであった。
「ふむ……通し矢のう」
「拙者は、来月にも幕府に反抗的な態度を示す若狭の武藤友益を討ちます。 出陣に際し、味方を盛り上げようかと思います」
「なるほど。 その様な理由か。 そう言えば藤孝が、義頼の弓の腕は自分など相手にもならないと言っておった。 承禎も、音に聞こえた弓の使い手であったな。 良かろう、折角の誘いじゃ赴くぞ」
こうして、足利義昭も見聞する通し矢が行われる事となった
それから一週間後、京の蓮華王院の本堂にて通し矢が行われたのである。 織田信長や織田家と同盟関係にある浅井家当主である浅井長政、他にも徳川家当主である徳川家康や足利義昭などが参列している。 他には、何故か武家伝奏である公家の飛鳥井雅教が居た。
中々に豪華な面子が揃った中で始まった通し矢は、蓮華王院本堂西側の軒下を使用して行われる。 その内容は義頼と六角承禎と吉田重高が、織田信長が用意した矢を本堂軒下の端から反対側の端に据え付けられた的を射抜くというものであった。
連射や撃った矢の数を競っている訳では無いので、矢数こそ決して多いと言う物ではない。 またあくまで出陣に際する行事的意味合いも持っていたので、後に開催された通し矢の様に一昼夜かけて行うという様な類の物でもなかった。
しかしながら、矢を放つ三人が長時間に渡って集中しなければならない事に代わりは無い。 その為かはたまた別の理由か、見学の者達も三人が放つ矢の結果に一喜一憂していた。
午前中から始まった通し矢は、その日の夕刻近くまでかけて行われる。 日暮れ近くまで行われた後で終了した通し矢の命中率だが、六角承禎と吉田重高が凡そ七割弱。 そして義頼は、実に七割を超え八割に迫る数値を叩きだしていた。
流石にこれだけの時間集中して射ていた三人であり、心身ともに疲労している。 だが武家の者として、日置流免許皆伝を持つ者として、面子に掛けて倒れる様な無様な真似はしなかった。
彼ら三人は確りとした礼節を行いつつ、なるたけ颯爽に下がったのである。 その仕草に、見学した者達から惜しみない賞賛が与えられていた。
何はともあれ、主催した織田信長も実際に射た三人も面目を晴らしたと言える結果を残したのであった。
「義頼、承禎、重高。 褒美を取らすぞ」
『ははっ』
通し矢の終わった数日後、義頼と六角承禎と吉田重高は織田信長と面会している。 その席で六角承禎と吉田重高は、中々の業物と思われる弓を与えられている。 そして義頼には、何と雷上動の弓が与えられた。
雷上動は大江山の酒呑童子や土蜘蛛退治の説話を持つ源頼光が天女より授かったと言われる弓であり、また鵺退治の説話を持つ源頼政が愛用したと言われている弓である。 これは此度の上洛の際、織田信長へさる者から献上された代物であった。
雷上動の真偽はひとまず置いておくとして、摂津源氏と近江源氏という違いはあるものの同じ源氏の末として無碍に扱うなど埒の外である。 義頼は、押しいただく様に雷上動の弓を受け取っていた。
「それと、そなたらに別に話が有る。 実は、その方らに武家故実の話が来ているのだ」
これこそが、あの通し矢を行った蓮華王院に飛鳥井雅教が居た理由であった。
実は今、京にて武家故実(弓馬故実)を中心をなしていた京都小笠原氏が没落しており、武家故実を担う者が居ないのである。 また小笠原氏の本家筋に当たる信濃小笠原家も没落しており、今は越後の上杉家の庇護下にある。 そこで小笠原家に変わる存在として、日置流に武家故実を担う資格が足るかを確認しに来たという意味があったのであった。
「武家故実といいますと、あの武家故実でございますか?」
「うむ、その武家故実だ」
「……少し猶予を戴けますか?」
「あまり時間を掛けないのであるならばな」
信長から多少の猶予を貰った義頼達は、宿泊所としている角倉了以の屋敷へと戻る。 三人は相談する為に部屋に入ると、早速吉田重高は義頼と六角承禎へ武家故実就任について尋ねていた。
しかし義頼は、受ける気はないので即座に武家故実就任を遠慮する。 彼には、織田家中に置いて六角家を再興させる目的がある。 その目的を半ばで放り出すなど、埒外であった。
そんな彼の態度を見て、六角承禎は苦笑を浮かべる。 実は彼の対応は、ある程度予測していたのである。 その予測通りであった為に、彼は苦笑を浮かべたのであった。
「まぁ、義頼ならそう言うと思ったがな。 となれば、俺か重高となるか……よし、俺が受ける」
