第43話 アニェスと、書いてございます
辺境へ戻りましたのは、七月の初めでございました。留守のあいだの布は、何ごともございません。
蔵の櫃は、六月の晴れて三日目に開けて風を通してございました。二階の東の部屋は、昼に半刻。工房の窓は朝のうちだけ。
寝かせ糸の札には、裏に別の字で日が書き足してございます。グレーテの字でございます。混ざらないように、裏へ書いてくださいました。
書き出した十九のうち、十九とも、そのとおりになっておりました。
◇
夏の仕事は、秋の支度でございます。冬に耐える型で、褥布を四組。屋敷の寝具の入れ替えが十七組のうち六組。それから、村の依頼が残り六人。
ローゼ様は、宿場でお降りになりました。降りられる前に、荷馬車の上でこうおっしゃいます。
「奥様。荷は、明後日でございます。今度は、早すぎませんでした」
◇
八月の終わりに、王都から一通まいりました。封蝋は、王都商工裁定所の印でございます。
中は二枚。一枚は、書付でございました。
<ブルーメ工房名義の登録三十七件につき、書き直しを了した。>
<内訳、十一件は届け出のあった者の名へ改める。二十六件は帳のとおり、届け出た者の名へ合わせる。>
<組合名義となるものは、なし。>
もう一枚は、写しでございました。帳の写しでございます。四十番から五十一番までの十一行。
わたしは、工房の卓に置いて、灯りを左の斜め下へ寄せました。字は、細うございます。行の間隔が、上から下まで同じでございました。
ヴァイス様の手でございます。
◇
四十番。
褥布の芯の留め方。四隅から三寸に四つ。届け出、二十九年前。
ローゼ。
四十一番。肌着の脇の縫い代。届け出、二十八年前。
名前がございました。存じ上げない名前でございます。四年前に亡くなった方でございました。
四十二番から、順に読みました。九つの名前が、そこにございます。
二十二年前に亡くなった方。十九年前。十七年前。十四年前。九年前がお二人。六年前。四年前。
どなたも、ご自分の名前が帳に載ったことをご存じございません。載りましたのは、形と、寸法と、届け出の年と、名前でございます。それだけでございます。
その方が何を考えて四つに決めたのか、五つでは硬いと分かるまでに何度縫ったのか、そういうことは一行も載っておりません。
載らないものが本体でございます。載るのは、名前だけでございます。
それでも、名前がないところに、その方はおられません。
◇
四十七番。
縫い取り。脇の下から三寸。返し三度。糸は本体より一段細く。結び目は左。届け出、二十四年前。
◇
アニェス。
姓は、ございませんでした。工房におりました頃、母は姓を書きません。控えの八枚目にも、姓はございませんでした。
ヴァイス様は、控えのとおりに写しておられます。
わたしは、その一行を、しばらく見ておりました。十一年前の十月三の日に、この行にはブルーメ工房と書いてございました。
いま、アニェスと書いてございます。
二枚目の裏に、一行だけ書き添えてございました。ホルスト様の字でございます。
<リンデ・ヴィルマは、当所の求めにより、三十七件の書き直しに立ち会っておる。>
◇
三通目は、九月に入ってからまいりました。組合の印でございます。細い字でございました。
<書き直しを了しました。>
<四十七番は、アニェス名義となっております。届け出人がすでに物故しておりますので、承継の届け出をなさいますれば、奥様の名で登録が移ります。>
<書式はこちらで整えます。ご負担はございません。>
その下に、もう一段ございました。
<別件でございます。>
<貴領の冬支度の型につき、当方より一つお願いがございます。>
<糸を寝かせて撚りを落とす仕立て、芯地を二枚に分けて留める仕立て、板を打つ室の布の移し方。この三つは、王都の帳のどこにもございません。>
<奥様のお名前で、届け出をなさいませんか。>
わたしは、その手紙を三度読みました。三度読んで、抽斗へ入れます。
実家からの三通と、春の二通の隣でございます。抽斗は、まだ引っかかります。削っておりません。
◇
返事は、その晩に書きました。書かないと決めておりましたのは、実家のことでございます。この方には、書きます。
<四十七番の承継は、いたしません。>
<あの行は、母の名で置いておいてください。>
<母は、あの形を自分で決めました。決めましたのは母でございます。わたしは教わっただけでございます。教わった者が名を継ぎますと、決めた者の名が消えます。>
<十一年前に一度、消えております。二度は要りません。>