長考の後、六角承禎が手を上げる。 すると、吉田重高が口を開いた。
「ならば、我が弟に承禎様の補佐をさせましょう」
「その方の弟?」
「はい。 京には、拙者の弟である重勝がおりますので」
義頼は、吉田重高の弟となる吉田重勝の名に覚えがある。 だが何処でと聞かれると直ぐには答えられない、そんなおぼろげな記憶であった。
そんな義頼とそして京に残る事になるであろう六角承禎に対して、吉田重高は京に在住している弟について語っていく。 彼の話では、日置流の失伝を恐れた日置流先々代当主である吉田重政が奥義を授けて近江国より送りだした為だと言うのだ。
その話を聞くと、六角承禎がばつが悪そうな顔になる。 と言うのも、吉田重勝が京に居る理由に係わっているからであった。 六角承禎は一時、日置流の当代となっている。 実は吉田重高の先代は、六角承禎が務めていたのだ。 実はこれには経緯があり、吉田重高の父にして当時の日置流当代であった吉田重政は承禎の要請を一度は断っている。 しかし、これが六角承禎と吉田重政の間で騒動へと発展した。
その為、吉田重政は六角家を離れて朝倉家に身を寄せるという判断をしている。 だが両者は後に、朝倉家の仲介もあり和解した。 その和解内容だが、六角承禎が吉田重政の養子となったのである。 こうする事で、六角承禎が日置流を継ぐと言う体裁を整えたのだ。
その後、養子縁組の際に約束した通り吉田重政の息子である吉田重高に六角承禎が日置流の返伝を行う。 此処で漸く、六角家と吉田家の騒動は落着したのだ。
しかし必ずしも返伝されるとは限らなかったので、吉田重政は万が一を考えて吉田重勝にも日置流奥義を伝授して畿内へと送り出したのである。 その吉田重勝は、京に行くとそこで居を定めたのであった。
「なるほど。 兄上から話に聞いた事はあったが、まさかその一件が原因でその方の兄弟が畿内に移り住んでいたとはな」
「はい。 それに重勝は、幕府重臣の方にも手解きを行ったと言っておりました。 そちらの面でも、問題はないと思われます」
そんな吉田重高の言葉で、義頼は漸く吉田重勝の名前をどこで聞いたのかを思い出した。
その名が誰の口から出たのかと言うと、細川藤孝からだったのである。 彼が足利義昭と共にまだ近江国に居た頃、話を聞いていたのだ。
それは、まだ足利義輝が健在であった頃の話しである。 細川藤孝は、その頃に日置流の手ほどきを受けた事があるのだ。 その手ほどきをした相手と言うのが、吉田重勝なのである。 その話を聞いて吉田重高は、義頼が吉田重勝を知っていた事にいささか驚きを表したのであった。
何であれ話し合いの結果、六角承禎が武家故実を拝命する事に決まる。 翌日、義頼と六角承禎と吉田重高は織田信長に面会すると、昨日話し合った内容を伝える。 しかし信長は一つ首を振ると、許可を出さなかった。
「その方らが勧めるのであるのだから、その重勝なる者の腕は信用出来るのであろう。 だが、実際に見せねば納得など出来ぬ。 それは、飛鳥井殿とで同じであろう。 その吉田重勝なる者の腕、しかと見せてもらうぞ」
とは言え、直ぐにという訳にはいかない。 話は、織田家内だけの事ではないからである。 調整の結果、翌週に吉田重勝の腕試しを行う事に決まった。
ただ、流石に同じ場所でとはいかない。 そこで蓮華王院の本堂とは違う別の場所で、当日行われた矢通しと同じだけの頼を設定する。 そこで吉田重勝は、飛鳥井雅教の前で日置流の腕前を披露してみせた。
吉田重勝の叩きだした命中度は、六角承禎や吉田重高とほぼ同じとなる七割程度である。 義頼よりは劣るとは言え、その腕前は確かであると言えた。 また彼は義頼達と同様に、確りとした礼節を弁えている。 これならばと、飛鳥井雅教も納得する。 こうして六角承禎は武家故実として、吉田重勝はその補佐として京に残る事になったのであった。
なお京に残る六角承禎には、山中長俊と篠山資家が配下の甲賀衆と共に着けられる事になる。 これは、六角承禎が言い出した事が切欠であった。
京に残る事となる彼が、京及び畿内の情報収集を行うと言い出したのである。 そこで兄の警護も兼ねて義頼は、六角承禎の言葉通り甲賀衆を京の彼の元に配する事にしたのだった。
承禎が武家故実となりましたが、やや展開が早かったかもしれません。
ご一読いただき、ありがとうございました。