それから、二枚目にこう書きました。
<辺境の型につきましては、いま少しお待ちください。>
<糸を寝かせる技は、女中頭のグレーテのお母上から出たものでございます。芯地を二枚に分けますのは、わたしが去年の冬に考えました。板を打つ室の布の移し方は、三年前から屋敷でやっていたことに、わたしが順を足しただけでございます。>
<どこまでがわたしのもので、どこからがこの土地のものか、まだ分けられておりません。>
<分けられないものに、一人の名前をつけることはいたしません。>
◇
<分けてから、また申し上げます。>
封をして、朝の荷に載せました。荷は、宿場で積み替えます。積み替えの控えを書かれるのは、ローゼ様でございます。
九月の末でございました。婚礼から、一年でございます。
旦那様が、工房へ来られました。卓の上に、帳の写しが置いてございます。灯りは左の斜め下。
旦那様は、写しを取り上げられました。裏を返されます。
裏は白でございます。ホルスト様の一行があるだけでございました。
「四十七番だな」
「はい」
「おまえの名ではない」
「はい」
旦那様は、写しを卓へ戻されました。戻してから、こうおっしゃいます。
「一年前、おまえは自分の名前で縫った」
「はい」
「今年は、書かなかった」
「はい」
「なぜだ」
わたしは、少し考えました。考えて、こう申しました。
「去年は、わたしが縫ったものでございました」
「うむ」
「今年は、母が縫ったものでございます」
旦那様は、それきり何もおっしゃいませんでした。窓のところまで行かれて、外をご覧になっております。
しばらくして、こうおっしゃいました。
「風が下りてきた」
「まだ九月でございます」
「早い年だ。半月で打つことになる」
◇
板を打つ日は、前の晩に決まります。風の音が低くなって、間が長くなる。あの音が来た翌朝でございます。
板を打つ前に、挟む布を裁ちます。去年の羊毛は、干してしまってございます。今年もそれを使います。幅は窓枠より二分だけ広く。折り目は下向き。打つ順は下から上。
去年、これをグレーテに言われずに済ませられませんでした。今年は、こちらから先に申しました。
「奥様。それは、去年のうちに言うものでございますよ」
「今年は、去年のうちに申しております」
「そうでしたか」
そうでした、ではございません。ご存じで言っておられます。
◇
わたしは、寝かせ糸の棚を見に行きました。十九枷。今年は白が十六。染めに回すものが三。
四十日の札が、二十七枷ぶん下がっております。裏には、グレーテの字が書き足してございました。
棚のいちばん下に、母の道具箱がございます。底板を起こしました。
空きは、空いたままでございます。長さ一尺、幅三寸。
十四枚は、王都にございます。裁定所が預かっておられます。帳の裏付けでございますので、返ってまいりません。
わたしは、その空きへ手を入れました。入れて、底を撫でます。
二十三年、ここに入っておりました。入れたのは、二十四のときの母でございます。
底板を戻して、蓋を閉めました。留め金の爪は、まだ曲がったままでございます。
ドロテアさんに預ければ、半日で直ります。わたしは、明日お預けしようと思いました。
◇
工房の灯りを落として、廊下へ出ました。窓の外は暗く、遠くで水の音がしております。
風が、低うございました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
第二部、これで終わりでございます。ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
母が持ち出したのは、十四人ぶんの控えでございました。二十三年、褥布の芯地の中にございました。母は誰にも渡さず、写しも取らず、そのまま亡くなりました。渡さなければ、なくなりません。なくなりませんが、増えもいたしません。
それでも、あの十四枚が残っていたから、九人の名前が帳に載りました。
無署名の仕事に、署名は残っていたのか。残っておりました。控えを取った人が、いたからでございます。
ユーリアは、自分の名前を帳に載せませんでした。母の行を、母の名前のままにしておくためでございます。そして、自分の型については「まだ分けられていない」と書いて返しました。
分けられたときに、何と書くのか。それは、まだ決まっておりません。
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